白鳥准教授はやらずにいられない
白鳥晋、三十八歳。東京科学大学、電気工学専攻の准教授である。
准教授という肩書きは、地味だ。教授の補佐みたいなイメージがある。言葉の頭に「准」がつくだけで、なんとなく二番手感が漂う。だが白鳥は気にしない。というより、そんなことを考える暇がなかった。やりたいことが多すぎて、時間がどれだけあっても足りないのだから、肩書きの字面を気にしていられるほどの余裕がないのだ。
白鳥の信条はひとつ。「人生を味わい尽くしたい」。
牛乳を飲む。うまい。ラーメンを食べる。旨い。山を登る。絶景だ。電気工学の難題を解く。爽快だ。釣りをやる。はまる。陶芸を試す。これもはまる。何をやっても面白い。何をやっても発見がある。そのすべてをかき集めて、胃袋に詰め込んで、死ぬ間際に「ああ、俺の人生は満杯だった」と言う。それが白鳥の理想だった。
もちろん、その先には金も名声も欲しい。やりたいことをやり続けた末に、世間が「すごい人だ」と振り返ってくれたら、それはそれで最高じゃないか。理想主義と現実主義を同時に抱えているのは矛盾しているように見えるが、白鳥に言わせれば「どちらかを諦めるほうが損だ」ということになる。
逆に、一番怖いのは「空白」だ。
振り返ったとき、そこに何もない。プラスもマイナスもなく、ただ白紙が広がっている。何かをやりたいとも思わず、何もやらないまま時間が過ぎていく。そんな人生だけは嫌だ。たとえ失敗だらけでも、恥をかきまくりでも、騒がしい人生のほうがずっとましだと思っている。
そんな自己認識の持ち主が、今日も東京科学大学の研究棟七階、電気工学専攻の准教授室に陣取っていた。
窓から西日が差し込む、夕方の早い時間。本日の講義はすべて終わった。あとは自由時間だ。正確には研究の時間なのだが、白鳥にとっては「探索の時間」でもある。今夜は何を調べようか、どこかに面白い論文でも落ちていないか、などと考えながらコーヒーカップを持ち上げたところで、ドアをノックする音がした。
「失礼します」
入ってきたのは、黒実圭介。学部三年生だ。線の細い、どこか思い詰めたような顔をしている。白鳥は彼のことを、第一印象から「顔で損をするタイプだな」とひそかに評していた。損というか、人生が暗そうに見えるというか。実際には真面目で頭の回転も悪くないのだが、とにかく表情が重かった。
「おお、黒実くん。どうした。今日もダークな顔して」
「ダーク……ですか」
「ほら、そこ座れ」
白鳥はデスクチェアをくるりと回転させ、黒実のほうへ向けた。黒実は遠慮がちに折りたたみ椅子を引き出して腰を下ろした。窓の外では烏が一羽、電線の上で夕日を浴びている。
「あの、先生」
「准教授な。教授じゃない」
「……准教授。あの、相談がありまして」
「なんでも来い」
白鳥は腕を組んだ。相談というのは面白い。相談というのは、相手の人生の断面を覗かせてもらえる行為だ。悩みの中には、その人の欲望と恐れが詰まっている。それを聞くだけで、少し楽しくなる。
「やりたいことが、わからないんです」
「ああ」
白鳥は一瞬、うなずいた。うなずいたが、心の中では「あー、これか」と思った。現代の若者がよく陥る、あの罠だ。就職活動が近づいてきて、自己分析をして、「強みは何か」「やりたいことは何か」を問い詰められた結果、何も分からなくなるやつだ。
やりたいことがわからない。
自分も昔は考えた。大学に入ったとき、修士に進むかどうか悩んだとき、何度か「俺は本当に何がしたいんだろう」と立ち止まった時期があった。だが白鳥は比較的早い段階で気づいた。あの問いかけ自体がおかしい、と。
「分かった。分かった。でも黒実くん、ちょっと考え方がズレてると思うぞ」
「え……ズレてますか」
「『やりたいこと』が先にある、と思ってる。違うか?」
「はあ……まあ、そう、ですね。先に見つけないといけない、というか……」
「それが間違いなんだよ」
白鳥はパン、と手を叩いた。黒実がびくっとした。
