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役者はすべて揃い宴が始まる

痛い。

 疑問符が周囲に舞っているこの状況下、どうしたものかと身動きできずにいたが、ひとまず時間を見ようと携帯電話を探す。しかし、ポケットにも鞄にも見当たらない。

 このままでは遅刻してしまうと、少し焦った面持ちで、今までの経緯を思い返す。

 朝起きて携帯電話を片手に、水を飲みにリビングに行って、玄関で物音がしたからテーブルにコップと――……そこで少年は、ハッと息を呑んだ。

 見送りの前、リビングにあるテーブルの上に置きっぱなしにしていたことを思い出す。

 恨めしい眼差しを洋館に向けて、少年は玄関まで引き返す。

 数刻前の自分を思いっきり殴り飛ばしたくなったが、そういう痛いことが好きな性癖ではないし、どう考えても物理的に無理なので思うだけにしておいた。

「戻りたくはないのですが……」

 携帯電話を置きっ放しにしておくと、壊される可能性が非常に高いので渋々戻る。鍵で錠を開けて、恐々と扉を引いた。音を立てずに靴を脱ぎ、深呼吸をして食堂に入る。

「馬鹿野郎が!」

 空を割いて皿が飛んできた。顔面に当たり、眼鏡が吹き飛ぶ。瞼から伝った血を拭って、よろめきながら立った。

 昨日心霊番組の動画なんて視聴していたから、ポルターガイストか。などと冗談を考えたが、まさか。そんなわけがない。丸い皿を、しかも一番的が小さい顔面へ正確にぶつけてくる、コントロールが無駄に良い人間など、我が家には一人しかいない。

 少年の育ての親、養父その壱である。ちなみにその弐はいない。養父の名前を久しく呼んでいない少年は、義理の父親カテゴリに該当していた男の固有名詞をとんと忘れてしまっていたのだった。

「テメーが汚したもんもろくに片づけらんねーのか、クソッタレが」

 どうやら彼の怒りの発端は、少年が汚した壁にあるらしいが、根本的な原因は継母が感情に任せて少年を痛めつけていたせいである。理不尽な言い草にかすかな怒りが募る。

 掃除しなくてごめんなさい、目の前でなんて謝罪をするとでも思っているのだろうが、そうはいかない。なけなしのプライドが、瞳に炎となって灯される。

「何か言ったらどうだ? ええ? このクソガキ!」

「うぐっ!」

 勢い任せに肩から蹴り倒され、ギロチンよりも性能の悪い足が落ちてきた。

「――っ!」

 バギン、と太い枝が折れた音に酷似したそれ。踏み潰された腕を横目に、彼は息をのんだ。

 脳に響くように聞こえた鈍い音は、自分の骨が折れる音だった。少年の左腕は一瞬で自己の機能を見失う。利き腕でないだけでも良かった、という考えに一瞬至ったが、何も、入学式である今日でなくたって、と無性に泣きたくなってきた。

 悲しさが思考の半分を占めたところで、折られた箇所が、じくじくと、熱さと痛みを孕む。ぼろぼろになった片腕が、自分のものではないような気がしてきた。

 声にならない悲鳴が、喉から息になって出てくる。ショック症状か、荒い呼吸が止まらない。

「綺麗に片づけとけよ」

 過呼吸に苦しむ少年の薄い腹部を蹴り捨てて、男はリビングを出た。

「――ッヒュ、ヒュー……ッゲホ、ゲホ……」

 呼吸を落ち着かせる暇もなく、ついに過呼吸になり始めた。

 眩む視界の中で、霞んで見えたテーブル。上にあった袋状のものを引っ張って口を覆う。少し酒臭かったが、この際気にならなかった。

 苦しさに涙が止まらず、吐き気まで催してきた。

 だが、少年はこの環境の理不尽さを問うこともしなければ、絶望して生きることを諦めるようとしない。今はただ、時の流れるままに生きている。いつか来るであろう、幸せの訪れを、彼は純粋に信じて待っているのだった。

「ハッ、ハー……はあ、……で、んわ……」

 今の希望は、命綱とも呼べる携帯電話。

 卓上から持ち主を見下ろしているそれを、右手で掴み取り、タクシー会社に掛けた。

「いつも、お世話になっております。水城さん……お願いします」

 保留の間、流れる音楽が眠気を誘う。この気だるさは睡眠不足や疲労だけが原因ではない。失血も要因の片棒を担いでいる筈だ。瞼を下ろした時、メロディが途切れて、切羽詰まった若い男性の声が聞こえた。

