七話・後 日野咲子
野外炊飯も終わり、実食と後片付けを終えて落ち着く。あたしは一度コテージに戻って一息つきたかったんだけど、口元だけで笑う吉村くんに肩を掴まれた。
校舎に入り、あたりを警戒しつつ周囲から目立たないように移動する。トイレに行く振りをして素通りし、通路の先の応接室のドアノブに手をかけた。
「開いてるね」
吉村くんに続き、あたしもさっと入室する。特に施錠する必要もない部屋なのだろう。応接室内はカーテンが少し開いており、夕焼けの西日が入り込んでいた。
吉村くんは壁に貼られた写真を指す。
「ここに飾ってある写真、初日のオリエンテーションのときから気になってたんだよね。咲子さん、何か違和感はない?」
飾られた写真は十数枚ほど。どれも、子どもたちが勉強する姿や自然学習をする様子が映し出されている。見学者の撮影はNGだが、何らかのイベントの際は職員側の方で記念写真を撮っているのだろう。
一通りの写真を見終え、あたしは言う。
「職員が写っている写真があまりないね」
吉村くんは軽く頷く。あたしはざっと写真を見返した。
「ただ、全然写ってないってわけじゃない。ほらここ、ノア姉がいる。それから……ここには事務員のコバちゃん。給食のユカコ姉もいるね。まぁ、全体的に少ないけど」
そこまで言いながら、自分でも違和感に気づく。
「ジュン兄は……どこにも写ってないね」
「その通り」
吉村くんはあたしの隣に立ち、写真を見上げる。
「加えて言えば、ここには職員の集合写真だとか創業時の写真のようなものもない。子どもの写真が多いのは、子どもが主役の施設だからまぁ分かるとして、それにしても創業時の写真すら飾られていないっていうのはどうなんだろう」
「必ずしも飾るものじゃないんじゃない? たとえば、職員室の方には貼ってあるとか」
言ってみて、自分でもおかしいと思う。創業時の写真を来客に見せず、職員だけで鑑賞する理由もよく分からない。
「百歩譲ってそれは分かるとして、じゃあここにあるどの写真にもジュン兄が写っていないのは何故だろう。たまたま?」
「そりゃあれでしょ、ジュン兄はいつも撮影担当なんじゃない?」
「ジュン兄にばかり写真を撮らせて、誰も代わりに彼の写真を撮ってくれないなんて、周りの職員も随分気が利かないじゃないか」
あたしが反論できずに唸っていると、吉村くんが続けた。
「知ってる? 咲子さん。ジュン兄、実は正規職員じゃないんだよ」
「え……」
吉村くんはスマホを取り出す。画面に表示させたのは、かざみの里のホームページだった。
「この職員紹介ページを見て。施設長および創業者は川和乃愛さんとなっている。他には、事務員のコバちゃんこと小林美沙さん。給食係のユカコ姉はパートかと思いきや、彼女も正職員だったんだね。でも、ジュン兄の名前はどこにもない。あれだけかざみの里の顔のような立ち回りをしておきながら、実はアルバイトでしただなんて、ちょっと格好がつかないじゃないか」
あたしは職員紹介の一覧を睨みながら考え込んでしまう。
「さらに不思議なのは、ジュン兄があまりにもこの施設に深く関わり過ぎていること。わさび田の開拓も、施設改修の件も、まるで彼が創業者かのような立ち振る舞いだ。アルバイトという立場の人間にしちゃ内部に入り込みすぎている」
「そこは、ノア姉の旦那さんだからじゃないの、ジュン兄がなんでもさせてもらえるのは」
だとしても、非正規のままというのは変な感じだけど。
「そこにも違和感があると思わないかい。三年前、ノア姉の元旦那さん、朝田奏さんは山岳遭難で行方不明になり、現在も見つかっていない。その後にノア姉が旧姓に戻っているところを見るに、いずれかのタイミングで失踪宣告がなされたみたいだ。また、その三年という短い間に木下純希ことジュン兄と出会い、内縁の夫婦となってこのかざみの里を開業。何か、ノア姉の割り切りが良すぎる気がするね。そもそも、木下純希という人物の登場があまりに都合がよく、唐突すぎるというか……」
吉村くんは意味深に微笑んだ。
「彼、一体何者なんだろうね」
そのときだった。応接室のドアががちゃりと開けられ、あたしたちは飛びあがって驚く。
