一日目:日常は非情にも非日常へ変わりゆく【不幸は奇しくも幸福へ変わりゆく】
本編の始まり。
フツーの学校生活……の予定。
それから、約三ヶ月後。
「行ってきます」
お手製のサンドウィッチをかじり、天を仰げば、雲ひとつない清々しい青空。天気は一日中快晴、今日の星座占いは中間、朝から烏の鳴き声を聞くことも無く、黒猫が目の前を過ぎるわけでもありません。目覚ましも定時通りに動き、誰にでもあるような当たり前の、普通の朝を無事に迎えることが出来ました。
いつもの通学路を、僕はのそのそと歩きます。シャキシャキと歯ごたえのあるレタスを噛み締めて、横断歩道で足を止めました。
黒いスーツを身に纏ったサラリーマン、列を成すランドセルを背負った小学生達。
憂鬱な土日を挟むと、見慣れた光景がとても眩しく、新鮮なものに感じられます。
学校の近くになると、静かな朝の空気を飾るのは、華やかな女子のお喋り、賑やかな男子達の笑い声。僕は羨望の眼差しを送りながらも、もう足を止めることはありません。目的地に向かって、ただただ歩くのみです。
羨ましいなら混ざればいいじゃない、と誰かは仰るでしょう。けれど僕は、どこのグループにも混ざらないし、混ざれないのです。
何故かと聞かれましても……、敢えて言葉を濁らせているのに訊くのは野暮というものでしょう。どうか皆々様、お願いですからその優れた頭脳で、お察しください。
ウォークマンの少ない中身が一周したところで、僕の通う学校に着きました。
うん。我ながら今日も適当な時間に到着です。
「ねー、聞いた? 謹慎解けたんだって」
おっと。朝から物騒な単語を耳にしてしまいました。今は登校ラッシュ、様々な人目があるにも関らず、女子生徒は声高らかに話し続けています。
人の悪評は蜜の味、なんて造語を思いついてしまう程でした。
「二十人、病院送りにしたんでしょ?」
「まさか……今度は何も起こさないといいけど……悪い子じゃないから」
「良い子は喧嘩なんて買いませーん」
おや、その隣の子は。見覚えのある柔らかな蜂蜜色の髪の毛と、しとやかに振る舞う姿に、声を掛けてしまいそうな衝動に駆られました。
「あ……」
「……」
しかしそんな……注目を集めるような真似は、到底出来ません。不自然にならないように視線を逸らしてから、教室を目指しました。
「どうしたの?」
「ううん、何でもないわ」
さて、先ほどのお喋り少女のお話を要約します。
何やら一年で有名な不良君が、久しく登校されるようです。そういえば、僕の前に置かれていた座席は、うっすらと埃を被っていた記憶があります。まあ、前の席ということもあり、気になったので掃除をしていましたが……どんな方なのでしょうか。
本音は会いたいような、会いたくないような。期待と不安半分ずつ、といったところでしょうか。
「おや。そういえば、今日の日直は僕でした」
ウォークマンを止めながら職員室に向かうところで、僕は誰かとすれ違いました。小さな液晶に集中していたせいでしょうか、ぶつかってしまいそうでした。
「おっと、すまねえ」
「いえ、僕の不注意ですので……申し訳ありませんでした。では」
会釈して別れた後も、僕の記憶に鮮明に残る姿。明るくて、背の高いお兄さんでした。怖い感じはしなかったので、怯えずに言葉を交わせました。
人見知りの激しいはずの僕が……珍しいものです。
「な、センセ。あれ誰?」
「お前と同じクラスの黒城だ。お前の座席の後ろだから、これから顔合わせるだろうな」
彼は、軽いスクールバッグを担いで、子供の様な笑顔で笑いました。
「おっけー、覚えとく!」
僕の知らないところで、見えない糸は繋がっていくのです。
「さて、今日も一日平凡であることを願いましょう」
申し遅れましたが、僕の名前は黒城 國弘。第三高等学校に通う、極々普通の男子高校生です。ただ、ちょっと怪我が多いだけだとか、勉強も少し苦手というだけの、運動もそこそこって感じの、地味で目立たない、冴えない男子学生です。
自分で言っていたって、悲しくなりませんよ。だって、事実ですから。
でも、そんな僕でも人並みに恋愛はするようです。
今僕は、目の前の椅子に、横座りをして微笑む女の子に心を奪われています。
「おはよう、黒城くん」
