悪役令嬢になったのは、ずっと幼かったから
10人目……になりました。
今回は「ずっと幼かったから」です。
悪かった、で終わらせるのではなく、幼さがどう扱われ、どう周囲に押し返され、どう“悪役令嬢”になっていったのかを書く話になりました。
よろしければ、お付き合いください。
最初に、その呼び名を耳にしたのがいつだったか、リクシエルはもう思い出せなかった。
誰かが面と向かってそう言ったわけではない。けれど人の視線というものは、ときに言葉より露骨だ。近づけば途切れる会話、扇の陰で寄せられる目、わずかに遅れる礼。そのすべてが、彼女を一人の役へ押し込めていく。
高慢な公爵令嬢。
嫉妬深い婚約者。
可憐な子爵令嬢をいびる、未来の王太子妃。
そういう話にする方が、皆にとって都合がよかったのだろう、と今なら少しは思える。だが、その頃の彼女はまだ、そこまで大人ではなかった。
春の終わり、学園の庭園は薄い陽で白く霞んでいた。石畳の脇に植えられた薔薇はまだ咲き切らず、緑の中に色だけが先に浮いて見える。午後の講義を終えた生徒たちが、あちらこちらで談笑の輪を作っていた。その中で、ひときわ目につく一角がある。
王太子エドリックと、その隣に立つセシール・マルティナ。
リクシエルは立ち止まった。
セシールは白に近い淡黄のドレスを着ていた。子爵家の娘らしい控えめな仕立てだが、布の選び方は悪くない。飾りも少ないのに、かえって首筋の細さや、指先の小ささばかりが目に入る。そういう見せ方を、この娘は分かっているのだと、リクシエルはいつも思っていた。
セシールは何か困ったように眉を寄せ、エドリックへ紙片を差し出していた。たぶん次の講義の課題か、図書室で借りたい書物の相談か、その程度のことだろう。実際、遠目に見れば微笑ましい光景ですらあった。王太子が身分の低い令嬢にも分け隔てなく言葉をかけ、助言を与えている。慈悲深く、親しみやすい次代の王の姿。そう見えるように、場は出来上がっている。
けれど婚約者の目から見れば、その距離は近すぎた。
エドリックは身をかがめ、セシールの持つ紙へ顔を寄せていた。彼女が何かを言うたび、すぐに応じる。二人のあいだに流れているのは、王太子と臣下の娘の線を少しだけ越えた、私的なやわらかさだった。
嫌だ、と思う。
自分でも驚くほど単純で、子供っぽい感情だった。嫌だ。不快だ。見たくない。婚約者がいるのに、どうしてそういう距離で人と話せるのか。どうして周囲はそれを微笑ましいもののように受け取るのか。
だが彼女は、その感情にふさわしい言葉を持っていなかった。
胸の内へ浮かんだのは、悲しい、でも、つらい、でもなく、もっと硬い言葉ばかりだった。作法。礼節。身の程。順序。王太子に近づくとは何事か。婚約者への配慮はないのか。口をついて出るのは、そういうものだけだ。
リクシエルは二人へ歩み寄った。
「殿下」
エドリックが顔を上げる。柔らかな表情のままだったが、それが彼女の胸をさらに刺した。
「リクシエル。どうした」
「どうした、ではございません。講義後のお時間を、誰にでも気安く割いてよいお立場ではないでしょう」
声は思ったより冷たく響いた。周囲の空気がわずかに止まる。
セシールがはっとしたように紙を引いた。
「も、申し訳ありません……わたくしが、少し課題のことで迷ってしまって」
「課題のことでしたら、担当の先生か、同じ組の方へお尋ねなさい」
言いながら、これでは駄目だとリクシエルは分かっていた。言いたいのはそんなことではない。課題などどうでもいい。問題はそこではない。なのに、口から出るのは正しさの形をした言葉だけだ。
セシールは俯いた。
「わたくし、殿下がお詳しいと伺って……」
「だからといって、婚約者のある殿下へ、そのように私的な距離で寄りかかってよい理由にはなりません」
