第六話 アルファーナの現状
誠治がミズガルズに召還されて一夜が過ぎた。
たったの一夜、されど一夜。
いつも違うベッドの感触に違和感を感じて浅い眠りの中にあった誠治は、何かの物音をきっかけに目を覚ます風でもなく、ただ自然に意識を覚醒させて瞼を開いた。
「…………」
寝台から身体を起こして瞬きを繰り返す。
ぼやける視界が徐々に鮮明さを取り戻し、だだっ広い寝室のその古めかしい景観を映し出した。
見覚えのある部屋。しかし誠治にとって親しみのない景色。
上体を起こしたまましばらく放心して虚空を見つめていた誠治は、次の瞬間何かを悟ったように深い溜息を漏らした。
「夢じゃなかったのかよ……」
昨夜遅くこのベッドに潜り込んだ時にはほとんど確信していたとはいえ、もしかすればこれまでの経験が全て夢の一部だったのではと思い込んでいる節もあったのだ。
次に目を覚ませば今度こそ自宅の汚い自室で転がっているのではないか。そんな淡い期待を抱いて夜の眠りについたものだから、目覚めて周囲の生活空間が様変わりしていた時の衝撃というのはなかなか辛くて言葉にならない。
(さて、どうするかな……)
普段の誠治の寝起きの行動であれば、洗面所で顔を洗って眠気を吹き飛ばしたいところだ。もう半日以上飲み物を口にしていないので、喉もカラカラだ。
(洗面所……いや、水桶か……)
とりあえず室内を探索してみようと誠治は決めた。この世界の事について現状整理するのは、顔をさっぱりさせてからでも遅くないはずだ。
そうと決まれば早速行動に移そう。悲観的な感情はひとまず心の底に沈め、誠治はかけていた毛布を除けて寝台から抜け出す。
部屋の扉を叩く音が響いたのはその時であった。
「あ、はい!」
空気が張り詰めて音が響きやすい早朝であったこともあり、そのノック音は控えめでありながらも誠治の耳に予想以上に大きい音量で届く。
吃驚して反射的に返事をすると、扉の向こうからルナスのくぐもった声が聞こえてきた。朝の挨拶も程ほどに、部屋の住人である誠治に扉を開けるよう求めてくる。鍵はかけていないはずだから、開けようと思えば向こう側からでも開けるはずである。それをしなかったのは、この部屋の利用者はあくまで誠治だと個人の意思を尊重した結果か。
「お早うございます。サーフィスさん」
誠治が扉を開けると、琥珀色の珍しい眸をした女将軍が背筋を伸ばして立っていた。
昨晩この部屋に誠治を案内してくれた時と同様、その目を惹く端正な面立ちに変わりは無い。ただ一つ昨日との違いを挙げるとするなら、それは彼女の格好にあった。
牢獄で誠治を取り調べた時の武骨な鎧姿とは違い、今のルナスの格好はフォーマルウェア一点。将校軍人のみに着用が許される女性用礼服に身を包み、背中に流していた銀髪は三つ編みによって綺麗に纏められ、右肩を通して胸元に垂らしている。
鎧を着た勇ましい姿もなかなか様になっていたが、こちらは恐らくそれ以上。上品なルナスの様相と相まってよく似合っている。
「……目やにがついていますよ」
そんな素直な感想を抱きながら誠治がルナスの姿に見惚れていると、同じく誠治の顔を注視していたルナスが顰め面を浮かべて顔の汚れを指摘した。
誠治は慌てて目元を指で擦るが、その雑な処置がルナスには下品に映ったようだ。外見こそセドリック王子に似ているとはいえ、その仕草にはまるで気品が感じられない。
ルナスは呆れたように目を伏せて溜息を零す。
「……これはしばらく矯正が必要そうですね……」
「はい?」
その呟き声があまりに小さかったので、聞き取れなかった誠治が首を傾げて聞き返す。
ルナスは首を振って誤魔化すと、再び誠治に向き直って訪れた用件を語り始めた。
ルナスの話によると、昨日ルナスが伝えた王女の誠治に対する“お詫び”を、他ならぬ王女自身が一刻も早く執り行いたいと望んでいることだった。しかしそのためには、誠治はその場に相応しい格好や態度を改め直さなければならないらしい。
「“あなたの故郷”ではその服装が当たり前なのかもしれませんが、アルファーナの地に足を踏み入れた以上は、この国の掟や習慣に従っていただきます。ミス・マリア、こちらへ――」
ルナスが背後を振り返ってある人物の名を呼ぶ。
他にも付き人がいたのかと誠治が思うのも束の間、扉の脇へ移動したルナスに代わって誠治の正面に現れたのは、黒を基調とするエプロンドレスに身を包んだ若い女性だった。