「お、おはようございます……」
黒縁眼鏡のブリッジを押し上げて、わざと目を逸らしてみました。それを気にしないといったように、僕の前の席――有名な不良君の席――に座った、花のような美しく可愛い女の子。僕は人よりずっと物覚えが悪いので、いくらクラスの人気者でも、名前を覚えることができませんでした。なので、お慕いしているというのに……残念ながら、彼女を呼ぶというささやかな望みを達成することも出来ません。以前からお見かけしていましたし、朝も姿を見たのは確かなのですが。
「怪我、大丈夫? なんか増えてない?」
「昨晩、頭をぶつけたので……病院に行って来ました」
実はここだけの話、親が僕の頭を鷲掴みにして、壁と数度目になる正面衝突事故を引き起こさせました。これは故意なのでしょうか。ああ、故意でなければ歪んだ愛でしょうね。その瞬間の衝撃が強かったために圧迫感で胸が締め付けられましたが、当たって砕けなかっただけマシでした。今ではもう僕の血が付着した壁とは、愛し合い過ぎて病んでしまう程の仲なのです。
なんて……こんなこと、笑顔で言えるわけがありません。そんなこと言ったらただの変人です。電波です。間違いなく精神科を勧められます。
他人の前、クラスメイトの前で言う気はさらさらございませんが。
……えぇ。ただの独り言です、勿論寂しいですよ。
「…………そう、お大事にね」
僕は、ありがとうございます、と月並みな返事と共に、人の良さそうな笑みを浮かべました。
皆さん、もうお察し頂けたでしょうが、話す時は、いつも敬語ですよ。クラスメイトとは、いつだって初対面の気分なのですから。正直、この女の子の名前も未だに思い出せませんし、わかりませんし。僕は虚しくなって、そっと溜め息を吐きました。
なんだか、一人で一喜一憂して馬鹿みたいですね。
そうこうしている間に、腕時計は八時三十八分を指していました。
幾ら好きな女の子とはいえ、これ以上深く関わられるのも怖いので、口を動かしながら手も動かします。こうしていれば、彼女も自分に興味が向いていないと察してくれるでしょう。多少、罪の意識は感じますが。
「SHR始まるかぁ……じゃ、またね」
……またね、ということは、この席に来る機会が、再び来るということでしょうか。
「行って、しまいました……」
愛も変わらず、嵐のような女の子だと不思議に思っていると、忙しない足音の直後、何者かに首をホールドされました。こんなひ弱な青年にキメるとは、随分な挨拶ですね。クラスの皆さんは、彼に気軽に挨拶をしていますが、僕は大変困っています。
でも、そんな恨み言も、振り向いた途端に飲み込んでしまいました。
「よお、朝から熱いなあ! こっくじょーくん?」
笑顔で僕の後ろにいた彼は、朝、衝突事故をしたお兄さんでした。まさか同い年とは。
彼は校則違反ギリギリの、こげ茶色をした髪の毛を遊ばせています。よく見れば、耳にはシンプルなシルバーのピアス。こんな人に絡まれるなんて、生涯初めての経験で、僕は非常に戸惑いました。
しかし、根暗な少年と活発な不良の組み合わせに、周りの人が、興味深な視線をこちらに向けていらっしゃいます。助けて下さいとは言いませんが、贅沢を言っても許されるなら、この大型犬を何とかしてほしいです、切実に。
「おはようございます……えっと、あ……の」
やんちゃな大型犬は、引いた椅子に逆向きに座ると、にっこりと笑みを浮かべてきました。
……なんでしょう。この頭をわしわしと撫で回したい衝動は。
それにしても、目の前の席はかの有名な不良君のお席。遠慮なく座った、ということは彼が、その不良君なのですね。
あれ? ……そうしたら、先ほどの少女は何者なのでしょうか。
そこで僕は奇跡的に、昇降口で女の子が話していたことを思い出しました。
『派手に悪いことしたから謹慎なんでしょ。……でも、かれん、仲良かったよね?』
『幼馴染で、隣のよしみで、同じクラス。それだけだよ』
ああ、このお兄さんとお嬢さんは、幼馴染だったのですね。
珍しく正常に機能した頭で、不良さんと学校のアイドル、目立つ二人の関係性は理解しましたが、残念ながらそれは、彼のお名前を知ることには繋がりません。
「初めて会うからわかんないか? “こ”の次だから“さ”」
