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西木少年の憂鬱と変わらぬ日常

優しいくて強い商店街の人気者なDQNと、ある意味主人公より男前なヒロインの登場。


大人たちは悩みます。どうしたら救えるのか。

でも、暴力を振るう親になにがあったのか、それを講義できいて、俺も頭を抱えました。

暴力はいけないこと、でもどうして?

それを考えるたびに、頭がショートしそうになります。

「やっべ……寝過し、た?」

 携帯電話の液晶画面に映る、午前九時の文字。

 ――アラームは一体誰が消したんだ?

 状況を把握しようとするが、脳がまだ起きない。

 枕元に鎮座していたはずの目覚まし時計は、哀れ、無残な姿で壁際に転がっていた。

「あれ? アラームは!」

 再び携帯電話に意識を向けた彼は、鳶色の目を画面の端に遣った。

 それは、新規メールと不在着信を知らせている。相手が誰かなんて、わかりきっている。

 もう、素っ気ないを通り越して業務連絡ばりの、今時の女子高校生とは認識されがたい、実にシンプルな文面が在った。

『おはよう、ゆず君。今日も“何回も”声を掛けたからね』

「……マジかよ」

 マジだった。本気と書いてマジだった(いや、この場合は本当と書いてマジだが)。着信履歴が、アラームのごとく五分刻みに十件、メールの受信が十分ごとに十二件。

 彼は、深い後悔と反省の念で唸り声を上げた。

『今日は入学式でしょ。遅刻なんてしたら……ぶっ飛ばす』

 この業務連絡の様な、無機質な字面を目の当たりにしてしまうと、どうしても焦燥感が真っ先に自分の運動神経に飛びついてくる。

 彼は襖を開け放った。これからの四十五分に、人生の全てを託す。

「じいちゃん!」

 慌ただしく階段を駆け下りれば、少し年を積み重ねた木造の階段は、ドタドタと激しい音を鳴らす。彼の祖父は、録画していた野球の試合に熱を上げていたが、焦りを含んだ孫の声音を耳に入れ、一時停止のボタンを押す。

 台所に消えた孫の姿を一瞥して「応」とひとつ、返事をした。

「朝メシだけど、じいちゃんの分は昨日の晩に作り置きしたから、電子レンジで温めて食えよ!」

 味噌汁碗に放られたご飯は、お茶漬けの素で味が足されていく。氷を二、三個突っ込んで、強引に冷やしたお茶漬けご飯を口の中に掻き込んだ。ほんのり効いたわさびの味が段々と脳味噌を活動的にしてくれる。

「問題起こしてくんなよー」

 丁度飲み込んだところに野次改め、心配する祖父の言葉。幼少の頃から耳に入れて生きてきたものだから、思わず悪態をついてしまう。

「っせえ! 聞き飽きたわ、クソじじい!」

「人の行為はありがたく受け取っておけ、馬鹿孫が!」

 今ではそのやり取りも日常のこととなった。笑って手を振ると、祖父も座イスから立ち上がって、玄関まで見送りに来てくれた。

「今日の晩飯は入学祝いに、魚を捌いてやろう」

「マジか! ……期待してるぜ、じいちゃん」

 飛び出せば、視界一杯に広がる青空。文句なしの快晴に青年の顔に、自然と笑顔が浮かぶ。

 今日も一日、元気に過ごせそうだ。

 すっかり顔馴染みになった、パン屋のおばちゃんから受け取った食パンは、どうやら焼き立てらしく、ふわふわと空腹を助長するような良い香りがする。

「ふわー! 超うめー」

 感嘆の声をあげて、甘さを感じる厚切りの食パンにかぶりついていた時だった。

 目の前に立ちふさがる、金髪で黒衣の男達……と遠回しに言えば、とても怪しい感じがして恰好は付く。だが単刀直入に言ってしまえば、短ランを風にはためかせて肩をいからせている、そこら辺に居そうなただの不良達である。

 “街のお掃除屋さん”と自分を称しているものだから、善良市民代表であるとタスキを掛けたい青年。しかし、生憎こんな目つきの悪いお兄さん達に道の途中、声をかけられる覚えが幾多、数多もありすぎる。“善良市民”の称号獲得のために、この挑戦を無視したかったのだが、そういうわけにもいかないようだ。