「彼女はマリア・デミテル嬢。シェリル王女殿下専属のお世話係を務める宮廷侍女です。ミス・マリア、彼が“先ほど話したお客人”のセイジ・タカラ殿です」
ルナスが身振り手振りで二人の紹介をすると、メイド姿の女性は深々と誠治に頭を下げた。
「お初にお目にかかりますわ、タカラ様。ご紹介に預かりましたマリア・デミテルと申します。姫様の身の回りのお世話をさせていただいております。私のことはどうぞマリアとお呼びください」
「ど、どうも……」
その自己紹介があまりに丁寧過ぎたので、気後れした誠治は間抜けな返答に留めてしまう。
お辞儀ぐらいするべきだったか……。
節操がない自分の受け答えに誠治は密かに後悔したが、マリアという名の侍女はそんな事気にも留めない様子で柔和な微笑を浮かべていた。
「それでは、私は少し用事があるのでこれにて失礼します。ミス・マリア、大変だとは思いますが後のことは……」
「はい、わたくしが責任を持ってタカラ様をご指導させていただきますわ。どうぞお任せください」
「え? どういうことですか?」
最後の質問は当然誠治のものだ。
やって来て早々退去する雰囲気のルナスに、誠治はただ混乱するばかりである。
「あの……王女殿下に、今から会いに行くんじゃ……?」
「その身なりで、ですか?」
「え? ああ、そうか……」
誠治は自分のジャージを見下ろして落胆の溜息を吐く。
この服装のままでは王女に謁見できないらしい。通気性もよく、動きやすくてなかなか気に入っていたので残念で仕方ない。
落ち込む誠治の心境を知ってか知らずか、規律に厳しい女将軍は言葉を続ける。
「先ほども申した通り、あなたにはこの国の掟と習慣に従ってもらいます。完璧は無理だとしても最低限の教養を……それが殿下にお会いするための必須の条件ですから」
「へ?」
「身なりから礼節まで、殿下の御前に相応しい体面を備えてください。ミス・マリアにその辺りの指導をお願いしていますので」
そこまで必要なら、わざわざ無理して僕をその王女様に会わせなくてもいいんじゃ……。
無実を証明できたし、相手側に謝意があるならそれはそれで構わないと思っていた誠治である。王族に謁見するために、慣わしを教わってまで謝罪を受ける必要があるのかと腑に落ちなかった。
その事をルナスに伝えようと思った誠治。しかしながら、彼の“指導係”であるらしい侍女マリアは既に部屋への入室を果たし、早速仕事を見つけたとばかりに誠治が寝ていたベッドのシーツを剥がしにかかっている。
もはや、完全部外者である異世界人に意思の自由は用意されていなかった。
「殿下への謁見は本日の午後を予定しています。時間になれば私から迎えに行きますので、それまでしっかりと教学に励んでくださいね」
「は、はあ……」
「ああ、あとそれから……」
去り際、ルナスは誠治を振り返って声を潜めた。
「ミス・マリアには、あなたの素性を国外からの客人という扱いで伝えています。自身が“特殊な身の上”であることを念頭に置いて、彼女に正体を明かさないよう気をつけてください」
「……話したところで、真剣に受け止めるとは思えませんけど」
「万が一ということもあります。信じる信じないは別として、情報の不一致は疑心を植えつける原因になり得ますから。この地に長居したければ……わかりますね?」
「…………」
「それでは、私はこれで」
まるで脅迫のような言葉を最後に、ルナスは誠治の反応も待たず足早に部屋の前を後にした。
牢獄での不自由な身を解放し、右も左もわからない誠治に宿泊部屋まで提供してくれたルナスは、行動だけ鑑みれば確かに誠治の恩人といえるだろう。
しかしそれらが全て純粋無垢の善意から成っているとは考えられなかった。
自分が異世界人だから? 牢獄から抜け出せたのは確かに幸いだ。だが同時に、こうも安易に釈放して良いものかと疑問に感じるのも事実。
ルナスには、彼女なりの目的があって誠治をここに縛り付けたがっているように思えた。
でなければ、異世界人だとか名乗る身元不明の厄介者を、王女のいるこの城に繋ぎとめておくわけがないのだから。
「まあ、事実上無一文の僕にはありがたいけどさ……」
何かに利用されるにしても、宿無し無一文になるよりは何倍も良い環境に違いない。
難しいことはその時考えることに決め、誠治は踵を返して部屋に戻るのだった。
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城砦都市ベルドランは、アルファーナ王国最南端の国境付近に造られた要塞の街である。