やってしまった、と思った時には遅かった。
セシールの肩がぴくりと震える。エドリックの眉がわずかに寄る。周囲の視線が、いっせいにこちらへ集まったのが分かった。
「リクシエル」
エドリックの声は低くはなかった。ただ、抑えている時の声だった。
「セシール嬢は困っていただけだ。言い方がきつい」
「きつい、ですか」
言葉尻だけを拾って返したのは、完全に失敗だった。
「では殿下は、婚約者が傍で見ている前でも、誰にでもそのように親しくなさるのですか」
エドリックが黙る。セシールはますます小さくなる。見ていた令嬢たちが扇の陰で目を見交わした。
これだ、とリクシエルは痛いほど知っている。
今この瞬間、彼女は完全に“そういう令嬢”として見られている。
嫉妬深く、狭量で、余裕のない婚約者。
自分がそう見えるように振る舞ってしまったのだと理解しても、もう止められない。
「課題の相談程度で、そのように仰るなんて……」
誰かが小さく零した。それが誰かは分からない。分からない方が、むしろ堪えた。特定の敵ではなく、場そのものが自分をそう見ている。
リクシエルは唇を噛んだ。
謝るべきなのかもしれない。言い過ぎました、と言えば、いくらかは収まるかもしれない。だが、その言葉もまた出てこない。傷ついたまま頭を下げるやり方を、彼女は知らなかった。
その時、少し離れた回廊の陰から歩み出てきた男がいた。
フェルディオ・ルヴァンセル。
王妃の甥にあたる公爵令息で、学園では一つ上の学年を終え、今は王宮で見習いのように実務へ触れ始めている。年若い貴族たちの中では落ち着いた空気を持ち、必要以上に人へ近づかないことで知られていた。
彼は三人の前で足を止めると、まずエドリックへ浅く礼をし、それからリクシエルへ視線を向けた。
「正しいことを言っていても、言い方を誤れば、誰も正しさを見ません」
穏やかな声だった。だが慰めではない。
リクシエルは一瞬、叱られた子供のような気持ちになった。腹が立つのに、否定できない。
「……それは、わたくしが間違っていると?」
「少なくとも、今の場では得るものがない」
フェルディオはそこで一度言葉を切り、エドリックとセシールを順に見た。
「殿下も、あまり人目を軽んじない方がよろしい。誤解を招きます」
それはきわめて穏当な言葉だった。穏当すぎて、何の助けにもならないようにも聞こえる。だが同時に、彼が誰の肩も持っていないことは明らかだった。
エドリックはわずかに肩をすくめた。
「課題の相談を受けていただけだ。誤解とは大げさだな」
「大げさで済むことなら、結構です」
フェルディオはそれ以上踏み込まなかった。ここで公の口論にするつもりはないのだろう。軽く一礼し、二歩ほど下がる。
その間にも、場の空気はすでに決まってしまっていた。
言いすぎた婚約者。
困らされた子爵令嬢。
たしなめる王太子。
穏便に収めようとする公爵令息。
リクシエルだけが、何も上手くできなかった側に立っている。
彼女はようやく小さく礼をし、その場を離れた。背筋を崩さず歩きながら、喉の奥が焼けるように熱かった。泣きたいのか怒っているのか、自分でも分からない。ただ、胸の内で何かがひどくみっともなく暴れている。
廊下を折れ、人目が薄くなったところで、初めて息を吐いた。
傷ついた、と口にできたならどれほど楽だっただろう。だが彼女の中では、その言葉はいつも怒りへ変わる。相手を責める形に変わってしまう。そうして自分で自分を追い詰める。
庭園で吹いていた風よりも冷たいものが、胸の内へじわじわと沈んでいった。
それから数週間、似たようなことが何度もあった。
書庫の奥で、セシールがエドリックへ声をかけているのを見た。
講義棟の階段で、二人が並んで立ち話をしていた。
次の舞踏会の課題曲が不安だと言って、セシールが練習の相手を頼んだこともあった。
