プロローグ 終末の王都
王都ラクントゥス陥落。
この一報を伝令より受け取った時、アルファーナ王国軍のルナス・サーフィア将軍は国軍二千と共に王都街道南部に陣を敷いていた。
その目的とは、王都が陥落した場合の後詰めとして機能するためである。王都を脱する住民や敗走する兵士を侵略軍から守る殿軍。それを務めて指揮するのであるのだから、ルナスはそれこそ軍内部でもその実力を認められる名将であると言えた。
とはいえ、そんな名誉ある役目を任されたルナス自身、伝令の報告を聞く時の顔は悲痛に歪んでいる。 それも当然であろう。なにせ自国の首都が敵軍によって落とされたのだ。それを危惧せずして、一体何を誇れば良いというのだろうか。
「……それで。マルゼアス元帥はどうなったのです?」
「…わが軍の防御を崩したガルムンド軍の先陣が王都になだれ込むと、御自ら王城をお守りせんと王都警備隊を率いて矢面に立たれました。以降、お姿をお見かけしておらず、ご消息もわかっておりません…」
「そう…ですか……」
硬い口調でそう言葉を返すルナスの視線の先は、遠方で細い筋を描く煙に向けられていた。その端正の取れた美貌は憂いで翳り、王都の方角を眺める琥珀色の瞳は動揺で揺れ動いている。悲しみに沈むのは彼女だけではない。ルナスに付き従う騎士や兵士たちも、煙を上げる王都の惨状に言葉もない様子だった。
皆が皆ラクントゥスに居を構えているのではないにせよ、故郷であるアルファーナをおもう気持ちは同じだ。その心臓部である街を他国の軍によって攻め落とされてしまったのだから、嘆き悲しむのは当然の情動であろう。
(しかし、悲しみに暮れたままここで佇んでいても仕方ない…)
忘れてはならないのは、この後詰めの軍隊が侵略軍の追撃を一時的にでも防ぐ壁となり得ることである。王都にはまだ、脱出に遅れた住民たちが恐怖で逃げ惑っていることだろう。既に逃げ出した者たちも大勢いるだろうし、彼らの無防備な背中にガルムンド軍の凶刃が振り下ろされるのも時間の問題だ。ルナス率いる王国軍の存在意義は、それら敵軍の脅威から一人でも多くアルファーナ人を逃がすことにある。
(であれば、すぐさま行動に移さなくては)
ルナスは副将ら各指揮官にすぐさま進軍命令を下すと、自らも馬上で手綱を握ってラクントゥスの方角に馬首を回した。
純白の有翼天馬をモチーフにした軍旗が掲げられ、向かい風にさらわれて翻る。
「全軍、進軍開始! 進路、王都ラクントゥスへ!」
各部隊の将兵たちがルナスの命令を復唱して全軍に伝達させれば、アルファーナ軍二千の兵力はゆっくりと、ただし確実に王都へ進路を当てて前進を開始した。
アルファーナ王国が動員できる兵力のなかで、二千という数字は決して少なくない数である。もっともそれは常備軍と比較しての話だが、此度侵攻してきたガルムンド軍と比べれば話は別だった。
ガルムンド帝国。アルファーナ王国の北東に位置する大国。強硬な軍国主義を掲げる国家としても知られ、その理由から周辺諸国に畏怖の念を込められ疎まれている。
アルファーナを侵攻の対象とした理由は恐らく国王の不在だ。前代陛下が崩御し、国の中枢を欠くアルファーナの弱体化を突いたつもりなのだろう。
国家の元首を失うことはそれ即ち、国の地盤が根底から緩むことを意味する。政の方針も、軍部への支持も、その一挙をほぼ一人で担っていた先代国王があればこそ成り立っていた国が、それをいきなり失ったとあれば途端に国営は滞ってしまう。
世継ぎを登極させるにも、先代王の男子はいずれもこの世の人ではなく、ただ一人王位継承権を有する王女は齢16の少女であり、政を任せる王としてはまだまだ未熟であった。
しばらくは宰相と他の大臣たちに国政を委ねる。そう王国が方針を定めて一月も経たずして、ガルムンド軍の侵略である。
宣戦布告もないその一方的な進撃に、北方の防衛を担っていたアルファーナ軍は瞬く間に瓦解した。迎撃のために出兵したアルファーナ軍の第二陣、第三陣もその猛攻を阻止するに至らず、ついには王都ラクントゥス直撃を許してしまう。
王都攻略に動員されたガルムンド軍の兵力は、アルファーナ侵攻時同数の五万。