現在の人口は約三万人。元々二万人にも届かない辺境の街だったのだが、ガルムンドの侵略によって故郷を追われた難民が多くこの街へ避難してきたため、その数は倍近くに膨れ上がっていた。
南方国家群との国境を成す巨大な山脈の、それを横切る渓谷の間にひっそりと存在するその都市は、左右に聳える断崖が城壁の役目を果たしており、天然の要害として敵の侵入を拒んでいる。
唯一の進入経路はアルファーナの中部に繋がる北の街道方面ただ一つ。とはいえ、こちらは堅牢な城壁が高々と聳えているため、城門を閉じて篭城すれば大軍の攻撃に曝されても早々落ちることはない。
いわば難攻不落。その強度と防衛能力は、アルファーナ王都ラクントゥスの城壁でさえ遠く及ばないだろう。
そんな強固な要塞がこの地に築かれるきっかけになった起源は今から三百年前。
都市国家間で勃発した南方諸国の戦争により、アルファーナ国内にその戦火が飛び火するのを恐れた当時の国王が、南部国境の防衛力増強を指示して造らせたのがこのベルドラン城砦であるらしい。
戦乱に明け暮れる南方の都市国家が平定され、さらにはアルファーナと通商条約がなされると、砦として機能する必要がなくなったベルドランは両国の交流を取り成す交易拠点として瞬く間に発展したのである。
とにもかくにも、結果として繁栄の道を歩み始めたこの街の成長はとどまることを知らず。人や物の流動で今日のアルファーナ王国に経済面で大きな支えにもなっているわけだが……。
その大都市が今、国家の存亡という意味でも存続の危機を迎えていると誠治が聞き及んだ時、彼は口に運びかけていた朝食のパンを思わず受け皿に戻してしまった。
「ガルムンド軍の侵略……!?」
場所は誠治が当てられた部屋の、テーブルの席。
一時間に及ぶマリアの着付けによる長い試着と服選びを終え、派手なジャージ姿からシンプルなローブ衣装に着替えた誠治は、ようやくテーブルに落ち着いて遅めの朝食を摂り始めていた。
ただ食事を共にするわけでもなし、侍女のマリアに食事中もずっと傍で見られ続けることに誠治が耐えかねたので、この世界の情報収集も込めて色々分からない事を質問したところ、返ってきたのがこの街の歴史の成り立ちを始めとしたこの国の絶望的現状だった。
曰く、現在アルファーナ王国は北東の大帝国ガルムンドと戦争状態にあること。曰く、アルファーナ軍はガルムンド帝国軍の侵略を食い止めきれず、既に王国内の過半数を占領されてしまったこと等。
なんでもこの城砦都市ベルドランは、対ガルムンド戦線の最終防衛ラインに設定されているらしい。
穏やかな朝食風景に似合わず、声色を硬くしたマリアから語られる驚くべき情報の数々は、口を空けて呆然となった誠治に現実味のない真実として伝えられた。
「ご存知、なかったのですか?」
驚いた様子の誠治に対し、今度はマリアが驚く番である。
彼女にしてみれば、わざわざ戦時中のアルファーナにやって来た誠治こそ、何かこの戦況を打開する手段を授けに現れた伝道師のような人物に見えたのだろう。武官の……しかも一軍の将軍を務めるルナスが客人として紹介した相手が誠治なのだから、マリアにとってそう映ってしまうのも仕方の無いことである。
本来ならここで余計な疑いを抱かれる前に誤魔化すべきところである誠治。しかしこの時ばかりは自制が追いつかず、彼はマリアにさらなる質問を重ねた。
「確か、アルファーナの中部地方には首都がありましたよねっ? えーっと、ラク…ラク……」
「……王都ラクントゥスですわ」
「そう! それです! 王都は今も健在なんですか?」
「まことに残念なことに、都は既に敵の手に落ちました。今から二週間前のことです」
辛そうに目を伏せて告げられ、誠治は途端に言葉を詰まらせる。
首都陥落……その言葉が意味するところを知らない誠治ではない。
戦記系のゲームを通じて、あるいは現実世界の歴史を紐解いたにせよ、一国の心臓部として機能している首都が敵の手に落ちるということは、国力の大幅低下に拍車を駆ける一大事である。
下手をすれば国としての存在意義さえ失うこともあり得るのだ。幸いアルファーナの国軍は現在も残存しているらしく、国家の上層部もひとまずは機能しているようだが、敵の侵略が続いている以上、看過できない状況であるのは間違いないだろう。
マリアは重々しい口調でこれまでのアルファーナの動静を語ってくれた。
