4.
十文字聖という日本人が来訪して二日後、事件は起きた。
エインズワース家の馬車が往来で横転したのだ。原因は車輪が外れかけていたらしく、角を曲がったときに外れたらしい。乗っていたダグラス・エインズワースとエドワード・キンドリーだった。二人に大した怪我はなく、馭者も無事であった。
アリアはその知らせにほっとしたのも束の間――次の日には侍女が買い物中にひったくりにあい、そしてヒルダが高熱を出して、倒れてしまった。余談だが、そのおかげでアリアは外出ができなかった。
なにやら周囲で不吉なことばかりが起こる。
アリアは不安になった。だけど自分にできることはない。ヒルダの看病ぐらいしかできなかった。
そのときアリアは思い出す。五日前に出会った日本人のことを。
「ジャキ……とか言ってたわね」
その言葉に引っかかった。聖はダグラスが買い取った打刀を見て、顔を強張らせた。理由はわからないが、彼の態度が一変したのはそのときだった。
「……じゃき? ジャキ? ジャッキ?」
廊下でぶつぶつと呟くアリア。気づけば側でエドワードが苛立ったふうに眉根を寄せていた。いつも笑顔の彼にしては珍しい。しかしそれは仕方のないことで、この数日良いことが一つもないのだから。彼も先日の事故で、額に包帯を巻いている。
一応、声を掛けてみた。
「大丈夫? 顔青いよ?」
「平気ですよ、ヒルダのように倒れるわけにはいきませんから」
エドワードは笑顔を浮かべた。
「なら、いいんだけど……」
「私のことより、お嬢様もお気をつけください。具合が悪くなった場合はすぐに知らせくださいね」
「わかってるわよ」
アリアは唇の端を上げる。するとエドワードは咳払いをして尋ねてきた。
「お嬢様。さきほどの言葉は……あの日本人のものですか?」
「ん、そうだけど……何かあるの?」
「いえ、ただ、不思議な方だったので、私は……その、苦手でした」
エドワードは目を逸らして答えた。
恐らく、彼も十文字聖を快く思ってないのだ。しかしあの男は一応、主人が招いた客人である。はっきりと言葉にするのは、はばかれるのだろう。
彼の瞳が不満げに揺れている。そんな彼にアリアは肩を狭めてうつむいた。
「やっぱり私のせいかな」
「え?」
「だって私があの人連れてきたわけだし、あの人がいなくなってから、みんな怪我したりしてるわけだし……」
「何をおっしゃっているんですか。お嬢様」
エドワードは咎めるような声で言い、腰をかがめて目線を合わせる。顎を上げるとエドワードの青い瞳が優しく輝いていた。
「あなたのせいなどと一度も思ったことはございません。そして呪いのようなことはありません。これは神がお与えになる試練です」
彼はどこかいたずらっぽく笑う。
「これまで上手く行っていたんです、不吉なことぐらいおきますよ。神が我々を見放すことはありません。大丈夫です」
悲しいときや落ち込んだときは、エドワードがいつもなぐさめてくれる。その甘いマスクと声のおかげか、沈んだ心は温かくなる。今はちょっと恥ずかしくなるけど。
アリアはくすりと笑った。
「ありがとう、エド」
「礼には及びません」
微笑み返す彼。アリアはぐっと伸びをした。
「そうよね、落ち込んでてもしょうがないっ。なるようにしかならないっ」
「その通りです」
「だいたい、いきなり帰るのは失礼よね。私、何も教えてもらってないのに。いろいろと聞きたかったなぁ」
「……そこですか?」
ヒルダ同様、エドワードまでも怪訝な顔をした。そんなに自分の言っていることはおかしいだろうか?
首を捻っていると、エドワードは居ずまいを正して言う。
「ともかく、お体を大切に。まぁ、当分は外出はできませんが」
「えー、つまんなーい」
「こればかりは仕方ありませんね」
エドワードは苦笑交じりに答えた。
「それでは、私は仕事に戻ります」
「気をつけてね、エド」
「はい、お嬢様こそ」
エドワードは会釈をして行ってしまった。
その後ろ姿を見つめ、アリアは呟いた。
「……カタナ、か」
* * *
その夜。
アリアは寝巻姿でリビングルームに静かに入った。暗がりの中、手に持つ燭台がか細い光がアリアの顔を照らす。バルコニーの向こうから月明かりが差し込み、部屋が青白く染まっている。
やや強張った表情をする彼女は恐る恐るとリビングへ足を踏み入れる。
向かうのは暖炉の反対側の壁にある刀掛台。それは綺麗に磨き上げられた棚の上に置かれてある。刀掛台には五日前に父が買い取った、一振りの刀が寝かせてあった。
アリアは棚の前で立ち止まる。
この五日間の災厄がこの刀のせいだと疑っている。我ながら突拍子もなく、呆れて笑ってしまう。自分の行動は不可解極まりない。
だけど。
――邪気を、感じる。
彼の一言はなかなか脳裏から離れない。
この刀には、何かあるのかもしれない。
アリアは検めて打刀を見つめる。
特にこだわった意匠はない。無骨な黒塗りの鞘で、重厚な柄巻がされてある。鞘に収まった状態では美を感じられなかった。
こくり、と喉を鳴らしてゆっくりと打刀へ手を伸ばす。緊張が高まり、手汗がひどい。心臓もうるさいぐらいに高鳴る。
――大丈夫。何も起こらない、何も怖くない。
アリアはそう言い聞かせて鞘を掴んだ。
刀は思った以上に重たかった。小さく悲鳴を上げ、震えた腕で捧げ持つように柄をぐっと握って一気に引き抜いた。
緩く湾曲した刃が月明かりに照らし出され、青白く光る。滑らかな刀身は一切の凹凸がなく、美しい。刀身そのものに特に装飾はなく、やはりただの刀だった。
「……」
しかし、これもナイフの類である。人を傷つける道具だ。このような代物で日本人は、十年前まで戦争をしていたのだ。
「もったいない」
アリアは息を吐くように呟いた。
しばし見惚れていると眠くなってきた。
「……ん」
急激な眠気に襲われる。
思考が鈍り、ゆっくりと瞼が落ちる。
アリアはあっさりと意識を手放した。