第七話 小国の命運と少年の決意
山脈に挟まれた渓谷にひっそりと存在するベルドランの城砦都市は、日の出頃になると濃い朝霧に包まれる。
これは山頂にかかった雲が麓に下りて霧化する自然現象の一つだが、その範囲が広大であるために早朝にもなるとベルドランの街並みは白い靄の中にほとんど隠れてしまう。上空から見ると、領城の一番高い尖塔を残して街全体が霧にすっぽり覆われている状態だ。
日の出を迎えると朝一の陽光が霧に差して光を反射し、キラキラと光る情景は見るものをあっとさせる。
その幻想的な景色を賞して、この無骨な街が『雲上の城』という別名を有していることは、長年ベルドランに住む人々にとって知らぬ者はいない。その景観たるや言葉で表現できないほど美しく、ぜひお目にかかりたいと地方や他国から集まる旅人が後を絶たなかった。
帝国と戦争が始まり、街に厳戒態勢が敷かれるその時までは。
「以後、お見知りおきをお願いしますね。セイジ・タカラ様」
そう小さな声で告げて照れくさそうに俯く少女を、誠治はただ食卓の席から呆気に取られて見つめていた。
神殿で出会った時の喪服のような装いとは違い、淡いブルーのドレスに身を包むシェリルはその端麗な容姿と相まってとても可憐だった。
シェリル第一王女……ゲーム中のアルファーナ王国にそのような名前の人物がいたことは誠治も知っていたが、固有のイラストが与えられていないサブキャラクターだったのでどんな姿形をしているかまでは分からなかった。
(いやしかし、実物を見た限りこれは……なんというか……)
「……かわいい」
「はい?」
思わず口に出してしまった。
「あ、いやいやいや! なんでも……なんでもないっす!」
聞き取れなかったシェリルが首を傾げたので、誠治は慌てて先の失言を誤魔化す。
取り乱した様子の誠治を怪訝な表情で見つめるルナスや護衛の騎士達を他所に、誠治のすぐ後ろに控えていたマリアだけが口元を手で覆ってくすりと笑みを零していた。
「セイジ様…パナジア神殿では、本当に申し訳ございませんでした。私がセイジ様に…その…身を預けてしまったばかりに、余計な誤解を与えてしまって牢に……本当にごめんなさい!」
シェリルは誠治に頭を下げて謝った。
一国の王女が、一介の平民である誠治に、だ。
これがどういう事であるか、身分制度に縁の無い誠治といえどさすがに驚かざるを得ない。
王女の背後では騎士達がぎょっと目を剥き、ルナスも少し驚きの表情を浮かべる。
しかしシェリルはそんな事はお構いなしに、ただひたすら頭を下げ続けた。
「遠い地より起こしいただいたお客様を犯罪者扱いにするなど、至誠を信条とする我がアルファーナ王家にあるまじきこと。今後はこのような非礼がございませんよう……家臣一同…その、気をつけていきたいと思います! ですのでセイジ様、どうかお許しくだしゃ……ッ~~……おゆるしくだひゃい。おねがいひまふ……うぅ~」
――噛んだな、今。
一瞬緊張で身体を強張らせつつも、不慣れに謝罪をこなして頑張る王女に和んでしまう誠治であった。
もはや最初の頃の厳かな空気は何処へいったのやら。剣呑な雰囲気を漂わせていた騎士達も、王女のそそっかしい反応にぽかんと口を開く有様だ。
「セイジ殿。殿下はセイジ殿に、先の非礼を許して欲しいと仰せなのです。どうかセイジ殿からも、殿下に言葉を返してあげてはくれませんか?」
そうフォローを出してくれたのはこれまで様子を窺っていたルナスだ。
見たところ彼女だけが、この状況で唯一冷静な態度を維持している気がする。恐らくシェリル王女に謝罪の文を教えたのも彼女によるものだろうと、誠治は思った。
王女との謁見を午後に回したのも、他ならぬ王女自身の社交辞令の練習の時間を確保したい意味もあったのではないか。
ただ王女本人が今すぐ誠治に会いたいと進言したため、その予定もろもろがすっ飛ばされてしまったと。
誠治はルナスに「お気の毒に」という意味ありげな視線を送ったあと、未だ目の前で頭を下げたままの王女に優しく声をかけた。
「えーと…殿下。事情は大体分かりましたんで、どうか頭を上げてください」
「は、はい……」