 無視をしたが最後、罪も無き公共物達が数個、その役目を全うすることなく形を崩されてしまうだろう。

「おう、コラ。ちいとばかし、面ァ貸してくれねーか?」

 青年は男のダミ声で、一気に現実へと引き戻され、頭を掻いて、仁王像にも劣らぬ強面な男達を視界に押し込めた。

 こんな筋骨隆々な男どもに呼び止められるよりも、長髪で黒髪の可愛らしい女子とか和風美人と、曲がり角で運命的な出会いをしたい。

 もっしゃもしゃと、口の中にあった食塊を飲みこんでから一言。青年は試行錯誤の結果を言った。

「だが断る、ってわけにゃあ行かなそうだな」

 ――前略、幼馴染様。どうやら私、西木杠の入学式は、喧嘩で幕を開けそうです。

 道中、駄菓子屋のおばちゃんが心配そうに男達の軍勢を見送っていた。

 先頭に立っている“食べ歩きに定評のある青年”は、ひらりと手を振って笑った。

 まだ静けさが保たれている商店街を抜け、無機質な壁が剥き出しになった倉庫街に入る。

 無邪気に笑う青年は、怒り、殺気を隠しもしない凶暴な獣に囲まれていた。

「おいおいおい……」

 哀れな羊の憂いを余所に放り投げた直後、貨物が積まれた陰、コンテナの上など、わらわら湧き出る不良の群れ。全員、どこかに怪我をしていた。殴り覚えのある顔ぶれに、一層気だるさが増してガシガシと短い髪の毛を掻いた。

