十一話・後 後藤仁/朝田奏
「ねえ、聞いてる?」
真剣な顔をした乃愛に問われ、俺は我に返る。
「あぁ、えっと、ルールだよな。でも何を基準に考えたらいいか……」
「いや奏ちゃん、昔から言ってるじゃん」
乃愛がまっすぐに俺を見る。
「俺は仁くんの考え方を基にしてるんだって」
彼女の言っていることの意味が、しばらく理解できなかった。いや、確かに高校時代に奏はそんなことを言っていたような気がする。
──だからおれにとっちゃ、永遠の兄貴なんだよな。
「自分らしく、だったよな」
俺は乃愛と一緒に『理念・運営方針(仮)』の文書を見つめる。
何を浮かれているんだろうと、自分でも思う。親友にちょっとおだてられて、いくら俺を基にしているなどと言われたからって、奏には奏の考え方があるだろう。俺みたいなちっぽけな男の枠をとうに超えた気高い思想が、彼にはあったのかもしれない。
仁くんの考え方を基にしている──だったら俺にも出来るかもなんて、思い上がりにもほどがある。
「行くの?」
校舎の玄関先、駐車場へと足を向ける俺に乃愛は言う。
俺は踏み出しかけた足を前に進めることができない。あのスーツケースを載せた車に乗って、次に行く場所がもう、思いつかない。
背後に立つ女は、芽愛じゃない。
彼女が芽愛ではないと、痛いほどに確信している自分がいた。
確信──物事を固く信じて疑わないこと。
国語の辞書を引いたらそんな風な説明が返ってくることだろう。俺に物事をまともに判断できる能力が残っているのかは、もう定かではないのだけれど。
「また、どこかに行っちゃうんだね。いいよ奏ちゃん、また戻ってきてくれるなら」
右足を一歩だけ踏み出し、そのまま動けないでいる滑稽なポーズの自分が、銅像のようにただそこに佇む。
「別に行く場所はない」
自分の口から出た言葉があまりに情けなかった。
「どこに行けばいいか、分からない」
そのとき、うつむいたままの俺の服の裾を、乃愛がつかんだ。
俺たちはその状態で、しばらく固まったまま立ち尽くしていた。
その夜。
元は音楽室だったという一室をリノベーションした居室。俺はベッドに横たわり壁側を向いていた。背中には、乃愛がしがみついている。
「奏ちゃんは、どうして隠れて暮らしているの?」
乃愛の吐息がうなじにかかった。
「人でも殺しちゃった?」
その語尾には寒々しいほどの含みがある。
「いいよ言わなくて。たぶん、犯罪の……隠匿? よく分かんないけど、そういう罪をわたしに着せたくないんでしょ。だから言わないんだ」
俺は返事の代わりに短く鼻をすする。
「じゃあさ、せめて名前を決めようよ」
「名前?」
「だって、朝田奏です、って堂々と名乗って暮らしていくわけにはいかないでしょ。何か偽名を考えなくちゃ」
ああ、なるほど。確かにここで暮らしていくなら、仮の名前は必要かもしれない。
このベッドに落ち着いたとき、俺はこれまで体感したことのないような重い眠気に襲われていた。あの女を絞め殺してから、丸二日まともな睡眠をとっていない。
今はもう理性的な思考などできる気がしなかった。乃愛は歌を歌っている。
「♪ おおきな くりの きのしたで」
あ、と乃愛は嬉しそうに言う。
「木下は? 大きな栗の木の下の、木下」
思わず笑ってしまう。
「随分適当だな」
「いいじゃん。こういうのは適当で」
「下の名前は?」
「それは……奏ちゃんが考えてよ。とりあえず、木下は決定」
仰向けに寝転んだ俺の胸に、乃愛は顔を埋める。上機嫌で歌を口ずさんでいる。
「おーきな、くりのー、きのしたで」
♪ あなたと わたし なかよく あそびましょう
元音楽室の壁に吸い込まれていく乃愛の歌声。俺の瞼は次第に重くなっていく。
夢の中にはあの蔵がある。引きこもりの少年だった奏は、巨大な木彫りの像と向かい合っている。ノミと金槌を手に、頬に汗を伝わせて。
俺も、奏の目を通じて像を睨みつけた。
木彫りの像は真っ暗な口をぱっくりと開け、その奥に唾液混じりの牙をギラギラと光らせていた。木の中には明らかに何者かが潜んでいるようだった。奏はノミを突き刺し、金槌を叩いてそいつを掘り出していく。