「さ……さいとう君?」
しばし悩む素振りを見せた彼は、指を鳴らします。
「惜しい! ……のかな。答えは、西木 杠だ。西の木、ゆずりはの漢字は、木へんに工事の工」
さいき、ゆずりは。彼の名前は不思議な響きで、僕の記憶媒体へインプットされました
「今日の授業変更の連絡だが……」
非常に申し訳ありませんが、いつの間にか始まっていたSHR――先生の朝の話は頭に入りません。本当は聞き流してはいけないことなのでしょうが、今は彼の変わった名前を覚えるので至極必死なのです。そんな風に、むんむん唸っていたら、ガーゼが宛がわれていない方の額を小突かれました。
「改めて、名前は? 俺、名字しか知らないんだわ、お前さんのこと」
「僕は、黒城です。黒い城と書きます。名前は國弘。帝國の國、弓へんに、片仮名のム」
彼は名前を復唱して、僕から奪った眼鏡をしげしげと眺めて、自分の顔に掛けたりしています。
近眼というわけでもないでしょうに、そんなことしたら気分が悪くなってしまいますよ。
とか言いつつ、僕は注意もせず、見ているだけなのですけれど。
彼が目を回している様子はひどく愛らしいものですからね。見た目はただのチャラ男ですのに。
「ほい、返す」
返ってきた眼鏡を掛け直して、僕はクリアな視界で、彼の整った顔を捉えました。
あぁ、丁度いいタイミングで思い出しました。聞きたいことがあったのです。
「あの、さっきの女の子の名前、わかりますか?」
「綿野かれんちゃん」
「かれん……」
ふむ、時折というよりは、ほぼ毎日小耳に挟む名前ですね。
次いで、可憐な花の周りには必ず蝶が飛んでいることに気がつきました。彼女が、学校の中心的人物であることに間違いはなかったようです。
しかしながら結果としては、学校のアイドルと言っても過言ではない彼女が、どうして、モブキャラクターとしての価値すら見出せない僕なんかに……卑屈になりすぎるのは、主人公という立場上、あまりよろしくありませんね。
言い方を改めて――彼女が何故、今までほとんど接点のなかった僕と、急に話そうと思ったのかについては、もちろん西木君が知っているわけもなく、謎のままなのでした。
先生のお話になる、授業変更やら清掃時間の変更、生徒会会議の連絡を犠牲にして、小さなキャパシティへ、どうにかしてまとめた情報を収めていました。
西木君が端正な顔を歪めて僕の顔を覗き込んできていました。
ニヤニヤと、一体なんだというのですか。イケメンが台無しです。今流行りの『残念なイケメン』という奴ですか? そうなのですか?
「なになにぃ? かれんに惚れちゃった感じかぁ? 黒城くん?」
「っち、が……違います!」
僕がせっかく小声で否定したのに、彼はケラケラ笑って肩を叩いてきました。
「っつーかよぉ、あいつはやめとけって。マジお転婆娘だから」
「ふえ?」
「なにげに女子からの支持率高いんだよ。お嬢様なのに紳士的な雰囲気あるから」
「へー……」
今度は内緒話をするように、綿野さんについてお話を始めました。
そんな楽しそうに笑う彼の背後に忍び寄る不穏な影……というか西木君が気づいていないだけなのです。
僕、真ん中の一番後というオイシイ席だから解るのですが、他の人は全く気がつかない彼を見て笑いを堪えているのですよ。お気付きになりませんか、西木君。
「西村君、あの」
「西木だって。てか、お嬢だけはやめとけよ。高すぎる理想は身を滅ぼすぜ」
「いえ、そうじゃなくて」
「なん――だぁっ!」
「……あー」
先生の、チョークまみれの手で丸められた連絡ノートが、パコンと、なんともまあ……お約束な音を立てました。柔らかい髪の毛で覆われた西木君の頭を一発、叩いたのです。
「SHRの真っ最中に教師に背を向けることも、身を滅ぼすことになるぞ、西木」
「へいへーい」
クラスが、笑いに包まれました。僕もつい、笑みを零してしまいます。
彼も自分が悪いことは理解しているみたいで、ため息をついた先生が教卓に戻ったあと、小声で謝ってくれました。僕も本当に申し訳程度ですが、小さく謝りました。
さて、SHRも終わり、もう少しで一時間目が始まります。