対して王都の防衛力は、街の治安維持軍及び王城警備隊を含めてたったの1千程度だった。
無論、この兵数はアルファーナ軍の総戦力ではない。ルナス率いる国軍二千を含め、主力となる軍隊はそのほとんどがラクントゥスを捨て南に撤退していた。王女シェリルも、その一団と共にある。
元より交戦準備が整っていなかった国軍である。王都を決戦地と定め、篭城戦に持ち込む程の余力と自信があるとは言えなかった。王都を包囲され、補給線を絶たれれば遠くない未来軍隊は崩壊する。なれば万全な体勢で挑める場所にて再び国軍を結成し、総力戦にてガルムンド軍と雌雄を決するべきであると。
王都ラクントゥスは、そのための大きな犠牲であった。
「閣下! 前方より騎兵多数。アルファーナの国旗を掲げ、まっすぐこちらへ向かってきます!」
部下の報告を受け、ルナスは自前の望遠鏡を覗いて確認する。
街道に沿って、王都の住民たちが避難を続ける中、間を縫って駆ける軍馬の一団が見て取れた。いずれもアルファーナ軍を示す青を基調とした兵装に身を包み、その上にはルナスの一軍と同じく、有翼天馬の軍旗が激しくはためいている。
数はそれほど多くはない。恐らくガルムンド軍との戦いに身を投じた部隊であろうが、王都防衛を務めた警備隊とも違うようだ。
段々距離が縮まるにつれ、ルナスはその正体にいち早く気づいた。
「サンダーロード……! エレオノーラの遊撃隊ですか」
アルファーナの騎兵隊は、進軍するルナスの軍を避けるように右翼に逸れると、そのまま南方へ走り去っていった。
ただ一騎、先頭を駆けていた騎士だけが馬首を反転させてルナスの一軍に合流する。隊列を組んで歩む兵士たちの間を巧みな馬術で押し進むと、すぐさまルナスの隣に追いつき並んだ。
「ただいま戻りました、サーフィア将軍」
「ヒュラセイン将軍、よくぞ戻ってきてくれました」
その女騎士は、先ほどの騎兵部隊を率いていた隊長だった。名をエレオノーラ・ロード・ヒュラセイン。アルファーナ王家に代々仕える武門貴族の名家出身で、齢18歳という若さで将軍職を務める非凡の将である。
此度の王都進撃に対し、率先して遊撃隊の隊長に先任した勇将でもあった。すれ違った騎兵たちは皆、彼女の遊撃に参戦した勇猛な将兵たちだ。
ルナスはエレオノーラの血糊で汚れた顔と鎧を一瞥して、小さくため息を零す。
「…かなり無茶をなさったようですね、エレオノーラ」
ルナスの遠回しの指摘に、遊撃隊の隊長はその凛々しい表情に若干の曇りを見せた。
「申し訳ありません。我らの都をああも容赦なく侵食される様を見せられると、いても立ってもいられず……」
「お気持ちはわかります。けれど、あなたは一軍を率いる将でもあるのです。万が一あなたに何かあれば信頼する部下たちも混迷することでしょう。それに――」
ルナスはエレオノーラをまっすぐに見つめ、その琥珀色の瞳を慈愛の色で染めた。
「なにより姫様が、心配のあまり心をお挫きになるやもしれませんから」
「……は、はい。すみません……」
謝罪を述べるエレオノーラの顔は、普段の大人びた印象と違い随分子供っぽく感じられる。
年相応というべきだろうか。嘘を付けない純真な性格であるのも重なって、エレオノーラのその戸惑った顔はルナスを少なからず和ませた。
だがしばらくも経たぬうちに、その頬の弛みはすぐに引き締められることになる。
それは、ラクントゥスから逃れてきたアルファーナ軍兵士が、ルナスの元へ運び込まれてきたのが要因だった。
「王城警備隊所属の……ガリス十人長です……。ルナス閣下に、ご報告……申し上げます」
その兵士は腹部に致命的な怪我を負いながらも、従軍医の治療を受けなら息も絶え絶えにルナスに王都の現状を伝えた。
捕虜となった一部の兵士を除き、王都防衛軍が全滅したこと。“王城シャンドリヌス”がガルムンド軍の手に落ちたこと。敗走する兵士や避難民たちを追って、ガルムンド軍の追撃軍が南下を開始したこと。 中でもルナスたちに衝撃を与えたのは、防衛軍の総指揮を担っていたマルゼアス元帥の戦死の知らせだった。