「順番が逆なんだ。まず、やる。やってみる。そうすると、やりたいことが生えてくる。芽が出てくる。やりたい意思が先にある、なんてのは、誰かが作った物語だ。映画とか、マンガとか、成功した人の伝記とか。後付けで語られた話に過ぎない。人は成功した後で、さも最初から分かっていたように語るんだ。そんなの真に受けるから、やりたいことが見つからない、ってなるんだよ」
黒実は少し考えるような顔をした。
「つまり……とりあえず、やれ、ということですか」
「そういうことだ! やる前からやりたいことを探そうとするから、頭がショートするんだ。まず動け。動けば摩擦が生まれる。摩擦から火花が出る。火花が『これだ!』になる。電気工学と同じだよ。電流は流れてみないと、どこへ向かうか分からないだろ」
「なるほど……」
黒実の目が、少しだけ開いた気がした。少し、だが。
白鳥はそれを見て、よし実践だ、と思った。話すだけでは不十分だ。一緒に「やること」を見つけてやろう。それが教育というものだ。……まあ、白鳥の場合、自分もやりたいから、というのが大半を占めているのだが、それは黙っておくことにした。
「で、黒実くん。何かひっかかるものはないか。何でもいい。ぼんやりとしたものでいい」
「うーん……」
黒実は天井を見た。
「お金は? お金が好きか」
「それは……まあ、あるに越したことは」
「そうだよな。じゃあ、お金になることを考えようか」
「先生、もうちょっとこう……精神的なというか……」
「准教授な。女性は?」
黒実の顔が固まった。
「え……」
「好きな子とかいないのか。それをきっかけに何か行動するってのも、立派なモチベーションだぞ」
「教育者がそういうことを言っていいんですか」
「教授じゃないから、セーフだ」
「セーフの意味が分かりません」
白鳥は声をあげて笑った。黒実は困ったような顔をしていたが、さっきよりも少し肩の力が抜けたように見えた。こういう「困った」という感情は、「暗さ」よりずっといい。表情が動いている。
それから二人は、あれこれと探った。趣味はあるか。好きな食べ物は。これまで感動したことは何か。逆に腹が立ったことは。白鳥が次々と質問を繰り出し、黒実が答えるたびに「それはいいな」「そこに掘り下げろ」「それはすぐに忘れろ、たいして好きじゃないぞ」などとコメントした。
だが、なかなか「これだ!」というものが出てこなかった。
白鳥はだんだん自分の話をしはじめた。「俺はな、学生のころ、自転車で日本縦断したんだよ」「三十代で突然、陶芸にはまってな、窯まで買いかけた」「去年は屋久島で三泊テント張ってきた」「一時期、演劇に興味があってな……」。黒実は「すごいですね」と相槌を打ちながら、だんだん呆れたような顔になっていった。
「私などやりたいことだらけなんだがなあ」
白鳥は首をひねった。
「羨ましいです」
「いや、でもそれは、やってきたからだよ。昔は俺だって、なんとなくの塊みたいな時期があった。とにかくやってみた。失敗した。また別のことをやった。そのうちに、好奇心の筋肉がついてきた。そういうことだよ。好奇心は鍛えられる」
黒実は黙って聞いていた。窓の外で烏が飛び立ち、夕日が一段と赤くなっていた。
「うーむ、でも、埒があかんな」
白鳥は立ち上がり、大きく伸びをした。
「喉が渇いた。黒実くん、悪いがコーヒー買ってきてくれんか。廊下の自販機でいい。ブラックを頼む」
黒実は立ち上がりかけて、ふと口を開いた。
「ああ……そういえば、コーヒーは好きですね」
白鳥は止まった。
「コーヒー?」
「はい。毎朝飲みます。種類とか詳しくはないんですけど、コーヒー飲むとほっとするというか。あの香りが好きで。朝、あの匂いを嗅がないと一日が始まらない感じがして」
白鳥の目が、ゆっくりと光った。
コーヒー。
いいじゃないか。コーヒー。
「黒実くん、それだよ。コーヒーだよ!」
「え、でも、コーヒーって……ただ飲むだけじゃないですか」
「ただ飲むだけ? そんな勿体ない話があるか! コーヒーを味わい尽くすには、どんだけ深みがあるか分かるか? 豆の産地、焙煎度合い、挽き方、抽出方法、水の温度、そして生産者の顔。そのすべてが違えば、味が変わる。何十通りと試せるぞ」
