空腹を抑えて
彼女は願っていた。
彼女の食欲は常人のそれを遥かに上回り、常に何かを口にしている。醜く太っていく自分の体を見て、これではいけない、そう思いはするのだが、食欲はそれでも収まらなかった。
彼女は願った。
「こんにちは」
気が付くとそこはただっ広い草原だった。彼女はそこに座り込んでいた。体の下の緑と空の青が、きらきらと光を放っている。
「ねぇ、こんにちは」
座っている自分に、腰を屈めた少女が、声を掛けていた。長い髪を地面すれすれに揺らめかせ、にこりと微笑む。美しい少女だった。淡い桃色がかったワンピースは、天女の羽衣を思わせた。
少女は不思議そうに小首を傾げていった。
「どうしたの?」
そう尋ねられても、彼女には何が何だかわからない。聞き返してみる。
「ここは、どこなの?」
「わかんない」
「じゃあ、あなたの名前はなんていうの?」
「わかんない」
少女は、この場所はおろか、自分が何者なのかすらわからないのだという。
「でもね、一つだけわかることがあるよ」
「それはなに?」
「わたしがここに来たのは、あなたの想いに呼ばれたから」
想いに呼ばれた……空腹を抑えたいという、この願い。
「ねぇ、あるんでしょ? わたしが叶えてあげる。教えて?」
彼女は戸惑った。これが夢かなんなのか、依然としてわからないのだ。
「信じても、信じなくてもいいよ。でも、願いをいうだけなら問題ないでしょ?」
確かに、その通りだ。それでもし願いが叶うのなら、こんなにありがたいことはない。
「わかったわ。私はこの空腹感をなくして欲しい。たくさん食べたくなんてないの」
それを聞くと少女はにこりと笑った。
「空腹であることを、なくしたいのね?」
「えぇ、そうよ。自分を律して、痩せたいの。こんな食べたくなんかないのよ。私は食欲なんていらない」
「わかった。あなたの願い、叶えてあげる」
少女は頬を服と同じ色に染め、本当に嬉しそうな顔をした。
辺りが光に包まれたかと思うと、次に目に映ったのはいつもの天上だった。
そして、すぐに気付く。いつも朝起きたら、まず朝食の準備をする。けれど、この日は準備をする気さえ起きなかったのだ。彼女は自分のお腹をさすり、腹が減っていないことを理解した。
彼女はとても喜んだ。これなら、無駄に食べなくて済む。なんなら何食も抜いて、ダイエットもできるはずだ。
目にした光景と、美しい少女を思い浮かべる。
「彼女は、きっと天使だったのね」
一日、二日と何も食べない日が続いた。異変は、あの日から一週間もしない内に表れた。
眩暈がし、気力がなくなり、彼女は倒れてしまったのだ。
職場で倒れた彼女は、すぐに病院へと運ばれ、診断がなされた。
「栄養失調ですね。今まで体に補給していた栄養に対して、今の補給量じゃまったく足りていない。食事はちゃんとしていますか? 無理なダイエットでもしてるんじゃないですか」
彼女は答えた。
「……ここ何日も、何も食べていません。食べようとしても、食べ物を見るだけで吐き気がするんです。満腹感が常にあって、何も食べられる気がしないんです」
医師は困惑した。今まで食べてばかりいただろう女性が、食べられないというのだ。
彼女は栄養剤を投与されることで、なんとか永らえてはいたが、日を追うごとにどんどんとやつれ、身を細くしていった。
結果、これは何か、精神病でも患ったからだと結論付けられた。彼女はそんなことはないと必死で弁論したが、彼女の一言が医師に判断を決定付けさせた。
「私は悪魔に会ったのよ。悪魔に食欲を奪われたんだわ」