どれも一つずつ見れば些細なことだ。誰かが明確な一線を越えたわけではない。けれど、だからこそ厄介だった。積み重なった小さな親しさは、いずれ当たり前の空気になる。その当たり前から外れる側へ、リクシエルは少しずつ押しやられていった。
そして彼女もまた、そのたびに最悪の振る舞いをした。
講義の前に配られた資料の束を、セシールがうっかり落とした時。エドリックがしゃがんで拾うのを見て、リクシエルは言った。
「ご自分で処理できることまで殿下のお手を煩わせるのは、慎みを欠きます」
舞踏会の座席表が出た時、セシールの席が王太子に近い列へ置かれているのを見て、彼女は侍従へ変更を求めた。
「身分順と役割を考えれば不自然です。感情ではなく秩序で置き直しなさい」
ある日、セシールが小さな刺繍入りの栞をエドリックへ渡したのを見た時には、もう少し酷かった。
「殿下へ私的な贈り物を?」
周囲がいる前で、彼女はそう問いただした。
「子爵家では、婚約者のある殿方へそのような真似をしてもよいと教わるのですね」
その瞬間、空気が凍った。
セシールは青ざめ、栞を握る手を震わせた。エドリックがすぐに間へ入る。
「やめろ、リクシエル」
「やめる? 何をです」
「人前でそこまで言う必要はない」
「必要はあります。必要がなければ、殿下はいつまで経ってもお気づきにならない」
その言葉に、エドリックの表情が明らかに曇った。セシールはついに涙ぐみ、すみません、と小さく呟く。
駄目だ。
またやった。
そう思うのに、口は止まらない。
「謝る相手が違います。今ここで恥をかくべきはわたくしではなく――」
「リクシエル」
低く割り込んだ声に、彼女はようやく振り返った。
フェルディオだった。
彼はいつからそこにいたのか、少し離れた柱の陰に立っていた。周囲の視線がまた一つ増える。リクシエルは自分の頬が強張るのを感じた。
「その先を言えば、あなたはまたご自分でご自分の首を絞める」
「では、黙って見ていろと?」
「少なくとも、今ここで刺せば、あなたが悪く見える」
そう言われること自体が、彼女には耐えがたかった。
「悪く見える、ではなく、悪いことをしている方を正せと言っているのです」
フェルディオの目がわずかに細まる。
「正すことと、勝つことを混ぜるな」
その言葉は、鋭かった。
リクシエルは息を詰める。勝つこと。そうだ、自分は今、正したいのではなく勝ちたいのだと、どこかで分かってしまった。傷つけられた分だけ相手も傷つけばいい、少なくとも自分だけがこの場でみじめになるのは嫌だ、そういう幼い願いが、彼女の中にある。
けれど認めたくはなかった。
「……フェルディオ様は、どちらの肩も持たないつもりで、随分と片方だけを諭されるのですね」
「諭しているのは、諭せばまだ届くと思っているからです」
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
届くと思っているから。では他の二人には届かないとでも言うのか。問い返す前に、エドリックが小さく吐息をついた。
「大げさだな。栞ひとつでここまで騒ぐ話ではない」
その軽さが、決定的だった。
リクシエルは彼を見る。エドリックは本当にそう思っている。今起きているのは、嫉妬深い婚約者が些細なことで機嫌を損ねただけのこと。少し宥めれば済むこと。彼にとってはその程度なのだ。
「殿下は、何も分かっておられないのですね」
声が震えた。
「何がだ」
「わたくしが何に傷ついているのかも」
「傷つくようなことではないだろう」
その一言で、胸のどこかが冷えた。
ああ、そうか。この人は本当に、傷つくようなことではないと思っているのだ。だから悪気なく繰り返す。だからセシールにも笑って応じる。だから自分へだけ、もう少し大人になれと言う。
