1.
潮の香り、海鳥の鳴き声、晴天の空に輝く太陽。
目に映る景色には大きな蒸気船と小さな木船、煉瓦造りの建物、木造の家屋。往来を行くのは和服の日本人や洋服の異国人の姿と様々であった。
眺望する景色はどれも美しく、珍しいもので溢れていた。
「ニッポンってキレイなところだと思わない?」
馬車の窓から流れる景色を眺めながら少女は言った。碧眼の瞳を好奇心で輝かせ、窓に張りついて興奮気味である。ドレスの裾がせわしなくはためく。少女は美しいブロンドの髪を揺らして、自分の前に座っている女性に目をやった。
「ねぇ、ヒルダ」
呼ばれた彼女は読んでいた書物から目を上げる。
歳は少女と同じぐらい。見目の良い面。頭の後ろでひと括りにした栗色の長髪。女性なのにネクタイにスーツといった出で立ちで、その服装には一切の乱れがない。ヒルダと呼ばれた女性はややつり目の眼差しを動かした。すると彼女はため息を一つ。
「お嬢様、車内ではお静かに。はしたないですよ」
「なによ。私はそんな答え、望んでないわ」
「そうですね、キレイですねここは」
「棒読みはやめなさい」
少女は頬を膨らませた。憤然と腕を組み、顔を背ける。そんな彼女にヒルダはますます呆れた様子で、手にしていた書物を閉じた。
「自分は本国のほうが好きです。わざわざ東の端の辺境まで赴き、商いをする理由がわかりません」
「あら、ヒルダ。今の言葉、お父様に報告していいかしら?」
すると彼女は目を瞬き、にこりと笑った。
「今のは旦那様を批判したのではありません。旦那様の才覚は秀でたものです。不況の印度を見限って清へ向かい、すぐさまこのニッポンに目をつけられた。旦那様の慧眼にはひどく感服致します」
「減らず口め」
憎まれ口を叩くが、ヒルダは素知らぬ顔をして口を閉じようとしない。
「自分は、代々エインズワース家に仕えるキンドリー家の者として端的な意見を述べただけで、大意はございませんよ」
「ほんと、口と剣の腕は無駄に達者ね。黙ってれば可愛いのに、どうしてこう……」
脱力した。
外出時は基本ヒルダと一緒だ。それは彼女が護身術に精通しているからである。剣や銃の扱いに長けておりアリアの護衛も務めているのだ。無論、一般人が長物を所持するわけにもいかず、ヒルダは腰に短剣、左胸ポケットに拳銃を隠している。
しかし性格は冷たく、達観としている。冗句の一つも言わないし、感情を表に出すことはあまりない。淡々と話す様は人形のようでつまらない。幼い頃から一緒にいるが昔はこんな子じゃなかったはず……。
彼女はむすっとして窓の外を眺める。
「ですから。アリアお嬢様」
「なによ」
少女――アリアは顔をそむけたまま答える。
「あなたはエインズワース家の息女として、正しい振る舞いをなさってください」
「あっ! あれ! ヒルダ、あの人傘の上でボール回してるよっ!」
「言ったそばから……!」
どこか怒気を含んだヒルダの声はもちろん、アリアには聞こえなかった。
アリア・エインズワースは貿易商の父親を持つ令嬢である。歳は十六。一本一本櫛目の通ったブロンドの髪に、ぱっちりとした大きな青色の瞳。目鼻も整っており、見目麗しい少女である。
しかし、好奇心旺盛でそそっかしい性格である。どんな小さなことでも興味を持ち、知りたがる。無論、この極東の地にも関心を持った。
どんなところだろう? 民衆はどんな生活をしているのだろう? 言語は? 風習は? と言ったふうに探究心をかき出す。
そんな破天荒な娘を誰も止めることができず、アリアの父もお手上げの状態で日本の滞在を認可された。父親が娘に甘いというのも否めないが。
――十九世紀後半。
東アジアは交易活動の中心であった。列強諸国は東アジアの貿易覇権を争い、競い合っていた。
そんな中、東洋に浮かぶ島国――日本は動乱を迎えた。
国政をめぐって多くの人命を失い、新しい日本政府が出来上がった。
港が次々と開かれ、外国人も来航し、日本は世界と繋がるようになった。
ここ、神戸港もその一つだ。
砂地と畑地であった小さな村は数年で、大きな港町へと変貌を遂げた。今は外国人居留地となり、外国人の住居や通商をする屋敷が立ち並んでいる。
西暦は一八七八年、日本の元号で表すと明治十一年。御一新がなされ十一年が経ち、港町は今もなお発展をし続けている。
その外国人居留地の一角でアリア・エインズワースは手を叩いていた。
「すごーい!」
演者が声を上げると、毬や升を傘の上で綺麗に回して見せていた。
彼女の目に映るのはさきほど馬車上から見た大道芸。もっと近くで見たいからと言って、馬車から下ろしてもらったのだ。
ここは外国人居留地なので、パチパチと拍手する異人を気に留める人間はいない。しかしアリアの隣に控えるヒルダは不機嫌に懐中時計に目をやる。
「お嬢様、そろそろ帰りますよ」
「え~、もっと見たい」
「駄々をこねないでください。旦那様がおかえりになる時間です。屋敷にお戻りになられて、身だしなみを整え……あれ?」
気づくとアリアは消えていた。
慌てたヒルダはきょろきょろと首をめぐらし、
「……ねぇ、ヒルダ」
彼女の声を聞いてほっと胸をなで下ろす。見るとアリアは路地の入り口で腰を下ろしていた。ちょこんと地べたに座る彼女を見てヒルダはますます仰天した。
「お嬢様! お召し物が汚れて……っ」
注意しようとして駆け寄ろうとして足を止めてしまった。主人の行動にはいつも驚かされているが、これには言葉を失った。
暗い路地裏の入り口に人が倒れていた。
泥にまみれた黒髪、そして黒い外套に蘭服。側には警官のような帽子。背格好から見るに男で、ニッポン人だとわかった。
ヒルダは思わず口にする。
「……死んでるんですか」
「こらっ、何言ってんの」
アリアがたしなめるが仕方ないだろう。路傍で倒れていたら死体だと思ってしまう。それに相手はニッポン人でもある。あまり関わりたくない。ヒルダはふと、倒れる男の腰あたりに目をやった。
二フィートほどの刃物が、男の革帯から覗いていた。
「カタナ、でしょうか。……この者はサムライかもしれません」
「カタナっ? サムライっ?」
「あ……」
しまった、とヒルダは思った。
こちらを振り返るアリアの目が好奇心に輝かせている。元来知りたがり屋の彼女にその言葉は非常に不味かった。アリアはわくわくといったふうにヒルダに顔を寄せ、にこっと笑った。
「お家で介抱しましょっ」
「何を言ってるんですか! こんな得体の知れない者、屋敷に入れられません」
「でも放置してたら死んじゃうかもしれないわよ? そしたら私たち、最低よ、犯罪者よ?」
「そ、それはそうですが……」
「早くお医者さまに診せないと」
「だからと言って……」
「……は、」
言い合っていると倒れる男が声を発した。アリアとヒルダは同時に振り返る。
倒れ伏す男は呟いた。
「腹、減った……」
2016年2月15日:誤字修正