黒実は少し目を丸くした。
「しかも」と白鳥は続けた。前のめりになりすぎて、椅子ごと少し前に動いた。「どうせやるなら、ゼロからやろう」
「ゼロから……?」
「コーヒーは実から作る。コーヒーチェリーっていう実が木になる。その実の種が、コーヒー豆だ。昔テレビで見た気がする。そこから始めよう」
「そこから……? 木を育てるということですか?」
「そうだ」
黒実は少し考えてから言った。
「それって、かなり時間かかりませんか」
「調べよう。まずは調べてみよう」
白鳥は椅子を引き寄せ、ノートパソコンを開いた。黒実も横に立ってのぞき込んだ。
調べると、なかなか衝撃的なことが分かってきた。
コーヒーの木は、日本でも観葉植物として室内で育てることができる。耐寒性が低く、冬は十度以上を保つ必要があるが、室内ならなんとかなりそうだ。コーヒーチェリーという実は甘く、そのまま食べることもできる。ただし実の大部分は種(つまりコーヒー豆)が占めていて、食べられる果肉はほんのわずかしかない。
「おもしろいな」と白鳥は声に出した。「コーヒーチェリー、甘いのか。食べてみたい」
「先生」
「准教授な」
「開花と結実まで、三から四年かかるって書いてあります」
白鳥の手が止まった。
三から四年。
白鳥は天井を見上げた。黒実も白鳥の顔を見た。研究室の時計がカチ、と音を立てた。沈黙が五秒続いた。
「ブラジルへ行こう!」
黒実は椅子から転げ落ちそうになった。
「え?」
「コーヒー農園へ行こう! ブラジルには広大なコーヒー農園がある。ファゼンダというらしい。現地で豆を探せばいい。三から四年待つ必要はない!」
「いや、ちょっと待ってください。ブラジルへ行って、どうやってコーヒーを手に入れるんですか。何か伝手があるわけでもないのに」
白鳥は少し考えた。確かに、ブラジルへ行けばコーヒー農園があるのは分かっているが、具体的にどうやって農園と接触するのか、まったく分からない。
「……そういえば、となりの研究室に南米からの留学生がいたな」
「あ」と黒実が声を上げた。「ジョアンさんですね」
「そう、ジョアン! 彼に頼もう。彼なら農園の伝手を知っているかもしれない」
「待ってください。ジョアンさんって、アルゼンチン出身だったような気がします。ブラジルじゃなくて」
「構わん。同じ大陸だ。無理にでも伝手を探させよう」
「いや、それは……アルゼンチンとブラジルって全然違う国ですよ」
「大丈夫。南米という共通点がある。きっと何か知ってる。人間はつながっているものだ」
「その理屈は……」
「行くぞ、隣の研究室!」
白鳥はすでにドアを開けていた。黒実は何か言いたそうにしていたが、白鳥の背中を追わざるを得なかった。
それから黒実には、もう一つ引っかかっていることがあった。廊下を歩きながら追いついて、白鳥の袖を引っ張った。
「待ってください。先生、大学は? 講義は、放っておいていいんですか?」
白鳥は足を止め、振り返った。少し真剣な顔をした。
「黒実くん。講義よりも、教育のほうが大切だ。キミの未来がかかっている」
「その理屈はおかしいと思います」
「細かいことを気にするな。行くぞ」
ということで、二人はブラジルへ向かうことになった。
ジョアンは確かにアルゼンチン出身だったが、白鳥の熱量に押されて渋々と知人を当たってくれた。ブラジル・ミナスジェライス州のコーヒー農園、ファゼンダ・サンタ・ルシアで受け入れてくれる農園主の連絡先を入手するまでに、三日かかった。
「ありがとう、ジョアン! お礼に今度、飯をおごる!」
「どうか、もう二度と来ないでください……」
ジョアンの小さなつぶやきは、白鳥の耳には届かなかった。
成田空港からサンパウロへ。国際線の機内で白鳥はコーヒーについての記事を読みながら、なぜか陸上競技の世界記録も調べ始め、そのうちブラジルの民族料理まで読み込んでいた。黒実はとなりで毛布をかぶって眠っていた。
サンパウロから国内線と車を乗り継いで、農園に到着したのは出発から約二日後のことだった。
