2.
「いやー、食った食った。ごちそうさま!」
場所は変わり、ここはエインズワース家の邸宅。そのダイニングルーム。大きな卓の上には空っぽの皿がいくつも並んでいる。その前に座る男は笑顔で両手を合わせた。
のっぺりとした顔立ちで締まりのない表情。寝癖交じりの黒髪と同じ色をした瞳。これまた同じ色をした外套と蘭服、卓の端には警官が被るような四角い帽子が置かれていた。
全身黒ずくめの男はにこにことして、こちらに目を移した。
「ありがとうございました。あのままじゃあ、空腹で死んでたよ」
男はニッポン人なので当然ニッポン語で言った。すると難しい顔をするこちらに気づいたのか、男は眉尻を下げた。
「あ、言葉わかんねーよな。……えっと、サンキューベリーマッチ?」
「大丈夫よ。私はそれなりに理解できるし、喋れるわ」
と、答えたのはこのエインズワース家の娘。金髪碧眼の少女。そして彼を助けた張本人。アリア・エインズワースは男と向かい側の席に座って微笑を浮かべた。
「ニッポン語で良いわよ、おサムライさん」
「達者だなぁ、娘さんは」
流暢な日本語に日本人の男は舌を巻く。
「せっかく滞在しているのだから、言葉ぐらい憶えないと、ねぇ? ヒルダ」
「そうですね……」
彼女の隣に控えるエインズワース家の使用人、ヒルダ・キンドリーは肩を落とした。心なしか、括られた茶髪がしおれる。ヒルダはまだ日本語を覚えきれていない。すぐに覚えてしまう主人がおかしいと言えばそうなのだが、しかし当分はニッポンに滞在する。覚えておいて損はない。
「ニホン語、……で、できル……」
呟いた言葉はなんとも拙く、ヒルダは恥ずかしくて顔をうつむかせた。
くすくすと笑うアリアは男に話しかける。
「名前を聞かせてもらえる?」
「俺は十文字聖。助けていただいて感謝するよ、異人さん」
「ジ、ジュウモンジ、セイ……うん、覚えた。私はアリア・エインズワース。お父様が貿易商をやっていて今は神戸に滞在してるの。当分はここにいるわ」
アリアは自己紹介をして次にヒルダを指した。
「こっちは使用人のヒルダ・キンドリー。冷たいけど悪い子じゃないから」
その紹介に一言言いたいところだが一応客人の前なので、静かに会釈をした。
すると十文字聖は立ち上がり、再びアリアにお辞儀した。
「アリアさんにヒルダさん、本当に助かった。ありがとう」
「良いのよ、別に」
アリアは目の前にあるカップを手に取る。聖が食事中に持って来させた紅茶だ。一口喫して唇を湿らしてから、アリアは口を開いた。
「ねぇ。セイは、サムライという人なの?」
やっぱりか、ヒルダは小さく息を吐いた。
アリア・エインズワースは知識欲の化け物である。こうして十文字聖と名乗る日本人を助けたのも彼から日本の慣習を訊き出そうと思ったにほかならない。
別にアリアを非難するわけではない、ヒルダは彼女の使用人なのだから。しかし、素性の知らない者を屋敷に招くことには抵抗がある。それも白人でない人間を。
「……侍?」
アリアの質問に聖はきょとんとする。そして自分の右側に立て掛けられてあるモノを見て納得した。
「あぁ、これか。だから侍ね」
頷き、聖はそれを掴んだ。それは黒色の、シンプルな鞘に収められた一切の歪みがない真っ直ぐな刃物――。
「刀を見るのは初めてか?」
「うん!」
笑顔のアリアに聖は微笑んだ。改めて彼の容貌を見れば、なかなかに整った顔立ちをしている。
聖はフランクに話す。
「確かにこのご時世、刀を持つ人は少ない。持ってると捕まるからなぁ」
二年ほど前に日本政府は廃刀令を公布した。内容を端的に言えば、一般人の武器所持の禁止である。しかしこの法令は日本人には酷なものだったようで、各地で反乱が起こった。
日本人の風習を知らない外国人からしてみれば詮無きことではあるが、目の前にいる男は日本人だ。思うところがあるのだろう、聖は苦笑交じりに言う。
「だけど、みんながみんな侍じゃない。刀は武士の魂とか言うけど、俺はそういうものに縛られてないし」
「だったらどうして持っているの?」
「護身用。世は何かと物騒だから」
護身用とはいえ所持するのは些か問題がなかろうか。そんな疑問がよぎったが、アリアがこちらへ目を向けて小首を傾げた。
「ねぇねぇ、カタナって真っ直ぐなものだったっけ?」
「こういうものなんだ。直刀って言うんだけど、まぁ、珍しいものに変わりはないな」
答えると、聖は直刀を鞘から抜いた。
微かに聞こえる鞘走りの音。
びっくりするこちらを見向きもせず、聖は直刀を天井に掲げた。
直刀はその名の通り、反りのない、気持ちのいいほど真っ直ぐなフォルム。窓から差し込む陽光に反射して、刃は美しく輝く。
「キレイ……」
アリアは見惚れた。ヒルダも同様にその美しさに感嘆の息を吐く。
この時代、日本刀は美術品として海外で人気であった。
緩やかに弧を描く反り。刀身を波打つように走る刃文。鍔の透かし。柄の装飾。どれも美意識をくすぐられる。アリアの父も売買品として刀を扱うときもある。湾曲していないのが残念だが、この聖の所持する刀も高値で売れるだろう。
すると聖は苦々しく笑った。
それに気づかなかったアリアは楽しそうに卓へ身を乗り出した。
「私はニッポンのことを知りたいの」