「あ……、おはよ、ございます……黒城、で……す」

「黒城君? どうしたのっ?」

 電話の向こうに居る彼は、水城貴虎。黒城の両親と繋がりが深く、少年の数少ない心の拠り所である人物だ。営業なんて関係ない、語気を荒くした様子に申し訳なく思った。

「……階段、から、落ちて……しまいまして……」

 一呼吸置いてから、使い古された理由を今日も少年は述べる。

「わかりました。私のケータイからかけ直すから、電話繋げたままにして下さい!」

「み、ずき……さ……家……の、鍵」

 空いています、と不用心なことをのたまいながらも、安堵した少年の、掠れた声が聞こえる。

 心を締め付けられるような、鋭い痛みに襲われた青年は、携帯電話が耳元で軋む音を聞いた。

 車の鍵を掴み取ると、制止の声も聞かずタクシーを走らせる。

 コールがかかっている間に、携帯電話のホルダーへ投げ込んだ。

「待ってて。今すぐ行く」

 ハンズフリーのイヤホンからは、僅かだが返事が聞こえた。

 大きな道路に入るなり、ほぼ手加減なしでアクセルを踏む。法定速度ギリギリのスピードですら、苛立ちを煽るには十分な要素だった。

 なぜ他人に構うのだと同僚には笑われた。同情、偽善ならば取り返しがつかなくなる、返って少年に酷だ。とも言われた。けれど、放っておくわけにはいかない。

 彼を動かすのは、親友との約束と少年に対する愛情だった。

 少年が、しばらく意識を飛ばしていると、乱暴に食堂の扉が開かれた。

 名前を呼ぶが、もう気絶してしまっているのであろう少年の唇からは、苦しそうな細い呼吸しか返ってこない。

「……黒城君」

 飲みかけだったが、凍らせてあった冷たいペットボトルを渡す。

 痛みと熱に浮かされたような瞳が、そっと開かれた瞼の下から見えた。不安そうに潤んだ視線を受けて、会社の救急箱から持ってきていた解熱剤を飲ませた。

「今、車に乗せるから、もう少しだけ我慢して」

 恐らく頷く気力もないのだろう。僅かに首が動いただけであった。

 ――この子、高校生になるのに……こんなに軽々持ち上げられるなんて……。

「黒城君……もう、児童相談所に行こう」

「僕が、何かアクションを起こせば……怪しまれます……僕はまだ、人形でいなければいけません」

 少年はぼろぼろになった携帯電話を握り締めたまま、腕で目元を覆ってしまった。

 一筋の熱い雫が、青痣の上を滑る。

「……この先も、ずっと」

 赤信号、タクシーは停止線前でそっと車体を止める。

 黙りこくったままの乗客に、まさかと嫌な汗が流れた。

 口元を見ると僅かに動いていたので、ただ寝ているだけと分かった。

 無垢な寝顔に、自然と笑みが零れる。

「黒城君、幸せは……自分から掴みに行かなくちゃいけないんだよ」

 噛み締めた唇からは、涙の代わりに血が零れ落ちた。

 病院に着くなり電話をかけて、少年の担当医に取り次いだ。焦りを隠しもしない声音で担架を持ってくるように頼むと、何かを察したのか大きな舌打ちをひとつ、勝手に電話を切った。

「こんな大怪我……ずっと前からだ。お前も知ってんだろ」

「わかって、る……」

 投げ出されたカルテと診断書。ボールペンが机の上に転がった。

 病名が空いているのに気が付いて、俯いていた男は視線を上げる。

「骨折数か所、頭部裂傷、貧血、栄養失調、神経性胃腸炎……」

 挙げられていく身体の異常に、思わず身を震わせた。

 細い体で、一体どれだけの暴力を受け止めて来たのか。

「僕が……彼を引き取れば――」

 途中、鋭い視線を受けた水城は、ぐっと息を詰めた。

「お前の家には祖母さんがいる。介護だけで手エいっぱいだろーが、おい」

「けれど……」

「もう黙れ」

 ギィと事務椅子が軋んだ。口を開きかけた水城が、言葉を飲み込む。

「……暫く休ませて、学校に送ってやれ。料金は俺が払っておく」

 財布を取り出していた彼の手を、ほんの軽く叩いた。

 それでもどこか、納得いかないという表情を浮かべた男に、医者は苦笑を返す。

「この坊ちゃんに、あとで返してもらう」

「お前、何考えて――」

「お前こそ何勘違いしてんだよ。泊まった時に弁当作ってもらうだけだ」

 明らかに安堵の溜息を吐く男の顔面に向かって、診断書の入った封筒を投げつけた。

「さっさと行け。今日は、大切な日なんだよ」

 医者の瞳には、優しさが籠っていた。

 

 治療後、水城は無言で車を走らせていた。

 ――黒城君には、幸せになってほしい。兄と同じ境遇を辿ってほしくない……!