標高千メートルを超える丘陵地帯に、延々とコーヒーの木が並んでいた。緑の海だ。風が吹くたびに、木々が一斉にそよいで、波のように揺れた。
白鳥は車を降りた瞬間、深く息を吸い込んだ。土と緑と、かすかにコーヒーの香りが混じった空気。目の前に広がる光景は、テレビで見るものとは全然違った。情報ではなく、実物だ。体に入ってくる。
「これか……これがコーヒーか……!」
となりで黒実も深呼吸している。疲れた顔に少しだけ好奇心が戻っていた。
農園主のエドゥアルドは、初老の大男だった。日焼けした顔に、白い歯を見せてよく笑う。英語は少し話せたが、基本的にポルトガル語だった。農園で働く人たちは全員ポルトガル語で、英語はほぼ通じなかった。
「言葉、全然分かりません」と黒実が言った。
「そりゃそうだ。でも大丈夫。体で覚える」
「体で……」
翌朝、二人の農園生活が始まった。
午前五時半に起床。食堂にはすでに焼きたてのパンとチーズが並んでいた。そしてコーヒー。砂糖をたっぷり入れた甘いコーヒーが、小さなカップで出てくる。ブラジルではカフェジーニョというらしい。
「うまい!」
白鳥は一口飲んで、思わず声に出した。隣でエドゥアルドが歯を見せて笑った。なにを言っているかは分からないが、喜んでいるのは伝わった。
六時半には農園のトラックに乗り込み、担当区画まで移動する。広大な農地を走るトラックの荷台で、朝の風が吹きつけてくる。空がまだ淡い橙色だった。どこまでも続く緑の木々の列が、トラックとともに流れていく。
七時から作業が始まる。機械収穫が主流だが、斜面の区画は手作業だ。コーヒーの枝から実を一気にこそぎ落とす「デリッサ」という作業は、見た目よりずっと重労働だった。同じ姿勢で枝を掴み続けると、すぐに肩が張ってくる。
白鳥は最初の一時間で筋肉痛の予感がしてきた。
腰がやばい。日差しがやばい。虫がやばい。土埃がやばい。
でも、なんか楽しい。
「黒実くん、これがコーヒーチェリーだぞ。食べてみろ」
摘み取ったばかりの赤い実を一つ、口に入れた。
「…………甘い!」
白鳥は目を丸くした。本当に甘かった。トマトにも似た、みずみずしい甘さだ。中の種、つまりコーヒー豆の部分は大きくて、食べられる果肉はほんのわずかだった。
「これが……コーヒーになるのか……」
なんだか不思議だった。あの苦くて芳醇な飲み物が、この甘い実から生まれるとは。白鳥は素直に感動した。こういう感動が、白鳥には生きがいだ。知識として知っていたことが、体験として分かる瞬間。その瞬間のためだけに、どこへでも行く価値がある。
黒実も恐る恐る口に入れて、驚いた顔をした。
「ほんとだ……甘い……」
「だろ! こういうことだよ。やってみて、初めて分かることが世界には溢れてる。今、驚いただろ? それだよ。やりたいことより先に、驚きを集めろ。そうすれば後からついてくる」
黒実は何も言わなかったが、うなずいた。そのうなずきは、今日この農園に来るまでのどのうなずきよりも、少しだけ力強かった。
昼食は弁当箱で、豆の煮込み料理「フェイジョン」とライスだった。外で食べる昼飯は格別にうまかった。コーヒー農園の一角に腰を下ろし、木の影で食べるそれは、どんな高級レストランとも違う旨さがあった。
作業を終えて農園に戻る夕方、空に星が出始めていた。ブラジルの星空は東京とは別物だった。満天という言葉は東京では比喩だが、ここでは文字どおりの意味だ。頭上の全部が星だ。
「きれいですね」と黒実が言った。
「ああ」と白鳥は空を見上げたまま答えた。
本当にきれいだった。こういう光景を見るたびに、白鳥は思う。来てよかった、と。いつも来てよかった、と思う。どこへ行っても、何をやっても、来てよかったと思う。だから白鳥は止まれないのだ。
こうして農園での日々が続いた。毎日、農作業をしながら、終わった後に様々な豆を飲み比べた。農園では何十種類という豆を扱っており、エドゥアルドが様々な焙煎と品種を試飲させてくれた。最初は「全部同じじゃないか?」という印象だったが、日を追うごとに少しずつ違いが分かってきた。