「マルゼアス閣下は、王都に残った住民たちを逃がすために、少数精鋭をもってガルムンド軍の猛攻を防いでおられました……。私を含む…後方の衛士たちは、生き残った住民たちを街の外まで護衛していたのですが……」
その最中、マルゼアス討死の訃報がガリスの耳に届いたのである。
一軍の大将の殉職に、それまで辛うじて組織的な防衛線を築いていたアルファーナ王都軍は一気に崩壊。司令塔である王城までも占拠され、ガリス率いる少数部隊も烏合の衆と化してしまった。
「申し訳ありません。私一人の力量では、離散する兵士たちを繋ぎとめておくことができず……僅かに残った住民と共に王都を後にしたのですが、途中ガルムンド兵士の追撃に遭い、矢を腹に……」
そこまで早口に申し立てたガリスは、痛みに呻いて激しく咳き込んだ。口から血を吐き出し、軍医は慌ててガリスの頭を起こして気道を確保する。
腹部の止血処理を終えた軍医がルナスを振り返った。その意味ありげな目線は、「これ以上彼に喋らせない方がいい」と、直接ルナスに訴えかけているように思える。
ルナスは僅かに首肯し、それから浅い呼吸を繰り返すガリスに向き直った。
「状況は把握しました。住民の護衛、ご苦労でしたね。後は我々に任せて、あなたは安静になさい」
ルナスの労いの言葉に、ガリスは目を閉じてそのまま意識を失った。
後は彼の生命力が、再び目を覚ます活力となってくれるのを祈るしかない。
担架に乗せられ後方に運ばれていくガリスの姿を見送りながら、ルナスは馬上でその穏やかな表情を険しくさせる。
「いよいよ、私達も覚悟せねばならないようですね……」
――ガルムンド軍の追撃が来る。その数が多かれ少なかれ、一戦交えることになるのは避けられない運命だろう。
アルファーナ軍を総括する元帥はもうこの世にはいない。王都も陥落した今、状況は絶望的だ。
ここで賢い選択をするのであれば、いつか王都を奪還するために今は戦力は温存すべきだろう。ルナスが指導者の立場であれば、恐らくそうしていたはずだ。
しかし彼女は一将軍の立場でしかない。上の指示を仰ぎ、それに従って部下と共に戦場で戦うことを務めとする。
そしてこの場合の“上の指示”とは、他ならぬ王女自身のことである。
『王都に取り残された人々をお願いします。無実なアルファーナの民たちを、どうか守ってください』
王都に残っていた民たちは、マルゼアス元帥が命に代えて逃がしてくれた。後はルナス率いる国軍が、避難するアルファーナの民たちを守る盾として戦うのみである。
民を想い、涙を流しながら請い願った王女の悲しみに暮れた顔を思い出し、ルナスは沈んだ心を奮い立たせて前を見据えた。
煙を上げる王都を地平線上に、黒い帯のような輪郭がその前面に沸き始める。
その正体が全てガルムンド軍の追撃部隊であると分かるや否や、偵察から戻ってきた斥候が声高に叫んだ。
「北部十二時の方向にガルムンド軍多数! 真っ直ぐこちらへ進軍中です!」
「来ましたね……」
ルナスはそうひとりごちると、馬のストックに収めた槍を引き抜いて天高く掲げた。
「皆の者! 我らの領土を脅かす敵はすぐ目の前に迫っています! 臆してはなりません! われらは王女殿下より王国民を守る勅命を受けた国軍であり、それは如何なる強敵でさえ覆せるものではないのだから!」
隣で、エレオノーラも腰に佩びた長剣を抜く。臨戦状態に以降した兵士たちも次々と得物をその手に携え、ルナスの演説を興奮気味に聞いていた。
「手柄を急いてはなりません! 憤ってはなりません! これは弔い合戦ではなく、我らが愛する国民たちの命を守るために行われる聖戦です! 今は一時、その胸を焦がす復讐心を心の奥底に仕舞っておきなさい。であれば、その命は必ずや女神イネスがお守りくださるでしょう!」
ルナスの声は風に乗って全軍に行き渡り、やがて大地を轟かすような怒号となって兵士たちが呼応した。
ガルムンド軍は既に肉眼でも確認できる程の距離に迫っている。敗走兵を追わず、先にこちらに目をつけたのは奇襲されるのを恐れての判断か。なんにせよ、住民たちの逃亡の時間を稼げるのであれば望むところである。
槍を振るい、ルナスはその矛先をガルムンド軍に向ける。
そしてその大号令は放たれた。
「全軍! 敵を迎え撃てッ!」