リューくんだった。室内に入り、彼は静かに扉を閉める。窓から差した夕陽が左頬の痣をさらに赤くしていた。
「り、リューくんか、どうしたの?」
吉村くんは動揺したように胸に手を当てている。あたしも心臓飛び出るかと思った。
「二人がなんか怪しい動きしてんなぁと思って、尾けてきた。んで、さっきまで盗み聞きしてたんだよ。あんたら、ジュン兄たちのこと疑ってんの?」
「疑うだなんて、人聞き悪いって」あたしは両手を振った。「吉村くんって変なところ気になるやつでさ、ジュン兄がアルバイトだから何だって話だよね。色んな働き方はあるだろうし、ちょっとした噂話みたいなもんよ。変な意味とかじゃないから」
「そんなに慌てなくても、別におれ、ジュン兄たちにチクったりしねーし」
リューくんは肩をすくめた。
「でもさ、実はおれもずっと気になってたんだよね。ジュン兄もノア姉も、何か隠してそうだなって」
リューくんも何か内緒話があるのか、あたしたちに近づいて声をひそめた。
「ジュン兄とノア姉ってさ、二人っきりのとき、何かいつもと雰囲気が違うんだよ。たとえばこう、変な名前で呼び合ったりとかさ」
なんだそれ、とあたしは思った。
「あー……それってつまり、あれだね。リューくんはまだ子どもだからよく分かんないだろうけど……ねえ吉村くん? 若い夫婦が二人っきりのときは、そりゃあね?」
「いや、多分そういう意味じゃないと思うよ。咲子さんってあれだよね、たまに頭真っピンクだよね」
「よし。リューくん、ちょっとそいつ抑えといて」
リューくんは何かを察したのか、吉村くんの腰あたりをがっちりと掴んだ。あたしは数歩下がり、壁際で呼吸を整える。室内なので少々助走距離が足りないが、この際仕方あるまい。
あたしは計算した歩数の踏み込みの後、全力の蹴りを吉村くんのケツにお見舞いした。
声を出してはいけないと思っているのか、吉村くんは声を殺して床で悶絶している。
「つまり……リューくんは、二人っきりのジュン兄とノア姉に、何か不審な動きがあると……」
吉村くんは悶えながらも健気に喋る。彼を心配する様子もなく、リューくんは憮然と頷く。
「そうなんだよな。おれが聞いたのは二人の部屋の前だったかな。あんたらが様子を伺いたいなら、そこがいいと思う」
吉村くんが回復して立ち上がったのは、それから五分ほどしてからだった。
かざみの里では夕食を食べ終える十九時頃、ジュン兄が子どもたちに向けて明日の予定を説明し、その後解散となる。
それから一時間弱は自由時間だが、二十時になれば校舎は消灯となり、子どもたちは子ども用宿舎に入らなければならない。
ジュン兄とノア姉が二人きりで部屋で過ごすのは、その後の時間だ。
まもなく二十一時を回るかという頃、あたしと吉村くんは暗い校舎内で足音を忍ばせ、ジュン兄たちの部屋を目指していた。
「ねえ、もうやめようよ吉村くん。趣味悪いって」
「ここまで来て何言ってんのさ。乗りかかった船、毒も喰らわば皿までって言うだろ。咲子さんだってもう気になって仕方がない魔法にかかっちゃってんじゃないの?」
「船には毎回押し込まれてるし、毒は無理やり飲まされてるし、そんで魔法っていうかもう呪いなのよ、吉村くんの場合」
「はい、もう静かにして」
二人の部屋に到着してしまう。薄暗い廊下で壁に身を寄せ、扉の奥に耳を澄ませる。だが、室内からはわずかな話し声が漏れ聞こえてくるだけで、具体的な内容までは聞き取れる気がしない。元音楽室らしいから、多分防音がしっかりしているのだ。
明日、ジュン兄は朝早くから街へ買い出しに行くと言っていた。ものの三十分ほどで室内の気配は静まり返り、明かりも消えてしまったようだ。
「今日はここまでだね」
扉から離れながら、吉村くんは残念そうに言う。
「明日も来よう。このまま続ければ何か収穫がありそうだ」
「あー……うん、そうだね」
あたしは生返事を返す。
正直言ってあたしは、この盗み聞きを明日はバックれるつもりでいる。昼間のわさび田で見せたジュン兄のまっすぐな情熱や、子どもたちに向ける優しい笑顔。あれを真実だと思いたい自分の気持ちを否定したくはない。