「こんな辛気臭いところ出て、入学式に行きたいんだが」

「そりゃあ残念だったな。今日はお前の入棺日だ!」

 今の不良を言葉で表すならば、猪突猛進。仲間に煽られたこともあり、威勢よく駆け出す。

 青年の腹に向かって、砥がれたバタフライナイフを突き出した。

「そりゃあ困った」

 狙ってきた腕を掴み取り、容赦なく捻り上げる。

「足りないんじゃないか? なぁ」

 開いた片手が、呻きを漏らす男の肩に置かれた。彼の厚い肩はメキメキと音を立てている。

 突き刺すような痛みを孕ませる指。異様な雰囲気に彼らは身を硬くした。

「本当にひとつでいいのか?」

「なっに……が、言い――ぐぉあ!」

「棺桶は、ひとつだけなのか?」

 置かれた手の指先が、獣が剥き出しにする牙のごとく肩に食い込んでいく。

 最初は間抜けな顔で捕らわれていた男も、肉を穿つ牙に耐えきれず、表情を強張らせていった。

「お兄さん、困っちまったよ。なあ」

 実際は困ってなんかいない。むしろ憂さ晴らしの標的を見つけることが出来て万々歳だ。

 人の良さそうな笑顔から一変、犬歯を剥き出しにして凶暴な捕食者の顔を晒した。

 不良達は目の前に突如飛び出してきた獣の姿に、引き攣った声を漏らした。

 今まで、自分たちの群れに大人しく付いてきた好青年の、温和な面影はどこにもない。

「棺桶、今の内に追加注文しとけや」

 逃げることが許されなくなった獲物の鳩尾へ、青年の膝頭が突き刺さる。一瞬だけ息を詰まらせた男は、力なくコンクリートの床で、ぴくりとも動かなくなった。

 倒れた不良Aなど気にも留めず、羊の皮を脱いだ猛獣は、周囲を取り囲んでいた人数を数え始めた。吟味されているようで落ち着かない男達は、頭の中で逃げる算段をする。

 如何様にすれば、どんな手段を用いれば、この猛獣の牙から、爪から逃れられるのだろうか。

 いや、逃げるのは無理かもしれない。ぜい、ぜい、と呼吸が限界を訴えている。思考回路も警報音を鳴らし始め、脳や体が、この重々しい空気に耐えられずにいた。

「テメーら、逃げよう、なんて考えるんじゃねえぞ」

 そういうリーダー――今回の言いだしっぺの顔を見れば、冷や汗がこめかみから伝っていた。

「いち足す……」

 数えると同時に、青年は狩る順番を決める。気弱な不良は、遠くでぎらつく双眸から目を逸らして、自分の運の無さを嘆いた。

 こうなったら、自分も覚悟を決め、敗北の道を進むしかない。この結果は、愚かな行いからなったものである。

 自分達は怒りに任せて、剥いではいけない衣を奪い取ってしまったのだ。それも、一個艦隊を編成しても敵わないような、大型の獣が纏う衣を。

「ひぃ、ふう、み、よ……」

 獣は生贄を吟味する。その指は鋭い爪のように、一人ひとりを指し示していった。

「今日は棺桶屋が大儲けだぜ」

 ニヤリと浮かんだ、挑発的な笑み。

「――っちょ、調子に乗ってんじゃねえぞ!」

「過去の英雄は大人しく隠居してろぉ!」

 駆け寄る二人の男。彼らは、結束とは名ばかりで、今や逃げ出したい気持ちで固められた烏合の衆の中でも最も体格が良く、傍から見たならば、勝負は圧倒的だろう。けれども、仲間達は戦慄いた。怒りではなくて、恐怖で拳を、指先が白く変わり、爪痕が残るほどに強く握り固めた。

「アンタらさァ……俺が誰だか解った上で、喧嘩売ってるんだよなァ?」

 青年が一語発する度に早まる鼓動。後悔をするには遅すぎた。

 男共の顔に埋め込まれた拳、裏拳。

「タイマン張るのもかったりィ。お前ら全員、まとめてかかってこい」

 無防備に上げられた両手。だが片手には大切そうに、鞄のベルトがしっかりと握られていた。そう、振り回しても決して手から離れることがないように、しっかりと。

「鐘ヶ崎の王は不変不動……、この俺様っつー証拠を見せてやる!」

 スポーツバッグをスイングさせて、一人の顎にアッパーの要領で叩きつける。直後、隣にいた仲間のこめかみをめがけ、弧を描くように思いっきりぶつけた。不良の顔は、激痛と苦渋の表情で歪む。