フルーティなもの。ナッツのような香りのもの。チョコレートのような深みのあるもの。スモーキーで苦みの強いもの。
二週間後、白鳥はついに自分のベストを見つけた。深みがあって、後味に甘さが残る豆。農園の奥まった区画で育てられた、小ロットの品種だった。
「これだ」
白鳥は確信した。この豆は本物だ。
黒実も自分の好みの豆を見つけた。白鳥とは少し違う、華やかな香りのものだった。最初に来たときとは別人のように、自分で考えて選んでいた。
エドゥアルドに頼んで、豆を分けてもらった。おまけに小さなコーヒーの苗も一本いただいた。エドゥアルドは笑いながら何か言った。少なくとも「またいつでも来い」みたいなことを言っているように感じた。ポルトガル語は分からないが、雰囲気でそう判断した。
帰国の飛行機の中で、白鳥は豆の袋を膝の上に置いたまま眠った。珍しいことだった。白鳥は普段、飛行機の中でも何かを読んでいたり調べていたりするのだが、この夜はすんなりと目が閉じた。働いた体が正直だった。
東京に戻り、数日後。
白鳥は昼食後、自分の研究室でコーヒーを淹れていた。ブラジルから持ち帰った豆を、ミルで挽いて、ゆっくりとドリップする。湯がフィルターに触れる音と、香りが同時に広がった。
一口飲んだ。
「……うまい」
ブラジルで飲んだときの味と、少し違う。焙煎の具合か、水の違いか。だが、確かにあの豆の風味がある。東京の研究室に、ブラジルの丘の記憶が漂っているようだった。
白鳥はカップを置き、ぼんやりとスマートフォンをいじった。ニュース、天気、為替、最近のテクノロジー動向と指を滑らせていると、こんな見出しが目に飛び込んできた。
「ジャパン・コーヒー・コンテスト二〇二六、東京にて開催決定。一般部門の賞金は百万円」
白鳥の指が止まった。
百万円。
まあ、百万円自体はそれほど大きくない。研究費と比べても、たいした額ではない。
しかし、だ。
白鳥の頭の中で、ドミノが倒れ始めた。コンテストで優勝する。メディアが来る。「ブラジルから持ち帰った幻の豆!」と報じられる。各方面から引き合いが来る。商品化の話が持ち上がる。「白鳥ブレンド」がコンビニに並ぶ。名前が売れる。本が出る。講演の依頼が来る。テレビに出る。
目がくらんだ。
俺は今、ただコーヒーを飲んでいるのではない。未来の大物の卵を飲んでいる。
白鳥はすぐに決めた。このコーヒー豆を出品しよう。名前は「白鳥豆」だ。自分で名付けた。勝手に名付けた。コーヒー界にそういうルールがあるかどうかは知らないが、とにかく白鳥豆でいく。ブラジルまで行って、汗をかいて見つけた豆なのだ。世に広めない手はない。この豆がどう評価されるか見てみたい。
エントリーフォームを記入しながら、白鳥はすでに受賞スピーチを頭の中で練習していた。「日本とブラジルをつなぐ、この豆の物語を……」
コンテストの書類選考、一次審査を経て、白鳥豆は決勝へと進んだ。
「やはり俺の豆は本物だった!」
白鳥は研究室でガッツポーズをした。黒実は横で「おめでとうございます」と言いながら、少し冷めた目をしていた。
決勝の会場は、東京・有明のイベントホールだった。決勝に残ったのは三種類のコーヒー。白鳥豆を含む三つだ。会場の雰囲気は本格的で、スポットライトの当たったテーブルの上に、三つのコーヒーカップが丁寧に並べられていた。
審査員は五名。いずれも業界の専門家らしく、厳かな顔をして席についていた。スーツが揃っている。メモを取る仕草も板についている。
白鳥は会場の隅で、他の二種類のコーヒーを試飲した。ひとつは「エチオピア・ゲイシャ」、もうひとつは「コロンビア・シングルオリジン」だという。
白鳥は一口飲んだ。
……うまい。
もう一口飲んだ。
……うまい。
白鳥豆も飲んだ。
……うまい。
三つとも、うまかった。そしてこれが困ったことに、白鳥には三つの違いがよく分からなかった。
よく考えると、缶コーヒーだって全部同じような味だと思っていた。毎朝飲んでいるのに、「微糖」と「ほんのり甘い」の違いが分からない。パッケージが違うから別の商品だと思っているだけで、目隠ししたら絶対に当てられない。ましてや最近の値上げで、百五十円もするのにその程度か、と思っている。人は情報を飲んでいるのだ。