噛んだ舌が痛むのか、シェリルは両手で口元を押さえながら誠治を見上げる。
その涙目の上目遣いがまた可愛らしく、動揺して思わず目を背けそうになる誠治。だがさすがに自制し、不安がられないようにその目を真っ直ぐ見つめて笑顔を浮かべた。
「知らなかったとはいえ、勝手に神殿に入った僕にも非があったのは確かです。ですからここは、お互い不祥事があったということで、それで全部無かった事にしませんか?」
侵入した事は不可抗力だというのは伏せておいた。
言っても相手から理解を得られる自信がないし、何より異世界からやってきたなど到底信じてもらえる話ではない。
ならばお互いが悪かった事にして全てチャラにするというのはどうか。無責任どころの話ではないが、責任感の強いこの少女を罪悪感から解放してやるためにはそれが妥当のように思える。
シェリルは一瞬目を見開いて誠治の顔を見つめたが、次の瞬間には悲しそうに目を伏せた。
「あの…怒っていないのですか? 私、セイジ様にたくさん失礼な事をしたのに…」
確かに吃驚はしたが、美少女に抱きつかれて嫌がる男子はいないだろう。というのが誠治の感想。
聞けばあの時、シェリルが誠治に抱きついたのは、彼女が誠治のことを自身の兄と勘違いしたのが原因であるらしいではないか。誠治をスパイ扱いして一方的に連行した騎士達にも最初から悪意は無かった。事実を理解した今だから言えることだが、元々色々な誤解から生まれた逮捕劇だった。
ここまで真摯に謝罪してくれれば、誠治にとってはそれだけで十分である。
「はい、もう怒っていません。王女様に謝ってくれ―――いただきましたし、それだけで僕は十分過ぎるくらいですよ…あはは」
「そう…ですか…。それを聞けて、安心致しました……」
誠治が愛想笑いを浮かべると、シェリルは心底安心した様子で胸元に手を当ててほっと溜息を零した。
それから優しい微笑を浮かべて誠治を見上げ、
「ありがとうございます。セイジ様はとてもお優しい方なのですね…」
それは彼女がここに来て初めて浮かべた笑顔だった。
喩えるならお日様。微笑みかける者たち全てを包み込むような、そんな温かみに満ちた微笑に正面から見つめられて、誠治はしばらくその顔から視線を逸らす事ができなくなった。
美人の笑顔に当てられたからというだけではない。誠治は見つけてしまったのだ。彼女の優しげな笑顔の中に、隠し切れてない暗い影が差していることに。
「王女殿下。お客人とのご会談中申し訳ございませんが、そろそろお時間なので…」
低い男の呼び声に、はっと誠治は我に帰る。
見ると王女の後方に控えていた近衛騎士が、一歩前に進み出て遠慮がちにシェリルに話しかけていた。 その男が昨夜自分を尋問したヴァーノンという騎士だということに誠治が気づいたのはこの時。誠治と目が合うと、ヴァーノンはまるで苦虫を潰したような何とも言えない表情を浮かべた。
「……ええ。わかりました。……セイジ様、ご訪問して早速で申し訳ないのですが、私はこれにて失礼させていただきます。お食事のお邪魔をしてすみませんでした。ただ、昨日の事をセイジ様に謝っておきたかったんです…。こんな私を許してくれて、本当にありがとうございます……」
シェリルは再び頭を下げてそう言った。
誠治はなんと返していいものか迷い、結局何も思いつかず「いえ…」と一言告げるだけにとどめる。
「お食事のお邪魔をしてごめんなさい。ルナスのお客人は私の友人も同然……どうか心ゆくまでゆっくりしていってくださいね」
そして彼女は騎士達を連れて部屋を退出した。
同じくその一向に続いたルナスが去り際誠治に向き直る。
「お騒がせしました」
口元がそう告げているのを確認して誠治は頷く。
部屋から来訪者が退出し、辺りになんとも言えない静寂が降りた。
先に言葉を発したのはマリアである。
「お食事が冷めてしまいましたね。新しいものをお持ちしますので、しばらくお待ちくださいませ」
「あ。いえ…そのままで大丈夫ですよ。折角用意してもらったものだし、食べないと勿体無いですから」
食事の皿をカートに戻そうとするマリアを止めて、誠治は椅子に座り直す。
「それよりさっき聞きそびれた事で、マリアさんに一つ質問があるんですが…」