 その要因は、中に詰め込まれている固い教科書達。それは重力に逆らうことなく、下に沈む。

 重しでバランスを取り、飛びかかって来た無法者の腹に容赦なく蹴りを入れた。そのまま強く足を踏み出し、斧のようにバッグを振り下ろす。

 大きく振りかぶってきた筋肉質な腕をかわすと、隙だらけと言わんばかりに背後を取った。無防備に晒された背中へ、重たい鞄をお見舞いしてやる。

 背後から掴みかかって来た無作法な男は、その力を利用して前方に投げ飛ばす。

「おらァ! 次だ次! かかってこいやァ!」

 皆同様に、殴られた頬、顎、壁にぶち当たった腕や頭など、それぞれ擦ったり押さえたりして立ち上がる。ある者は、腹を押さえて胃液を吐き出し、青ざめていた。

 それでも、我らのリーダーは見苦しい敗走などを許さずに、何としても目の前の屈強な壁を撃破し、やむを得ない場合は名誉ある戦死を遂げよとのたまう。

 こうして迷っている間にも、厚く高くそびえる壁は、ちっぽけな自分達を押し潰そうと迫り来る。鋭く光る棘を壁面に生やして。

「はっはァ……息上がってんじゃねーか!」

 耐えきれず、がむしゃらに飛び込んでいった一人。

 その意気や良し、と笑って無防備に立っていたが、その余裕さに当てられたのか、怯んで突進のスピードが落ちる。最早、見切って即座に交わす必要性すらない。

 青年は、軽いステップで横に逸れた。

「さっきの威勢はどこに消えたァ!」

 がなり立てられ、背中を蹴飛ばされた男。

 潰された蛙のような声で鳴くと、固い地面にべしゃりと這いつくばった。

 生贄と、捕食者の立場が逆転する。竦み上がる羊の群れは、解放された扉へ向かって動くことすらままならない。ひいひいと泣き声を上げだ。

 力の入らない手で鉄の扉を引こうとしていた男達の首根っこを掴むと、手を合わせる要領で額を突き合わせた。鈍い音を立てて白目を剥く。

「ハッ……そんなもんかァ?」

 その後も、頭、拳、足、使える己の身体、全てを駆使して襲いかかる脅威を払いのけていった。

 まるで漫画のように、ご丁寧に山積みにされた不良達。制服を血やら汗やら、土埃やらなんやらで汚して、目も当てられない凄惨な状態である。

 死屍累々の戦場で、多少洋服を乱してはいたがほぼ無傷で平然と立っていた青年。

「“鐘ヶ崎の獅子”と謳われた俺に喧嘩を売ろうなんざ、一千万年早いんだよ、この雑種共が」

 嘲笑で唇を歪めた。月並みな締めくくりだが、両の手を叩き合わせて埃を払う。乾いた音で目を覚ましたのか、足元に寝転がっていた敗戦の将が呻き声を漏らす。

 涙と冷や汗、血液を恐怖の匙でぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたリーダーの、情けない顔と自分の笑顔を突き合わせ、ごく自然に、爽やかに尋ねた。

「なあ……もう入学式、行っていいよなァ?」

 ガチガチと噛み合わない歯を必死に動かして、答えを返そうとした時のこと。

 鉄の扉で固く閉ざされていた倉庫に、外界の光が差し込む。

「お前ら、何をやっているんだ!」

「あ、やべっ!」

 最初は荷物に隠れてやり過ごしていたが、焦っていたあまり、出入り口で群れを作り転がっていた小石に気が付くことが出来ず、踏みつけてしまった。ザリッ、と靴底、小石、地面が物音を立てて青年の存在を告げる。存外響いた断罪の音に、このままでは死刑宣告まで数分もせずに辿り着いてしまうのではないか、という過剰な妄想まで行き着く。

 血の気が引いた青年の姿を見つけるなり、見回りの警察官は大仰にため息を吐き出した。

 そんな幸福減退運動を推進するぐらいならば、犯罪検挙を推進してってくれ。青年は観念したのか、警察官の溜め息を合図に、荷物の隙間から飛び出した。

「まーたお前か……西木」

 この警察官の立場を家庭で例えるならば、悪戯が見つかった子供を叱る父親だろう。てへっ、なんて歯を見せて笑う悪戯っ子は、一気に疲弊の色を濃くする彼を労わってか、控え目に声をかけた。

「あー、近藤さん……お久っす」

 商店街の誰かが、朝の“悪の大名が織りなす参勤交代”を見かけて通報したようだ。それ以外にあるのか、いや無いだろう。

 今は意識を遥か彼方に遣っている足軽達も、こうして公務員のお世話になりたくなかったから、人気のない場所を選んだのだろう。

「サイキ」と呼ばれた青年は、空回りしてしまった策士に向けて南無阿弥陀仏を唱えた。直後、彼の頭に隕石が突き刺さるような衝撃が訪れた。これで西木青年の脳は飛躍的な発達を瞬時に遂げて、驚異的かつ優秀なまま安定した成績が、三年間約束される!

 なんていう奇跡のような話は、この物語にはない。

 ただ警察官の岩のような手が頭に激突しただけだった。ご無体な、と唸り声に似た調子で呟くが、彼に弁明の時間は与えられないみたいだ。

「この馬鹿野郎! ……お前、今日入学式なんじゃないのか」

「あー、あと三十分スね」

 頭を掻き、眩しそうに外を見つめる。咎めるような警察官――近藤と呼ばれる、引き締まった体格に恵まれた中年――の声。元から低めの音に不機嫌さが加わって、西木の身体を硬直させるには十分過ぎる程の旋律を完成させる。

「行かないと流石にやばいだろ」

「まあ、行かなかったら、幼馴染が俺を頭っから墓に突っ込むだけですよ、半分程」

「簡単に言うと、それは半殺しと言うんじゃないか」

 苦笑で突っ込んでみたが、コントをするにはそぐわない、生けた屍の山と鬱蒼とした倉庫の中。非常に緩慢な動作で携帯電話を取り出すと、仲間に連絡を取った。

 数回のコールのあと、電話の向こうからは、中性的で気だるげな声が聞こえてくる。掠れ気味のそれから察するに、眠っていたようだ。

「トシか? 近藤だ。非番のとこ、すまないなあ……ちいっとばかり、回収作業を頼みたい」

 暫く交渉をして携帯電話をしまうと、居所無さそうに佇む西木の肩に、筋肉質な腕を回した。

「ほら、行くぞ。とりあえず、話だけは聞かせてくれよ」

 