つまり、コーヒーの審査とは「情報の審査」であって、豆の味の審査ではないかもしれない。
だとしたら、審査員だって、分かっていないのではないか。
だとしたら、勝ち方は豆じゃない。
白鳥の頭の中で、また別のドミノが倒れ始めた。
白鳥はスーツの内ポケットに手を入れた。財布を出す。中身を確認する。
「いくらが適当か。できる限り厚いほうがいいな」
ひとり言のつもりで言ったが、残念ながら隣に黒実がいた。
「先生、何を考えてるんですか」
「准教授な」
「先生」
「少し、審査員の方々に、事前にご挨拶をしようかと思ってな」
「絶対にやめてください」
「いやいや、菓子折りみたいなものだよ。日本の慣習だ」
「現金は慣習じゃないです。というか菓子折りも今は渡せないですよ、審査前は」
「細かい話だ。審査員だって人間だろ。人間なら、気持ちに動かされるものだ」
「それを賄賂といいます」
白鳥は止まらなかった。
にこやかな顔で審査員の一人に近づいた。五十代くらいの、眼鏡をかけた男性だ。業界歴が長そうな落ち着いた雰囲気がある。白鳥は声を落として、封筒を差し出した。
審査員の顔が固まった。
その顔は「怒っている」だった。
その後のことは、白鳥はあまりよく覚えていない。
審査員が運営スタッフを呼んだ。スタッフが来た。何か話し合いが行われた。会場がざわついた。舞台上のマイクから、声が響いた。
「出品者・白鳥晋氏の白鳥豆につきまして、審査員への不当接触の事実が確認されました。規則違反により、失格といたします」
静寂。
白鳥は立ったまま、会場の全員の視線を受けた。
三秒。
五秒。
ブラジルまで行って、土にまみれて、見つけた豆なのに。
白鳥は手近な審査テーブルの端をつかみ、思い切りひっくり返した。
コーヒーカップが飛んだ。いろいろ舞った。
「事前コミュニケーションの範囲内だろうが!」
白鳥は叫んだ。
そして走った。
会場の入り口を目指して、全力で走った。スーツの裾がめくれた。段差でつまずいて転びそうになったが、腕を振ってなんとか持ちこたえた。振り返る余裕はなかった。後ろで黒実が何か叫んでいるのが聞こえたが、止まらなかった。
外に出ると、有明の風が頬を叩いた。夜の空気だ。遠くで東京湾の灯りが反射していた。
白鳥は走りながら、心の中で思った。
このままでは終わらない。
今回は失敗した。買収がうまくいかないとは、まったく審査員が融通のきかない人間だったとは。しかしよく考えると、融通がきかない人間に事前に当たってしまったのが不運なのであって、俺のやり方が間違っていたわけではない。次は相手をよく見極めることだ。
いや、そもそも方法を間違えた。豆で勝負すべきだった。
いや、でも豆の違いが俺にも分からないのだから、やっぱり別の手が必要だ。
じゃあ何か。
次はどこへ行く。エクアドルか。エチオピアか。
そうだ、エチオピアだ。コーヒーの発祥地はエチオピアのカファ地方だという話を聞いたことがある。本場中の本場だ。あそこへ行けば、もっとすごい豆があるかもしれない。そして次のコンテストでは、今度こそ正攻法でいく。豆の力で、真っ向勝負だ。……もしくは、もっと上手いやり方を。
白鳥は走りながら、すでに次の旅を妄想していた。
失格の屈辱は、ほとんど数秒で消え去っていた。
人生は広い。選択肢は無限にある。一つが閉じれば、また別の扉を開ければいい。むしろ扉が閉じたぶんだけ、世界が広がる気がしていた。
白鳥晋。やりたいことだらけだ。
次の目的地はエチオピア。コーヒー発祥の地で、白鳥豆の伝説はいよいよ本番を迎えようとしていた。……本人だけが、そう思っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
本作は短編としてまとめていますが、手探りの部分が多く、試行錯誤の末の作品です。
もし、楽しんでいただけましたら、どのシーンが印象に残ったかなど、率直な感想をいただけると嬉しいです。改善の参考にさせていただきます。