吉村くんと解散し、それぞれのコテージに戻る。
シャワーを浴びて歯を磨くと、もう二十三時を過ぎてしまっていた。ベッドルームに入るとすでに部屋は真っ暗で、真由の寝言は聞こえてこない。もう熟睡しているということだろう。
「……咲子さんのばか」
起きてた。ベッドに横たわったままこちらに背を向け、不機嫌オーラを発散している。
「今日は吉村くんに怒られるし、堤さんには舌打ちされるし、あげくの果てには咲子さんまで吉村くんとせっせと不純異性交遊にいそしんで、マユのこと放置するし。なんなの。みんな、マユのことが嫌いなんだ……」
「ごめんってば」
真由はぐすりと鼻を鳴らし、その一分後には寝息を立てた。
吉村くんの望んだ収穫は、翌日の午前中にはもう得られた。
空き教室でエッセイの執筆に励んでいたところ、彼からスマホで呼び出しを食らった。指示された場所は校舎裏。
人気のない木陰の裏。あたしがやってきた途端、吉村くんはスマホで録音したというボイスメモを見せた。
「ちょっと待って、録ったの?」
「うん。今日買い出しから帰ってきたジュン兄がアトリエにこもってさ。階段の影に隠れて見張ってたんだ。そしたら、ノア姉がアトリエに入っていくのを見てね」
「いや、録った経緯とかどうでもいいんだけど……盗撮の次は盗聴? いよいよ吉村くんの倫理観疑うんですけど」
「僕の倫理観なんて最初からあってないようなものだろ。とりあえず聞いてみて」
スピーカーから、ノイズ混じりの二人の会話音声が流れてくる。「大体、二分三十秒頃からかな」と吉村くんはシークバーを移動させる。
『ちょっと筒の彫りものに凝りすぎてね。でも、やっと完成したんだ』
ジュン兄の声だ。筒の彫りもの。それを聞いただけであたしはとある物を連想してしまう。
『すごい、よくできてる』
こちらはノア姉の声。
『これ……イニシャルだよね、わたしたちの。懐かしいね。あの頃と同じ』
『うん、懐かしいだろ。俺たちの原点だよ』
あたしは息を呑む。
『ありがとう、ソウちゃん。今日のお昼、リューくんとクロトくんがかけっこ対決するんだって。さっそく使ってみようかな』
『いいね。音の方は一応調整しといたから大丈夫だと──』
そこで吉村くんが停止ボタンを押す。あたしたちはしばらく顔を見合わせ、押し黙る。
「な?」
な、と言われても頭が混乱してリアクションが取れない。困惑するあたしに、吉村くんはもう一度、数秒ほど巻き戻して再生ボタンを押した。
『──しいだろ。俺たちの原点だよ』
『ありがとう、ソウちゃん。今日のお昼──』
思い出したように肌が粟立つ。こんなに空気が蒸し暑いのに、おかしな寒気におそわれる。あたしはやはり何も言えず、しばらく吉村くんと睨みあっていた。
昼下がり、グラウンドには子どもたちの楽しげな歓声が響いていた。
犬猿の仲であるリューくんとクロトくんが準備体操をしながら、かけっこ対決に備えていた。かざみの里では子ども同士の諍いが発生し、どうしても収拾がつかない場合、喧嘩ではなく何かしらの競争や対決を行い決着をつけることになっているらしい。これは勝敗をつける目的ではなく、決着後は互いの健闘を讃えあうという決まりになっている。
ギャラリーに混じるあたしと吉村くんの前に、ノア姉が立つ。その胸元には、ジュン兄から贈られたばかりの竹のホイッスルが下がっていた。竹には細かい模様が彫りつけられているようだが、ここからではよく見えない。
「よーい!」
ノア姉がスタートの声をかけ、ホイッスルを手に取る。
ふたりの男の子が静かに身構えた。ギャラリーも静寂に満ちる。
だが、ここで異変を感じとる。
合図の音が中々鳴らないのだ。
あたしは男の子二人から、ふっとノア姉へと視線を移す。
ノア姉は片手を宙にあげたまま固まっていた。不思議そうに首を傾げ、手のひらと首もとのホイッスルとを交互に見ている。
応援の子どもたちがざわつき出して、ようやく、ノア姉は我に返ったように顔をあげた。
「あ、ごめんごめん。もう一回いくよ。よーい!」
ノア姉はホイッスルを右手に握りしめ、吹き出し口をくわえる。
──ピィーッ。
真夏の青空に、小鳥のような甲高い音色が響き渡った。