 西木という勇猛果敢――というよりは無計画――な青年が死闘を繰り広げていた時、幼馴染は穏やかな朝を迎え、友人との会話に花を咲かせていた。しかしその華やかな花弁も、とある家の前ではふっと閉ざされてしまう。

 沈黙に伴い、華の少女が送り続ける生真面目な視線は教科書から、友人が指さす一戸建ての家に移された。

 刺々しい門の先には重厚な扉。これだけでも踵を返してしまいたくなるが、広い庭の中に佇んでいる、重たい影を纏わせた古い洋館が、更に来客を拒んでいるような雰囲気を漂わせているのだった。

「昔から通るけど、この家ってすごいよねー」

 無言を肯定と受け取った友人は、口を閉じることなくつらつらと口を動かし続ける。

「こう、和風の家はジャパニーズ・ホラーで諸外国に人気だし、ゲームまで馬鹿売れで名高いでしょう? 基本的に我が国のホラーゲームは精神的に責められるっていうか、じわじわクるけれど……こんな風にさあ、欧米の住宅街にありそうなどデカいお家なんかも、ガラスの破片が舞い上がり弾丸の嵐が巻き起こす激しいガンアクションや、斧やチェーンソー、月明かり差し込む中、鈍く光る凶器を持った犯人に追い駆け回されそうで怖いのよね。更に、街灯とか赤レンガのアットホームな外観に反して、周囲の雰囲気が重たいから夜中は避けたい……まあ通学路だし商店街も近いし、朝昼夕全部なんだかんだで通るんだけど。しかあああし!」

 古典的な怪談話よろしく、突然大声を出した友達を見向きもせず、かれんは広げっ放しの教科書に冷めた視線を戻した。今度の単元はどうやら苦手な公式になりそうだ。気は抜けない。

「しかし……何」

 集中力の大半は無機質な文字に向けられて、声も返事も、素っ気ないものになってしまっていた。

「ちょっとちょっと。聴いて下さーいよっ、かれんさん!」

 思ったより歩みが速い少女の背中を追い掛けて、友人は鼻を鳴らすと誇らしげな顔で彼女を手招く。どや、と心なしか悪者の顔つきに、笑みを零さずにはいられなかった。

「ふふっ、さっきから聞いているよ」

「しっかり耳と心で聴いてよね。そーれーでっ」

 茶目っ気を含ませて弾んだ接続詞が嘘のように、まるでおばけの噂を話すのでは、と思うほど潜められた声が、かれんの耳にはやけに大きくなって届く。

「この家って――」

 一瞬だけ、時間が止まる。そんな錯覚をするほど、彼女の声が真剣味を帯びていた。思わず二人の足も止まる。

「――時々さあ、包帯だらけの子がいるんだよね」

「包帯、だらけ?」

 純粋な疑問は声になって現れた。

 数秒、考え込む素振りで黙る。思い返しているのか、時々視線は下を向いたり上を向いたりと、忙しそうに動いていた。ふっと、硬い声の調子はそのままに、短い息と結果は吐き出された。

「なんだか不健康そうだった」

「貴女はね……いくら知らない人だからって、口を慎みなさい」

 はぁー……、と長く息を吐き、聞いていられないと言った風に先を歩く。止まっていた視線はまた、生徒達を赤点へと追いつめる公式をなぞり出した。勤勉な友人の隣を、つまらなそうに歩く。

「む……かれんは興味ないの? 薄幸の少年」

「興味がないわけじゃない。見たことがないから半信半疑なだけだよ」

「なによー! 私が嘘つき少女だとでも言いたいの?」

 彼女はお喋りだが緘口令を布かれたならば口は滑らせないし、真実を話せと言われたら嘘をつかない、と自負していて、友人からの信頼も厚い。恐らく隙や矛盾点、ジレンマを吐かれた際の回答も、自分の考えを持って答えるのだろう。それは少女も知っていた。

