「人形」の自我、動き出す「観客」
序章の始まりです。
――序章――
何も、言えなかった。真実も虚偽も弁明も偽善も悪も恨みも満足も不満も、何もかも。
それでも少年は唯一、ひとつだけ真実を吐き捨てて逝った。
「僕はただの人形だ」
電池が切れても叩き起こされる、歯車を軋ませた人形。何か言われたら頷いて、二人の悪評は否定して、彼らのありもしない優しさを推してとても良い親だと擁護して、血反吐を吐き出しても働き続け、その血涙の成果は全て攫われる。少年は壊れたまま身を削っていく運命の人形だった。
少年は観客の消えた舞台に幕を下ろすため、自ら奈落の底に落ちていく。
――台本通りの人生は送りたくないし、貴方達のためだけに踊り狂うのは疲れました。用意された仮面を付けるのも飽きました。僕はこの悪循環から抜け出して、僕の思いのままに舞台を演じるのです。それがただの自己満足でも構いません。独りよがりで空回りの言動と言われようと、僕の独壇場はもう誰にも止められません。
僕はもう、誰にも縛られることなく、誰からも理不尽に虐げられることなく、僕の意志を確固たるものとして、ずっと平和に生き続けるのです。
早朝、新聞が放り込まれる、太陽も起き始めたばかりの朝。痛んだ栗色の髪が散らばった小さな背中を向けて、偽りで固められたガラスの靴を履く女の姿が、そこにある。丸まった背中を見送るために、床を軋ませながら顔色の悪い少年が後ろに立った。鬱蒼と、生気のない銀灰の目は女が不機嫌でいるということ認識して、出かかった溜め息を押し殺す。
少し遅れて、彼女は少年の存在に気づいた。
「あぁ、アンタか。あたし……今日晩御飯いらないから、あの人の分だけ作っといてよ」
「承知……しました」
――出来れば一生帰って来ないでください。帰ってくるおつもりなら、土にお還りください。
音にせず、僅かに込められた不満。そんな少年の、含んだような言い方が気に食わなかったのか、ハイヒールがテンポ良く音を立てて床を数度穿った。少年はとても小柄である。反して女は身長がある。それ故に彼は、伸ばされた手に気が付かなかった。
目の前が陰り、視線を上げた直後、顔面……いや、額だろうか。ともかく顔のパーツのどこかを強い衝撃が襲った。瞼の裏側でチカチカと瞬く幾億の星、数万に至る脳細胞に別れを告げてから数秒、次に目に入ったのは怒りを露にした醜い女、ぼたぼたと、ワイシャツや床を穢す暗紅色。自分の体内から無駄に流れていくこれが上等なワインならば、彼女も少年へ向けて、一心に愛を注ぎこんだのだろうか。見限った今では愛だの絆だの信頼だの、そんな世迷言、全く意味を成さないが。
汚らしい女の仮面を彼は侮蔑の色を混ぜた暗晦の瞳で見上げてから、板目を伝う赤いそれを視界の端に入れた。
「何よ、なんか文句あんの?」
ワイシャツの袖で鼻血を拭い、無感情に、機械的に、彼は薄い唇を開いた。
「いえ、なにも――」
痛みをやり過ごし、応答を続けていた少年の白い頬が、乾いた音を立てて打たれた。マニキュアで彩られた天然の固い爪は、そこに三つの赤い筋を走らせる。血が顎を伝っても、彼は呻くことや泣くこと、痛みを訴えることすらなく、まるで抵抗という名の分厚い壁を自ら打ち砕いたように、叩かれた方へ顔を背けたままで居た。
何をしても無反応の少年に苛立ち、女は憤りを次々に募らせて、あっと言う間に爆発させる。
彼女の堪忍袋の緒を切断するために用意されたギロチン。重厚な刃を振り下ろすため、頻繁に充填される火薬は、未だに尽きる様子を見せない。その度に少年は、爆発の衝撃と袋から飛び出した暴力を一身に受けることになる。
「本当に可愛くないガキね! 愛想笑いのひとつやふたつ、覚えたらどうなのよ!」
「お言葉ですが、以前愛想笑いをしたら貴女は、気持ち悪いとおっしゃって頬を殴りました」
間髪入れずに答えたことが気に食わなかった女は、鷲掴みにした髪の毛を引っ張り少年の顔を真正面に向けると、無防備になった後頭部を、血塗られた壁に叩きつけた。点々と赤い跡を残して、少年の細い体は真っ白だったはずの壁を伝い、床にどっと倒れ伏す。
