求める強さ
彼は願っていた。
誰よりも強く、世界を目指せるほどの力を欲した。けれど、必死になって特訓はしたものの、未だ成果は表れていない。明日は大切な試合がある。この試合に勝てば、世界への道が大きく開かれることとなる。
彼は願った。
「こんにちは」
気が付くとそこはただっ広い草原だった。彼は呆然と立ち尽くしていた。足元の緑と空の青が、きらきらと光を放っている。
「ねぇ、こんにちは」
自分の肩辺りまでの身長の少女が、声を掛けていた。長い髪を風になびかせ、にこりと微笑む。美しい少女だった。淡い桃色がかったワンピースは、天女の羽衣を思わせた。
少女は不思議そうに小首を傾げていった。
「どうしたの?」
そう尋ねられても、彼には何が何だかわからない。聞き返してみる。
「ここは、どこだい?」
「わかんない」
「じゃあ、君は何者なんだい?」
「わかんない」
少女は、この場所はおろか、自分が何者なのかすらわからないのだという。
「でもね、一つだけわかることがあるよ」
「それはなんだい?」
「わたしがここに来たのは、あなたの想いに呼ばれたから」
想いに呼ばれた……強くなりたいという、この願いか。
「ねぇ、あるんでしょ? わたしが叶えてあげる。教えて?」
彼は戸惑った。これが夢かなんなのか、依然としてわからないのだ。
「信じても、信じなくてもいいよ。でも、願いをいうだけなら問題ないでしょ?」
確かに、その通りだ。それでもし願いが叶うのなら、こんなにありがたいことはない。
「わかった。俺は力が欲しい。この右ストレートに、一撃で相手を倒してしまうような、強い力が欲しいんだ」
それを聞くと少女はにこりと笑った。
「その右腕に、強い力が欲しいのね?」
「あぁ、そうだ。誰よりも強い、パンチ力が欲しい。必要なんだ」
「わかった。あなたの願い、叶えてあげる」
少女は頬を服と同じ色に染め、本当に嬉しそうな顔をした。
辺りが光に包まれたかと思うと、次に目に映ったのはいつもの天上だった。
そして、すぐに気付く。妙に力が漲るのだ。あの少女が言ったことは本当だったのか。
彼はとても喜んだ。これなら世界に行ける。体に漲る力を、感覚的に感じとった。
目にした光景と、あの美しい少女を思い浮かべる。
「彼女は、きっと天使だったんだ」
スパーリングもそこそこに、彼はリングに上がった。相手は格上のチャンピオン。普通に戦ったのではおそらく勝てない。一瞬の隙をつくのだ。この漲る力を、最大限に込めて。
試合開始のゴングが鳴り響く。相手は短期決戦を好む。いつもの戦法で、チャンピオンが攻め込んでくる。だが、短期決戦で決めたいのはこちらも同じ。一発だ。一発この右ストレートが決まれば……。
怒涛の攻撃に体力を削られてはいたが、やっと見つけた。息継ぎをするような、ほんの一瞬。彼はそこを狙い澄まし、渾身の力を込めて、右ストレートを放った。
鈍い音が鳴り、チャンピオンは糸の切れた人形のように、リングに崩れ落ちた。
歓声が沸き起こる。不利だと思われていた挑戦者が、チャンピオンを一撃で倒したのだ。
だが、歓声はすぐにざわめきへと変わった。所々から、悲鳴も聞こえてくる。
崩れ落ちたチャンピオンの首が、あり得ない方向に曲がっているのだ。彼は目にしていた。この拳がチャンピオンの下顎にめり込んだ瞬間、不気味な音とともに、ぐるりと回るチャンピオンの首を。
彼は放心した。何が起こったのか。いや、あの感触と、その光景ははっきりと自分の中にあるのだ。
周りからリングに人が駆け込む。チャンピオンの周りへと集まるが、そこに倒れているのは既に死体となったものだった。
「人殺し!」
その言葉は、彼の心を深く刺した。
打つ力、打たれたときのチャンピオンの力の入れ方など、いくつもの偶然が重なった試合中の不幸ということで、罪にはならなかったが、彼は、もうその拳を突き出すことはできなくなった。
週刊誌は殺人パンチと銘打って、彼のことを書きたてた。
後に、彼はいった。
「俺は、悪魔に会ったんだ。悪魔に、人を殺させられたんだ」