 拗ねた子供が、目の前でスカートを躍らせた。それでもかれんの心は揺らがない。彼女の興味はこの場に居ない少年よりも、摩訶不思議な数字の羅列に熱く注がれていた。

 かれんが、赤信号もないのに歩みを止めた。学校に繋がる三差路までは、もう少し歩かなければならないのに。沈黙を連れた天使が、ゆっくりと二人の間を通り過ぎる。

「気を悪くさせてしまってごめんなさい」

 静けさが二人の作り出す和やかな空気に溶け込んだ頃、少女は教科書をスクールバッグにしまった。開閉するジッパーの音と、隠し味として苦笑いを足した言葉が数点、静寂のテーブルにそっと並べられる。

「貴女のお話は毎日新しいものばかりで飽きないのだけれど、今回はなぜだか、私の心は躍らなかったんだ」

 その気遣いが絶妙にマッチした味に納得したのか、ストーリーテラー見習いは笑顔を見せた。

「いいよ。また新しい話題見つけたら話す。でも残念だなー。興味無いのかー」

「ふふ……まだ、ね」

 木々の囁きに紛れた呟き。吐息が混ざったそれは。隣を歩く友の耳に届かなかった。

 

「あ、私……忘れ物したかも」

 

 突然思い出したのか、間の抜けたトーンで発する。一歩先を歩いていた友人は、少し裏返った声音に笑いを隠そうともせず、通学路の先を指さした。もう数分もしない内に、悪路との声が高い「悪魔の三又槍」に辿り着く。時差式信号と歩行者用信号の相性が悪いのか、その道路上の問題があるのか、原因は解明されていないが、待ち時間が異常に長い上に、交通事故件数が県内一位の恐ろしい場所なのだ。

「あそこで捕まったら、遅刻しちゃうよ?」

「中学校時代、無遅刻無欠席の頂点に君臨した私に、不可能は無いよ」

 そういって少女は、風にさらわれた髪の毛を掻き上げた。

 

 

 少年は、黒のブレザーを脱ぎ捨てる。白い陶器が眩しい洗面所に面と向かって、緩慢な動きで蛇口を捻った。冷たい流水で顔を洗い、真新しいタオルで水気を取る。何の変哲もない、一般人の朝に良く見られる光景だ。

「派手にいきましたね……」

 拭いたタオルが真っ赤になるだとか、流されるものが妙に鉄臭い仄かに赤い水だったりとかしなければ。

 新品の如き洗面台に、唾液で薄まった血を吐き出した。鉄臭さに時折むせながら、鏡を見る。

 真紅の血を垂れ流した常識破りの少年は、予想外の傷に嘆いた。目に違和感を覚えた原因は、頭から流れていた血のせいだった。

 リネン庫から持ち出した真新しいガーゼを、断ち鋏で切り裂く。流水で浸すと、床の埃が付着した傷口にそっと触れさせた。今度念入りに掃除をしなければ、と固く決意する。

 血を吸いこんで真っ赤に染まったワイシャツとガーゼを、ビニール袋に投げ入れてごみ箱に放り込んだ。制服のシャツには校章が刺しゅうされてあるから、値段が馬鹿みたいに高い。もう冬服は最後の一枚だというのに。

 少年は何度目になるか分からない溜め息をついた。そのまま噎せ返る。

 脈打つ度に焼けるような痛みが、繋ぎ止めた意識を遠のかせる。一層のことこのまま対処せずに眠ってしまいたいぐらいだが、放っておくわけにもいかなかった。今日は高校の入学式。少年にとって大切な日だ。

 急くように繰り返される呼吸を抑えて、覚束ない手つきで救急箱を開ける。抗生物質が含まれた軟膏を掴み取った。チューブを取ったはいいが、嫌な汗が指先に滲み出て、蓋を開けることを許さない。

「もう……面倒ですね……」

 汚れたタオルで手汗を拭い、震える指先でようやくキャップを開け、塗布剤を傷口に添わせる。続けて、荒い息を抑え込んで、真新しいガーゼを張り付けた。後頭部の傷は確かめられないため、どうしようもないが、幾筋か背中に血が伝っていたので、消毒だけでも済ませて、あとは傷口が乾くことを信じるしかない。