俺は奏を通してその世界を見る。今まで恐怖していたこの世の本質も、自分を脅かそうとする数々の悪意も、奏と手を取り合い、洗い出し、同化すれば、何も怖くないと感じた。
ふと目を開ければ眼前に乃愛がいる。
俺は乃愛と唇を重ねていた。
どうやら俺は、乃愛を愛しているのかもしれない。
つまり、こういうことではないか。
俺が絞め殺したのが、本当に芽愛だったとする。愛したはずの芽愛を俺が見間違えるわけがないのだから、まず前提からしておかしいのだが、十万歩譲って、一旦置いておこう。
加えて俺は今、乃愛を愛しているかもしれない。だが、これも積み上げてきた過去との整合性が取れず、やはり理解しがたい。
では、俺は後藤仁ではないとする。
そうなると、少しは飲み込めてくるのではないか。
いや、少しどころか、かなりいい線いってる気がしてきた。
あぁそうだ、分かった。
俺は乃愛から唇を離し、ベッドから降りる。部屋に鏡はないだろうかと室内を彷徨い歩く。遮光性の低いカーテンからは月明かりが漏れており、かろうじて視界は確保できていた。
部屋の隅に、ドレッサーがあった。乃愛が使っているものだろう。鏡を覗き込む。月明かりに反射した鏡面に、青白い顔の俺がいる。それはいかにも後藤仁であるかのような顔立ちだった。
が、見た目など人の本質ではない。いくら容姿が後藤仁だからといって、俺が後藤仁であるという確証はどこにもないのだ。
むしろ、整合性がというのであれば、俺が後藤仁でない方が辻褄が合う。後藤仁が芽愛を殺すはずがないし、乃愛を愛するはずがないのだから。
なら、俺は朝田奏なんじゃないか?
乃愛を愛しているというのは、まさに奏らしい。
では俺が朝田奏だったとしたら、芽愛を殺す理由はどこにある。どうして朝田奏が、小学生時代からの友達を、親友の妻を殺さなければならない。それはどう説明をつける?
鏡の俺が、徐々に薄暗くなっていく。
月が雲に隠れてしまっていた。
部屋が完全に闇に落ちても、俺は鏡を見つめている。
ぽつ、ぽつと窓ガラスを雨が打つ音がした。
現実だけを見よう。
俺に芽愛を殺す理由がないにしても、現実問題、芽愛の遺体はあのスーツケースの中にある。もう死後ニ日は経っていて、いよいよ屍臭も隠しがたいことになっているだろう。あのままでは、まずいんじゃないか。
だって俺は、これからかざみの里を開業しなければならないのだ。俺が中学時代から抱き続けた夢であり、俺たち夫婦の悲願であり、仁くんとの約束でもあるのだ。
ここで遺体が発覚し、逮捕されてしまうわけにはいかない。だとしたら、やることはひとつしかない。
校舎の外に飛び出した。雨脚は次第に強くなっていき、グラウンドにあった用具庫からスコップを取り出す頃にはもう土砂降りになっていた。
校舎裏に走り、車のロックを解錠して荷室を開ける。スーツケースを引っ張り出して地面に落とすと、コンクリートを割るような衝撃でキャスターの一つが外れて取れてしまった。
水たまりの先の暗闇へと転がっていく車輪に構っている暇はなく、残った三本のキャスターで引きずり、校舎正面側の山を目指すことにした。
グラウンドに出る。
「奏ちゃん」
背後から声がした。
見ると、乃愛がこちらへ近づいてきていた。濡れそぼった髪の毛先から水滴をぼたぼたと垂らし、寝間着は雨水でぐっしょりと黒ずんでいる。
俺はスコップを脇に抱え、スーツケースを引いて逃げ出す。しかし、こんな重たいものを引きずりながら逃げ切れるはずもなかった。
乃愛がスーツケースに飛びつき、そのせいで俺は足を滑らせて頭から転倒する。泥水が口の中に入り込み、スコップが鼻先に落ちた。
「帰れ」
俺は半身を起こして声を上げ、泥水を飲み込んでもう一度叫んだ。
「それに触るな。帰れ!」
乃愛は動かない。両膝を地面に落とし、スーツケースに抱きついて泣き喚く。強い風に乗り、絨毯を下ろしたような雨がどっさりと降りかかるが、彼女は手を離さない。
俺は下唇を噛む。彼女を突き飛ばそうとした両手の力を抜いた。震えるその肩に、そっと優しく手を添える。
「大丈夫だから。乃愛は部屋に戻ってな」
彼女はしばらく荒い呼吸を繰り返していたが、やがて頷き、手を離した。俺はスコップを拾いあげ、スーツケースを引きずって歩き出す。
「奏ちゃん」
背中に妻の声を受けながら。