彼女の説明によると、ガルムンド軍の侵攻が始まったのは今から三週間前。奇襲同然の強行軍の攻撃により北部の防衛を担っていたアルファーナ常駐軍は瞬く間に壊滅。その後、王都よりすぐさま国軍が迎撃に出たが、電撃的な攻撃で攻め上るガルムンド軍の猛攻に耐え切れず、いずれも大敗していた。
「ガルムンドの侵攻軍が王都の攻略に乗り出すまで、越境から一週間もかかりませんでしたわ。王国政府が王都全域に緊急避難勧告を発令する頃には、ガルムンド軍の姿は王城のバルコニーから確認できたんですもの……」
マリアの唇は震えていた。
慎重に言葉を選んで話しているつもりでも、当時の事を思い出すとどうしても感情を抑えきれないのだろう。
傍から見れば無表情であるが、その内に隠される恐怖や悲しみといった情動に誠治は薄々気付いていた。
予想を超えるガルムンド軍の迅速な動きに、アルファーナ軍上層部は非情な決断を下した。
それは王家の一等財産である王都ラクントゥスを囮にすることで、逃げ遅れたアルファーナの避難民たちを南へ逃がすことだった。
王族最後の生き残りである王女シェリルを最優先保護対象者とし、避難民ら残存するアルファーナ国軍は南方の主要都市である、此処ベルドランへ。
篭城して反撃態勢を整える時間の確保と引き換えに、栄光ある王都を敵の手に差し出す形となってしまった。
「……ちょっと待って」
誠治は、マリアのその言葉の中に聞き捨てならないものを聞いた気がして話を中断させた。
「僕の聞き間違いでなければいいけど……マリアさん、今『最後の生き残り』って言いました?」
「……え、ええ。シェリル様はアルヴァーヴ家の血筋をお継ぎになられる最後の生き残り。この国で唯一、王位継承権を有される方でございます」
「唯一? え、それじゃあ……」
扉のノック音が来訪者を告げたのはその時だった。
思案顔で質問を繰り出そうとしていた誠治は反射的に口を閉じ、代わりにマリアが足早に扉の方へ歩いていく。
誠治が見守る中、扉越しに二言ほど言葉を交わしたマリアは、ゆっくり扉を開いて来訪者を中に招きいれた。
食事中であったこともあり、マリアはすぐに来客を追い払うだろうと思っていた誠治である。その予想を見事に裏切られ、彼は部屋に入ってきた人物を見て咀嚼していた食べ物を思いきり喉に詰まらせてしまった。
「食事中でしたか……失礼しました」
来訪者は一人ではなかった。先んじて入室してきたのは、用事があると言って一時間ほど前に別れたルナス・サーフィア将軍。彼女の後に続くように、鎧を纏った屈強な男たちが次々と部屋に入ってきたのである。
その物騒な連中の厳つい視線が誠治にとって怖いことこの上ないことだが、彼が食べ物を喉に詰まらせた直接の原因は彼らではなかった。
騎士の物言わぬ恫喝は地下牢で取り調べされた時に散々思い知っている。誠治が一番に驚いたのは、その騎士たちの背後に隠れるようにしておずおずと扉の前に現れた一人の少女に対してであった。
「あ、あの……ルナスさん?」
一体何事か事態が把握できず、誠治はその少女から無理矢理視線を外してルナスの方に向ける。
ルナスもルナスで、この状況は望んで起きたものとは違うらしい。困惑の表情を浮かべる誠治に肩を竦めてみせた女将軍は、背後を振り返って扉の前で佇む少女を指し示した。
「姫様が早くあなたにお会いしたいと申されたのです。私は後ほど面会のお時間を用意すると言ったのですが、聞き届けてくれなかったので……」
苦笑を浮かべるルナスの視線を受けて、扉の前の少女は恥ずかしそうに顔を俯かせた。腰まで届く豊かな金髪を揺らして、その少女はスカートの端を持ち上げてぎこちなく、しかし上品にお辞儀をこなす。
「お、お初にお目にかかります…。私の名前はシェリル・ルーデス・アルヴァーヴ。この国の王女をやらせていただいている者です……」
その謙遜極まりない自己紹介を、この部屋に居る一体何人が「間違った言い回しだ」と内心批判しただろうか。少なくともこの時誠治は、その清楚な少女に見惚れて何を話していたのかもまったく聞き入れておらず、さらには心中まで凍ったように思考停止していた。
ただわかることがあるとすれば、今誠治の前でお辞儀をしているこの少女こそ祭壇の間で出会ったあの少女であり、つまりは一国を左右する権限を持つ資格のある人物だということ。
「以後、お見知りおきをお願いしますね。セイジ・タカラ様…」
シェリル・ルーデス・アルヴァーヴ第一王女。彼女との出会いが、誠治にとって大きな運命の波乱の幕開けであったとことは、誠治自身は愚か、その場にいる誰もが知る由もなかった。