「はい、なんでございましょう…?」
これは聞いて良いものか正直迷った。
誠治自身、ほとんど確信していると言ってもいいのだが…。とはいえ、本当の事を聞いてみなければ事実の確証を得ることもできない。
意を決して、誠治は口を開く。
「さっきマリアさんは、シェリル殿下のことを王位継承権を持つ唯一の方って言ってましたよね。…その、それってつまり、この国の王族は王女様の他に……」
そこまで話すとマリアは察したようだ。
悲しそうに目を伏せて、細々と静かに声を紡ぐ。
「やはり、ご存知なかったのですね。ええ、国王陛下は……姫様のお父上様は一月前に逝去なされました。その兄君であらせられる王子殿下も既にお亡くなりに……。現在、アルヴァーヴ王家の血筋を有するお方はシェリル殿下ただお一人でございます…」
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人気のない長い廊下を、武装した護衛の騎士達と共にシェリルは歩く。
誰もがただ無言だった。特に会話らしい会話も無く、廊下を行く一行の複数の足音だけがシェリルの耳の奥で反響する。
仮に彼女が誰かに声をかけられたとしても、まともに反応を返しているかどうかさえ怪しいものだ。前を誘導して歩くルナスのおかげで方向だけは違わず歩けてはいるが、その表情は俯いたまま上の空でとても会話できそうな状態ではない。
『知らなかったとはいえ、勝手に神殿に入った僕にも非があったのは確かです。ですからここは、お互い不祥事があったということで、それで全部無かった事にしませんか?』
(セイジ……セイジ・タカラ様……)
先ほど言葉を交わした黒髪の少年の笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。
胸中で彼の名前を呟く。途端、とくんと胸が高鳴るような感覚に包まれる。
自分は彼に酷い事をしたはずだ。冤罪をかけられ、彼の人生を台無しにしてしまう事態になりかけたというのに、必死の思いで謝ったシェリルの視線の先にあったのは、怒りに満ちた形相ではなく少年の優しい笑顔だった。
(とても優しい人……そして、やっぱりよく似ている…)
シェリルがまだ幼き頃。おぼろけな記憶の中で、一緒に遊んだ兄の表情が思い返される。
セドリック王子。とても優しかった兄。誰よりも大好きだった兄。
身内の中で一番シェリルと年が近かったセドリックは、シェリルの面倒見も良かった。シェリルが落ち込んだり泣いたりした時は、いつもセドリックが傍にいて優しくしてくれるのだ。
「大丈夫だよ」と、そうシェリルの頭を撫でながら浮かべた兄の微笑が、セイジの浮かべた笑顔と重なって見えて仕方が無い。
(これはきっと…女神様が私に与えてくださったお慈悲なのだわ)
家族をすべて喪った自分を哀れんだ女神イネスの奇跡なのだと、シェリルはそう解釈するより他になかった。女神を奉る神殿でセイジに出会えたのが何よりその証であると。
少し心が晴れた気がした。
父を亡くしてからというもの、それまで暗雲続きだった心の空に一筋の光が差し込んだような、そんな幸福感がシェリルの心を温かく包む。
いっそこのまま世界の時間が止まってしまったら――そんな叶わぬ願いを本気で願いそうになった時である。
突然、前方を歩くルナスが立ち止まった。
間一髪、その背中にぶつかりそうになるのを何とかとどめ、同じく足を止めたシェリルがどうしたのかとルナスの横から先を覗き込む。
「何事ですか…」
「サーフィア将軍閣下、お探ししておりました。お忙しいところ申し訳ございません。何分、緊急のご報告がございまして…王女殿下の御前で大変恐縮ながら、申し上げるお時間をいただきますれば」
どうやら伝令の兵士がやって来たらしい。
なんでもルナスに用件があるようだが、「緊急の報告」という内容にシェリルも自然と身体を強張らせた。
シェリルは目線でルナスに大丈夫だと頷き、兵士がその場で報告することについて承諾する。
ルナスが許可すると、伝令は跪いた状態からすっと立ち上がりルナスの耳元でそれを伝えた。