「はっ……いい気味だわ。育ての親に盾突くからよ」
真新しい血をフローリングに吐き出し、息を詰めて噎せ返る彼を置き去りに、女は荒々しく外へ飛び出して行った。
静けさを取り戻した室内に、鉄臭い二酸化酸素を吐き出して、少年は呼吸と共に口端から零れ出した唾液混じりの血を拭う。そもそも唾液の分泌量より血液が多いとはどういうことだろうか。とにもかくにもこの出血量……悩みながら彼は考えた。
じくじくした痛みに耐えながら口内をまさぐっていると、舌先に何か柔らかい塊が触れた。恐らく平手を喰らった時に噛み切ってできた肉塊だろう。
鼻で呼吸をしつつ、なかなか固まらない血を舌で押しのけて裂傷を探った。この傷の大きさだと、治療の際、また縫わなければならないのか、それとも生活費のために治療費を放置してひどく化膿する道を選択するのか……、どちらの結果にしろ忌々しい。そう思って、少年はようやく盛大な溜め息を吐いた。
肺を圧迫から解放させるために、よろりと壁に手を置いて立ち上がる。八つ当たりされた哀れな扉を労わるように手を添え、彼はようやく思いを、ごみ袋に吐き出した血と一緒に口から出すのだった。
「ああ、そうでした。また、病院へ行きましょうか……」
入学式の数時間前。大きな姿見の前に、仁王立ちで男は立つ。
「デジカメ、予備メモリー、使い捨てカメラ、ケータイ充電よし……免許証、車の鍵、書類よし!」
それはもう大きな声で、軍隊よろしく男は盛大に叫んだのだった。ここまで子煩悩な親に愛されたのならば、子供は愛情過多になり逆に荒れてしまいそうだ。今以上に悪化しかねない、偏よりに偏った重たい愛を未然に防ぐために、寝癖で爆発した髪の毛を掻き混ぜもせず、女性は欠伸を漏らして、掠れた声で暴走を咎めた。
「ちょっと、いくらなんでも張り切りすぎじゃないの」
乱れたパジャマもそのままに、彼女は郵便受けから転がり落ちた新聞紙を拾い上げた。大きな見出しで目を幾らか覚ますと、男が差し出している冷めたマグカップを受け取った。縁に唇を当て傾けたが、いつまで経ってもコーヒーは、喉はおろか舌先にさえ辿り着かない。それもそうだ。そこにコーヒーは、一滴たりとも入っていなかった。
閑話休題。
「姉さん、今日はもしかしたら、あの子と会えるかもしれないんだよ?」
形の良い頭にコブを作った男の視線は、玄関に飾られている、幸せに満ちた笑顔溢れる写真立てから、不機嫌より生成される魔力を迸らせた、魔じy……姉の顔にスライドした。
「耳にした時から、気になって仕方がないんだよね。彼女に似て目鼻立ちがスッキリしているのかな? それとも國久に似て、少しヘタレっぽいのかなあ」
「……どこに行っても美青年と謳われた親友を持つ國さんに、心から同情するわ」
なかば絞め上げるようにして整えられたネクタイに、彩りとしてサファイアのピンがつけられる。それは姉の耳にあるビアスと同じデザインのもので、二人の誕生日に“彼女”とその夫から送られた、大切なプレゼントだ。興味本位で宝石を取り扱う友人に聞いたら、特殊なカットを用いられているという。その後、まあ人間の性というか何と言おうか、お値段も気になって尋ねてみたら、野暮だの厚い友情に亀裂を入れるなだのと、物凄い剣幕で怒られてしまった。今では良い思い出である。
昇り始めた太陽の陽光に輝く、蒼の宝石。小さくともそれは、確かな存在感を示していた。
「ねえ、顔で決めるわけじゃあないでしょ」
「当たり前だよ……失礼だね」
固い革靴に足を入れて、真っ直ぐに前を見る。ずっと先にある、明るい未来を見据えて。
「私は“彼”という人間だからこそ守るんだ」
まだ見ぬ“忘れ形見”に思いを馳せて、男は瞼を下ろした。
「誰に決められたわけでもない。誰かに頼まれたわけでもない、誰かがそう唆したわけでもない」
握られた拳は固く、爪の痕がくっきりと刻まれてしまうほどだ。けれど、彼は痛みに気付かないでいる。それほどまでに、友人夫婦の子を守りたいのだろう。重厚な響きで、思いは告げられた。
「これは、オレ個人の意志だ」
閲覧ありがとうございました。