 ハンドルを握り締める手に、力が籠る。

 誰も居ない正門の前に、ゆっくりとタクシーを止めた。

「ん……?」

「……黒城君」

 片腕で、起きにくそうにしていた少年を手伝った。

 祖母のためにと、日夜寝ずの番で練習した介護の技術。それは不器用なりに上達したが、こんなところで使う事になるとは、思ってもいなかった。

 水城は彼に見えないように、唇を歪める。それでも、声色だけは優しくしようと努めた。

「学校に着いたんだよ」

 そろそろと、視線を上げる。自分を抱き起こす水城の後ろに、学校の校舎が見えた。

 感嘆の声が、水城の耳に届いた。本当に嬉しそうに、笑い声をあげる少年が、年相応に見える。

「大分遅れちゃったけど、病院の先生が連絡してくれたし、式自体にはまだ間に合うはずだから」

「あ、ありがとう……ござ、い、ますっ! えっと、あれ?」

「これ、飲み薬と湿布、あと替えの包帯とかガーゼが入っているから」

 あれよあれよという間に、必要なものを全て持たされた。

 目を白黒させる少年の頭に、そっと手を寄せる。彼は少し肩を竦ませたが、髪の毛を梳く優しい手つきに安心して、ふっと身体の力を抜いた。

 片手を引かれ、ようやく地面の上に立つ。

「黒城君、いってらっしゃい」

「……い、いって、きます!」

 はにかんだような笑顔は眩しいもので、水城も自然と顔を綻ばせた。

「と、ところで……体育館は……?」

 静まりきった廊下に、彼は独り取り残されていた。

 白墨が黒板を叩く音も、人の囁く声も、鳥の鳴き声も、風の唸り声も、何も聞こえない。

 息を呑む音が、やけに大きく聞る、不気味な程に静寂を貫く校舎内。

 嫌がおうにも、少年が孤立した存在であることを押し付けてきた。

 周りから排他され続けてきた彼だったが、こうも孤独を真正面から押し付けられると、無性に泣きたくなってしまうのだった。

「わ、わか、らな……い。どうしたら……」

「――ねえ、ちょっと……いいかな」

 それからしばらくして、入学式は無事に終わった。

 教室で、少し強面の担任が、出席を取り始めた。次々と読み上げられていく、聞き慣れない音の苗字にざわつき始める一同。

 第一印象に反して、教師はやんわりと宥めると、呼名を続けた。

「ハレマキ……ヒカゲダテ、ヒノデ、ホヅミ、……えっと」

「先生、ヤツモンジです」

「すまん。ヤツモンジ、ヨコダテ、でいいのか――」

 朝方、門の前で見かけた少年――黒城、そして幼馴染である青年――西木は同じクラスの筈だが、視界のどこにも映らなかった。今空いている席は二席のみ。

「ゆず君と……あの子がいない」

「ワタノ?」

「あ、ワタヤです」

 出欠の確認を終えた担任は、気まずそうに頭を掻いた。ちらりと向けられた視線の先には、二つの空席。まさか、と少女は麗しい相貌を険しくして、硬く硬く拳を握りしめた。

 朝方、あれだけ注意したのに、寝坊した上に“任意同行”に易々と応じて、挙句の果てにひと悶着起こしてきたのだろうか。はたまた、目覚めも準備も万全だったが、哀れ学習能力のない不良に絡まれて正当防衛を取ったのか。

 後者の場合、西木に罪はない。ただし前者が問題だ。

「あー、それで、皆にお知らせなんだがー……」

 まるで、小さな小石がドアを叩くような、微かなノックが、生徒の耳に届く。

 廊下側に座っていた生徒ですら聞き逃してしまい兼ねない音だった。

 生徒Aが見逃さなかった……または聞き逃さなかったというのだろうかどちらにしろ、入学式当日に遅刻してきたという果敢な勇者を受け入れたのには、理由がある。

 擦りガラスの向こうに小柄な影を見つけたからだ。

「先生、誰か来ていますよ」

 担任は首を少し捻ると、名簿を見て思い当たる名前を呼んだ。

「もしかしたら、黒城か? 連絡は来てるぞー。入れ」

 おぼつかない動きで、ドアが横に滑る。ざわめきを抑え込むクラスメイト達。

「遅れて申し訳ありませんでした」

 少年は眼帯の上に黒縁眼鏡という、風変わりな姿をしていた。殊更目を引くのは頬に貼られた分厚いガーゼと、左腕を吊る真新しい三角巾。

「おお、しかし大変だな。入学早々、交通事故なんて……動いて大丈夫なのか? 」

 嘘も方便。周りを嘘で固めても、剥がされなければいいだけだ。

 痛々しげに微笑んで是とし、少年は教室のドアを閉めた。

「名前、コクジョウであっているかな?」

 

「はい。僕が、黒城國弘です」

 

 これが、この物語の主人公である『黒城國弘』の初登校である。


ご指導お願いいたします。

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