「っ……! それは間違いないのですか…?」
「…はい。南西方面に回していた斥候部隊からの確かな情報です。つきましては、ヒュラセイン将軍閣下がサーフィア将軍閣下に今後の対応のご指示を要請しております…」
「……わかりました。ヒュラセイン将軍には大臣諸氏と協議次第追って指示を出すと伝えてください。伝令の任ご苦労。もう下がりなさい」
兵士は敬礼をすると、足早にその場を去っていった。
その急ぎようから伺えるに、ただ事でないことが起こったのは間違いない。
心配になったシェリルがルナスに問う。
「ルナ――サーフィア将軍、一体何があったのです?」
「殿下……少々、いえ。かなり厄介な事態に陥ったようです」
普段の飄々とした態度に似合わず、深刻な表情を隠しきれないルナスがシェリルに向き直る。
「いずれ皆が把握するところでございましょうが、ここではお話できません。すぐに大臣の方々と緊急の協議に入ります。願わくば殿下にも、ご参加いただきたく」
シェリルはただ頷くしかなかった。
ようやく差し込んだ希望の光。
神の気まぐれだったか。それは瞬く間に、絶望という名の厚い暗雲が立ち込めて覆い隠してしまった。
それからおよそ2時間後。
伝令による報告の内容は、やがて領城内の住人達の知るところとなった。
"中部街道の敵本軍が、南部への進軍を開始”。
王都ラクントゥス陥落から二週間。それまで沈黙を保っていた帝国軍が、いよいよ行動を再開したのだ。
黒く強大な嵐が、一つの小さな王国を滅ぼさんと荒々しくうねる。
絶望的な状況であるのは間違いない。
現状を良く理解している者なら、この戦争に一割の勝率すら無い事くらい容易に察することができるだろう。
誰もが勝利をあきらめていた。ただ一人、異界出身の人間を除いては。
「勝てるかもしれない」
「え?」
そのとき、誠治は当てられた部屋のバルコニーにいた。
桟の手すりに手をかけて城下を見下ろすと、城門の間を兵士や馬車が引っ切り無しに忙しく動き回っているのが見える。
帝国軍が進軍を開始したことは、ルナスからの知らせで誠治も既に知っていた。
その知らせを伝えたマリアも、すぐ隣で思考に耽る誠治の様子を見守る。
不意に発せられた「勝てるかもしれない」という言葉。彼女が耳を疑ったのも当然かもしれない。
「セ、セイジ様? 今なんと…?」
「えーと…その、確証は無いんですけど……条件さえ揃っていれば、この戦争勝てるかもしれないなぁ…なんて」
「ほ、本当でございますか…!?」
無論、この世界が『異界大陸 女神の審判』と同じ世界観であることが前提の話ではあるが…。
ゲームと現実は違う。仮にこの世界が異界大陸を忠実に再現した世界であっても、ゲーム感覚で考えた策が通用するとは限らない。
だが。
――仮にもし、本当に、それが通用するならば…。
『新大陸ミズガルズを制覇せし覇者たる貴方に問います…』
――単にゲーム好きの自分にもできるのだろうか…。
『貴方は滅びゆく運命にある小さな国を、未来永劫栄えさせる覚悟はありますか?』
――滅びの運命にある小国を絶望から救い出すことが。
「マリアさん、お願いがあるのですが…」
気づいたら拳を固めて覚悟を決めていた。
「僕をサーフィスさんのところに連れて行ってくれませんか? どうしても相談したい事があるんです」
新朝暦345年、某月下旬。
アルファーナ王国を侵略したガルムンド帝国軍は、王都ラクントゥスを陥落させてから実に二週間後、本国から新たに増員した増援3万を加えて南部への進軍を開始した。
ほぼ同刻。ベルドランと同じく対帝国戦線の要所として機能していた王国南西部の都市アイデンが帝国軍の別働隊に包囲され陥落。
これによりアルファーナ軍は反抗作戦遂行のための戦略的なあらゆる行動を放棄せざるを得なくなり、南部街道に陣を張っていたアルファーナ軍本隊もベルドラン城砦内への撤退を已む無くされる。
いよいよここにきて、帝国軍の最後の攻撃地点が定められた。
目標は王国最南端の都市ベルドラン。城砦攻略に動員された軍は七万に上り、対してベルドランを守備するアルファーナの軍は、街の警備隊や貴族の私兵軍を加えても4千にも届かなかった。