皆々様も、この思いに激しく同意をして頂けることでしょう。この時間割を考えた方は、即刻僕の前にお出でなさい。何が嫌って、朝一番の体育と移動授業ほど、面倒なものはございません。
なので……と繋げるにはあまりにも無理がありますが、早々に着替えて保健室へ逃げましょう、そうしましょう。朝食を手短に済ませたせいか、今日の体育はいつも以上に気分が乗らないのです。
意気込んだのも束の間、心なしか晴れやかな表情だった僕の顔を、仰け反った西木君が大きな手で挟みました。
貴方、僕をからかうのお好きでしょう、そうなのでしょう。今なら怒りませんから、正直におっしゃって下さいまし。
「な、黒城。次ってなんだっけ」
僕の心の叫びを華麗にスルーし、知らなければいけないことを彼は敢えて聞いてきました。少し離れているとはいえ、目の前に貼られている時間割がとても可哀想に思えてきます。
ちなみに、授業変更があるのは五時間目ですよ。
「体育……協議はバスケですよ」
「お。俺の十八番じゃーん」
欠伸をひとつ漏らすと体を伸ばし、大きな背中が廊下に向かいました。ようやくロッカーからジャージのお出ましです。僕は脇に置いていたスポーツバッグから長袖を取り出しました。もぞもぞと、マイペースで着替えます。以前、焦って着替えたら眼鏡を落として踏んでしまったので……。
そんな僕とは違って、皆さん着替えがあっと言う間で、僕らが最後になってしまいます。でも僕、あとはズボンを履くだけです。待つだなんて、優しいことは致しませんからね。
少し浮かれた足取りで、シューズを持って、ドアを出ようとしました。
「うごっふ!」
僕らしかぬ低い変な声が出たのは、背中に大型犬が飛びついてきたからです。
はい。正直に申し上げますね、西木君……締まっています、苦しい、と。
僕は痩せ過ぎ、西木君は筋肉質……身長と体重が釣り合わないこのコンビの体重差を、ちょっとは考えて頂きたいものです。
「さ、西木君。あのですね、僕は保健室に――「こっくじょー」
ちゃんと立った西木君によって窒息は免れましたが、今度は肩を組まれました。
なんですか、何なのですかこのお戯れは。僕は今、この高校の全女子を敵に回していますよ。
学年問わず異性に人気があることを自覚しているのですか、この殿方は。あぁ僕ってば男子で良かったです! 女になりたかったと思う時もありましたが、今は男に生まれて良かったと思います!
僅かに混乱している僕の思考回路を差し置いて、彼は軽い調子で言います。
「なあ……組もうぜ?」
「何を、ですか」
怪しいと確信を持ったのは、彼のお得意の太陽の様な笑顔が含み笑いになっているからです。
爛々と輝く目に、悪戯心が浮かび上がっていますよ、貴方。
「バスケのチームさね」隠されもしない企みは、ついに音になって僕の耳に届きました。
「っなんで、僕が……」
まだ名前をうろ覚えな養護教諭の人、ごめんなさい。朝は貴方にお会いできそうにないです。
許されることならば、彼を少し呪いたいです。
保健室へ飛び込むことにより、唯一癒しの時間になり得る体育が、一気に悪夢の時間へと変わってしまいました。この表現はオーバーではないでしょう? 僕、完全な文系ですし。
「なっ? 俺にパス回すだけでいいからさ」
「は、はぁ」
二つ返事の直後に、長針の動く音がやけに大きく聞こえました。時計を見てみると、秒針は既に文字盤の四分の一を越えていました。
な、なんと……あと一分切ったということですか!
非常にまずいです。初出席が遅刻だなんて、我ながら大失態も良いところです!
「西木く……早いですね」
次に見た西木君は、既にジャージに着替え終わっていました。
「チャイムが鳴るな……行くか」
「い、いつの間に着替えていらしたのですか」
「俺、寒がりだからさ。重ね着してるんだよ」
寒がりな彼の、ヒーローの変身よろしく、あっと言う間に済んだ着替えのおかげで、チャイムの余韻が消える前に、体育館に到着する事が出来ました。先生の情けで辛うじて遅刻は免れましたが、クラスメイトから向けられる矢の様な視線が、とても痛かったです。
そんなに見ないでくださいよ。穴が開いてしまいます。はてさて、血が噴き出したらどう責任を取っていただきましょうか……。
こんな現実逃避ぐらい、今だけは許してくれますよね?