「日本の……?」
「いろいろ教えて。なんでもいいの。言葉、文化、歴史……勉強はしてきたけどやっぱり、ニッポン人のあなたからニッポンのことを訊きたいわ」
どうかしら? とはにかむアリア。
聖は戸惑った様子で彼女を見やり、やがて柔らかく笑む。手にしていた直刀をゆっくりと鞘に収めた。
「一食の恩義がある。それぐらいお安い御用さ」
「ありがとう、セイ!」
最後は英語であった。アリアは席を立って聖の空いている手を握った。びっくりする聖――ヒルダはいろんな意味で驚いた――であったが、嫌な顔一つせずに微笑み返した。
「…………」
ヒルダはそれを忌々しく眺めた。
相変わらず主人の行動には驚かされると同時に清々しくも思う。アクティブな彼女をいさめるのもいい加減面倒くさくなる。いさめて大人しくなったことは今まで一度もないが。
それでも、そろそろ落ち着いてほしいと思う。黙っていれば、どこぞの貴族にも引けを取らない美貌を持つというのに。
――それに。
ヒルダは笑顔の主人を見つめる。
日本人風情に請わなくても、情報ぐらい自分が手に入れるのに。
「失礼致します」
そのとき侍女が部屋に入ってきた。ヒルダが振り返ると、彼女は楚々と近づいて耳打ちした。
「……旦那様がお帰りになられましたよ」
「あ、ありがとうございます」
それに気づいたアリアは首を傾げる。
「どうしたのヒルダ?」
「お父上様が今ご帰宅なされました」
「そう……だったら私の部屋で話しましょう? セイ」
と、アリアは聖に言った。
「ハァッ!?」
ヒルダはこれでもかと目を見開いた。悲鳴に顔をしかめたアリアは口を尖らせる。
「なによ。何か文句でもあるの、ヒルダ?」
「あっ、当たり前ですっ! 会って間もないオトコを部屋に連れ込むなんて……っ、馬鹿なこと言わないでくださいっ!」
「ヒルダ、どうして顔赤いの?」
「そ、そんなことありませんっ!」
ぶんぶんと顔を振って否定したとき、ダイニングルームの扉がコンコンコンと叩かれた。
「ふふ、今日は一段と賑やかだね」
振り返ると青年が微笑んでいた。
歳は二十前半。白いシャツに黒いベスト。すらりと高い背丈。柔和に整った顔立ちで高い鼻梁。青い瞳は優しげに輝き、こちらを捉えていた。ヒルダは彼の登場に少し慄く。
「に、兄さん……」
「あら、エド。帰ったの」
「さきほど、連絡をしたかと存じますが」
アリアにエドと呼ばれた青年は形の良い眉を下げる。彼はエドワード・キンドリー。エインズワース家の使用人であり、ヒルダの兄でもある。
「お父様は?」
「旦那様はまだ玄関の方に。私は先に失礼させていただきました」
アリアの質問をエドワードは返し、そして綺麗な青い目を動かす。その目はこの場のイレギュラーに止まった。言わずもがな、全身黒ずくめのニッポン人――十文字聖だ。
「彼は……?」
「……空腹で倒れていたところを、アリアお嬢様がお助けになったんだ」
ため息交じりにヒルダが答えた。
するとエドワードは苦笑いを浮かべた。彼もまたエインズワース家の使用人だからこそアリアの人柄を熟知している。だからそのような顔ができるのだ。
しかしすぐに笑みを浮かべる。エドワードは聖に歩み寄り、胸に手を当て、アリアより少し拙い日本語で挨拶した。
「初めまして。私はエドワード・キンドリーと言います。ようこそ、エインズワース邸へ」
「異人さんはすげーなぁ、日本語ペラペラじゃん」
「これでも旦那様の秘書を務めております。旦那様の影響で、日本語の他に、仏蘭西語、独逸語、清語。……あとは印度の言葉も少しできます」
エドワードは気恥ずかしそうに笑った。
聖はぽかんとして口を開けて立ち尽くしていて、エドワードに握手を求められても硬直している。不思議に思ったエドワードは話しかけた。
「ハンドシェイクを知りませんか? 挨拶というものです」
「え? あー、挨拶ね。こんにちは」
「ええ、こんにちは」
握手を返され、エドワードは爽やかな笑顔をつくった。
そんな彼に聖は苦笑いを浮かべて言った。
「ここの家主が帰ってきたなら挨拶がしたいんだけど、いいかな?」
「もちろんです、それではリビングへ。……ヒルダ、案内してやれよ」
「私が……なんで……」
「なんだ、その嫌そうな顔は。彼は客人だろ」
「そ、そうだけど……」
ヒルダは兄から目を逸らす。乗り気がしないのは正直なところである。だって得体が知れないニッポン人だし、主人は親しげにするし。……なんだか面白くない。
そんな彼女にアリアは首を傾げる。
「変なヒルダ。セイ、リビングはこっちよ」
と、彼女は聖の手を引いてダイニングルームを出て行く。その光景に思わず悲鳴が上がりそうになったのを、行動で殺した。聖の空いた左手を掴んだのだ。びっくりして振り返る二人にヒルダは早口に言う。
「そのような雑用は自分が致しますっ」
「……あら、そう?」
アリアはきょとんして目を瞬き、聖はアリアとヒルダを交互に見やり、笑う。
「両手に花とは嬉しいなぁ」
「黙れ」
もちろんヒルダには聖の言葉はわからなかったが、彼の笑みには無性に腹が立ったのだ。
同様に言葉は通じない聖だが、ヒルダの剣幕に押されたか顔を引きつらせた。
「こ、怖いんだけど、ヒルダさん……」
2015年8月26日:誤字修正