 どうして、入学式に行く前から満身創痍の状態に至らなければならないのだろうか。

 ここまで来たら、自分の健康状態はこの際どうでもいい。出席した証拠さえあればもう満足だ。

「鞄……持たないと」

 微かに呟くと、新しいワイシャツに着替えて、ブレザーを適当に羽織った。一語一語発する度に、口が酷く痛むが、こうでもしないと今の自分の体は動く気がしない。

 一旦部屋に戻るが、なかば、ドアに凭れかかるように押し開ける。いつもは軽々開くはずのドアが重たく感じる。

 苦労しながら、部屋に置き去りにしたままだったスポーツバッグを持ち上げた。しかし、身体も追いついていないことを自覚する、数歩進んだところで、バッグは引きずるだけになっていた。

 しかし、外に出てしまっては引きずるわけにもいかない。重たいそれを肩にかけて、門まで歩いた。

「君が、噂に名高い“薄幸の美少年”かい?」

「…………え?」

 反応を返すのに、少し時間を要した。上質な鈴のように柔らかく響く優しい声音。けれど少年のような凛々しい言葉遣いに、ギャップを感じる。

 振り向いた瞬間、彼は時が止まるという感覚に襲われた。

 ――……人、形?

 思わず手にしていた鎖を取り落とす。門にぶつかって、耳障りな金属音を鳴らしてしまったが、彼女の笑顔に意識を奪われていたせいか、謝罪もそこそこになってしまった。

「同い年、だったのね」

 静かに笑む少女は作られた存在のようで、ふうわりとした儚い雰囲気に包まれている。

 少年は痛む頭を少しばかり傾けた。

 自分の暗かった箱庭に訪れた綺麗な少女。絹のように、細くもしなやかな蜂蜜色の髪は緩く波立ち、毛先でくるりと巻かれている。一見すると彼女は、西洋で見かけるアンティークドールに良く似ている。安堵感と庇護欲をもたらすのは、そんな美しさと可愛らしさが荒れた心を癒してくれるからだろうか。

 しかし少年の小さな箱庭の中に、こんなお嬢様が住んで存在していた記憶はない。

「…………どなた、でしょうか」

「ねえ、君さあ……いつも怪我しているんだよね」

 なんという斬新な切り返し方なのだろう。頭の痛みを、怪我以外で感じる。

 悩んでいる間にも、柵の向こうから、少女の細く美しい手が伸びてきた。まるで、無垢な少女が残酷に花を手折るようだった。

「あ、の……っ」

 ぞくりと、背筋が戦慄く。暖かい指先が、そっと頬に触れた。

「痛く、ないの?」

 息が、止まりそうだった。少年の頬に朱が差した。

 痛々しいガーゼと包帯を纏う彼を見て、精巧な人形にも似た顔が、儚さを帯びる。無神論者の少年でも、こんな美しい天使が出てきて「懺悔なさい」と言われたら、真っ先に膝を着き、頭を垂れながら罪を悔いるだろう。

 だが、赤の他人に家庭事情を相談できるわけもなく、少年は答えを詰まらせた。

「そうだ。その制服、三校でしょう?」

 頬にあった指先が滑り落ち、胸元に貼り付けられたブレザーのエンブレムをなぞる。

 ――また話が飛びましたね。

 少年が心の中でぼやく。先ほどから、この少女と上手く言葉を交わせた記憶が全くない。

「……はあ」

 今のは決して溜め息ではない。言葉の一方的な暴投に、彼は無意識の内に声の音を低めた。それも、応答かただの溜め息か、もう役割を割り振れていないのだが。

 困惑した様子を隠さない少年に、また優しく微笑みかける。

「君、本当に巷じゃ有名なんだよ。古い洋館に住む、薄幸の美少年だって」

 美少年、と再び言われたような気がして、彼は非常に困惑した。そんな過大評価は要らないから、噂を一掃してほしい。これは彼の切なる願いである。

「私、君と同じ学校なの。これからよろしく」

 ――よろしくも何も、自己紹介すらされていませんが、僕にどうしろと仰るのですか。

 しかし少年には、心中の突っ込みを声に出して入れるほどの愛と勇気、希望と根性、やる気や情熱その他各種、主人公が兼ね備えなければならないものをひとっ……っつも持ち合わせていなかったため、沈黙を貫き通すことにした。

「友達になれること、楽しみにしているわ。またね」

「は、はぁ……」

 かくして、嵐の交流タイムは終わりを告げた。

「……行って、しまいました」


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