「お前ら揃って遅刻寸前とは……いつの間に仲好くなったんだ?」
ガッと、彼のたくましい腕が僕の首にジャストフィットしました。貴方、どれだけ人様の首を絞めれば気が済むのですか。あ、ちょっとそこの体育委員さん、酸素下さいまし。
「今日から友達になーっりまーしたっ、まる!」
「西木、西木。黒城の首、キマってるぞー」
御安心ください。こんなものでは僕、死にませんので。それよりも羞恥で死ねそうです。
「黒城君、いつの間に仲良くなったのかな」
「席が前後だからね」
「西木君人懐っこいもんね」
恥ずかしくて顔から火が出そう。意味を、身を持って知りました。このことだったのですね……。
「先生、授業ー」
顔をうつ向かせていると、意見が助け船のごとく発せられました。
ありがとうございます! 感謝感激雨霰です。名も分からないクラスメイトBさん!
「おっと、悪いな、小佐。じゃあこれで全員揃ったんだな。西木と黒城は今日、後片付け」
遅刻しかけたからですね。わかります。
「そうだ。黒城、怪我はいいのか?」
「はい。縫合したわけではないので……し、支障はないです」
視線を浴びる中、体育に出席する旨を伝えました。
もう、皆さんじっと見ないでくださいまし! 暇なら人間が一人入れるくらいの穴を掘って頂けると嬉しいです。早く掘ってください、迅速にお願いします。出来たら真っ先に入りますから。
「しっかり体ァ解してから、バスケの練習入れよー」
先生の合図で、皆散り散りになりました。とは言っても、数週間ぶりにやることになった僕の体操はダラダラとキレのない動きで、とても見られたものではありません。
僕は運動不足が祟って、自主練習になるなり息を乱して床にへたり込んでしまいます。
なんとか顔の熱も引いた頃に、現実は眩しい光を伴ってやってきました。
テンポ良く床を叩くボールから視線を上げると、太陽のような西木君の笑顔。
背中に背負った光が後光の様です。チーム編成は終わったのでしょうか。
「よっし、黒城。お前さんの本気を見せてくれ」
「……僕、動きませんよ」
体育座りで鬱蒼とした、暗い雰囲気を纏った僕の言葉を聞いて、彼は気障っぽく指を振ります。なるほど、イケメンはどんな動作でも様になるのですね。把握しました。
そんなイケメンはフツメン以下の僕を諦めてくれる様子はないようです。
「黒城の旦那。ここは潔く腹ぁ括りましょうや」
重い腰を上げた僕の横に、西木君は並びました。
「バスケは動いてなんぼだ。期待してるぜ」
自信に満ちた横顔を見ていると、妙な安堵感が生まれます。
仕方ありませんね、と高校初の握手を交わして、彼に言われた配置につきました。けれど彼はジャンプボールの位置には着かず、僕の前に立ちました。
「どうかなさいました?」
疑問符を浮かべながら首を傾げると、真剣な声で名前を呼ばれて身構えてしまいます。
トン、と暖かな拳が心臓に当てられました。
緊張した僕にとって、それは何か儀式めいたものに思えました。
「ジャンプは、必ずお前にボールを渡す」
彼は小声で囁くと、悪戯っ子のようにウィンクをします。
「え……」
「だから、走れよ?」
唖然とする僕を置いてけぼりにして、彼は陣の中で低く構えます。
お待ちくださいな、西木君。僕はバスケなんて小学校以来ですよ。不健康が制服着て歩いているような僕に、一体全体、何をしろというのですか。
不機嫌が最高値に達した直後、耳障りな笛を合図に、ボールは高く放られます。西木君の鋭い眼は、それを真っ直ぐ睨んで離れません。
乾いた音のあと、息を飲む暇もなく、すぐに飛び込んできたボール。
僕の眼鏡を叩き割らん勢いで来たのですが、僕はジャンプをしてしっかりと両手で掴みました。やればできるものですね。
けれど、相当な力で叩いたのでしょう。ビリビリと、馬……強い力が直に伝わってきて、ドリブルがうまく出来ません。あ、ちなみに運動は数年ぶりです。見学王の名は伊達ではありません。
「黒城! 行け!」
「はっ、はい!」
それでも西木君の声に背中を押されて、慣れないドリブルをしながらコートを走ります。左右には常に敵の軍勢……足の遅い僕は簡単に囲まれてしまいました。
バスケ初心者のしょうもない男子生徒に、総員動かしたって仕方がないでしょう!
キュッと、ブレーキを効かせた体育館シューズが鳴ります。気を抜いて考え事をしていたら、コート外に出そうだったのです。飛び出す前にボールをがっちり抱えました。
僕が少しでも動けば、相手もじりじりと詰め寄ってきます。見回す限りは四面楚歌だなんて……味方、何をしているのですか! 流石に遠いですよ!
こうも囲まれてしまっては、背の低い僕にはどうにも動きようがないですね。
はてさて、どうしましょう。目の前の壁は、背後の壁二号、三号に向けて指示を出します。
「いいな。次も西木と黒城の連携を止めろ」
おやおや。敵の思惑通りではありませんか。ですが、いくら温厚な僕でも、本人がいるにも関わらず堂々と作戦を出されては腹が立たないわけがないです。
謀略はもっと狡猾に、沈黙を守って行うものなのではないですか?
ため息をつく僕の両手にはボール。けれど今ゴールは真上にあります。
ええい、こうなれば一か八かの大博打です。
……今一瞬、僕の動きに期待した方は申し訳ありませんが、真上めがけて投げるわけじゃありませんよ。そんな面白いこと、僕は絶対にしませんから。
「さ、佐々木くん!」
「だーかーら……」
全力でジャンプし、ディフェンスの手が伸びる直前、正面に見えた長身に向かって、全身全霊で投げます。コントロールもままならない僕の暴投は、西木君が片手で難なくキャッチしました。
その途端に、標的は僕から西木君に移り変わりましたが、時既に遅し、というやつです。
彼は、僅かなディフェンスを全て追い抜いて、ドリブルからジャンプの構えに入るところでした。
「さい・き、だっつー……」
ばねの様に、しなる身体。誰も長身の彼に届くはずがなく、そのしなやかな腕は何にも妨げられることなく、神さまに捧げるかのように、宙へ伸ばされます。
皆はまるで、奇跡の瞬間を拝むかのように、眩しそうに彼を見上げています。
あぁ、俯いていたのですっかり忘れていましたが、そういえば相手ゴールは逆光でした。
「――のっ!」
ゴールが壊れてしまうのでは、と不安になるほど大きな音を立てました。
ダンクシュートが、華麗に決まったのです。
「初点、もーらいっ!」
彼の得意げな笑顔と一瞬の静寂のあと、クラスメイトから張り裂けんばかりの大きな拍手が鳴り始めました。おまけに二階からの応援、というか黄色い歓声。全く、人気者は大変ですねていうか女子、そこにいたのなら、試合の時ぐらいカーテンを閉め……いえ、所詮は男子Aの厚かましいお願い。贅沢な結果は期待しません。
眩しさから解放されている薄暗い場所を求めて、静かにその場を離れました。日陰を作りだすスコアボードの傍から、彼を眺めます。
敵味方構わず褒めちぎられて、思わず困り顔の彼に同情……なんてしませんよ。出待ちに捕まった芸能人のごとく、もみくちゃにされてしまえばいいのです。
二階にいる女子の一部が、こちらを見ているとは思いもせずに、僕は静かに笑ったのです。
「ねえ、クラスにあんな子居たっけ?」
「ほら。今日の朝、かれんちゃんが話しかけてた子」
「あー、西木くんの後ろの、え……っと、黒城くん」
「結構いい運動神経してるよね。最初の頃は骨折で出てなかったけど」
「治ってよかったわー。おかげで良い連携プレー見させてもらったし」
「かれんもそう思わない?」
同意を求める声に、少女は優しく微笑んだのでした。
「……ええ、そうね」
それは、愛情にも似た愛憎。彼女が鋭く砥いだ羨望の眼差し――黒い刃は、痛みも苦しみも与えないで、そうっと静かに、僕の身体を貫いていったのです。
閲覧ありがとうございました。