その場で何か言い返したはずだが、後から振り返るとよく覚えていない。ただ周囲の視線ばかりが残っている。可哀想なセシールを見る目。困った婚約者を見る目。公の場で感情を制御できない女を見る目。
その日を境に、リクシエルを見る人々の態度はさらに明確になった。
彼女の前では皆きちんと礼を取る。けれどその礼は、敬意よりも警戒に近かった。必要以上に近づかない。何か失敗があればすぐに詫びる。楽しげな輪の中にいても、リクシエルが近づくと少しだけ空気が固くなる。
いっそ誰かが露骨に敵意を向けてくれた方が楽だった。そうすれば怒ればいい。だが現実はもっと厄介で、皆は礼儀正しく、少しずつ彼女から離れていく。彼女の前でだけ、余計なことをしないように気をつける。その慎重さが、何より彼女を惨めにした。
一方でセシールは、ますます“守られる側”として場に馴染んでいった。
失敗しても庇われる。
困れば助けられる。
泣きそうになれば、優しい言葉がかかる。
リクシエルはその様子を見るたび、胸の奥がじくじくと痛んだ。
自分だって最初から強かったわけではない。けれど彼女が泣けば、きっとみっともないと見られる。未来の王太子妃が人前で感情を乱すなと言われる。賢くあれ、堂々とあれ、誰より先に自制せよ。そればかりを求められてきた。だからもう、どうやって弱いふりをすればいいのかすら分からない。
弱いふり。
そう考えた瞬間、自分の思考の浅ましさに嫌気が差した。セシールは弱いふりをしているわけではないのかもしれない。あれが本当に、この娘のままならぬ生き方なのだろう。守られることでしか立てない、そういう幼さ。だがそれでも、許せなかった。許せないまま、上手く怒ることもできない自分が、いちばん惨めだった。
初夏の夜会が近づくにつれ、その空気はさらに濃くなっていった。
王宮主催の大きな夜会だ。卒業を控えた高位貴族たちの披露も兼ねる場で、王と王妃も臨席する。将来の顔ぶれが公に示される夜でもある。リクシエルは当然、王太子の婚約者としてエドリックの隣へ立つはずだった。
その夜に向けた準備の折、侍女が持ってきた調整用の席次案に、セシールの名がまた近い位置で記されていた。理由は“詩作の才能に優れ、今回の余興の朗読役を任されているため”。たしかに理屈としては通る。だが通る理屈ほど、人を傷つける。
リクシエルは静かに紙を置いた。
「変更を」
侍女が一瞬迷う。
「ですが、お役目の都合で……」
「都合というものは、誰の都合です」
侍女はすぐに頭を下げたが、その顔には明らかな困惑があった。無理もない。彼女もまた、心のどこかで思っているのだろう。この公爵令嬢はまた、あの子爵令嬢のことで、と。
その困惑を見るたび、リクシエルはますます孤立していく。
夜会の当日、王宮は光で満ちていた。高い天井から吊るされたシャンデリアが床の大理石へ細かな輝きを落とし、磨かれた金具やグラスの縁がそれを跳ね返す。音楽はまだ柔らかく、開宴前のざわめきが会場に薄く満ちている。
鏡の前で最後の仕上げを受けながら、リクシエルは自分の顔を見た。完璧に整えられている。髪も、飾りも、首元の角度も、何ひとつ崩れはない。こうしているぶんには、自分は誰より未来の王太子妃らしく見えるだろう。だが胸の内だけが、どうしようもなく幼いままだった。
会場へ出ると、すでに多くの視線が集まっていた。エドリックは王族席近くで人々へ挨拶をしている。その少し離れたところに、セシールの姿もあった。今夜の朗読役として呼ばれているだけだ。そう分かっていても、目につく位置にいること自体が、針のように神経を刺した。
開宴の挨拶が終わり、音楽と談笑が少し広がった頃だった。
エドリックが杯を置き、周囲の注目を受けるように一歩前へ出たのを見て、リクシエルは嫌な予感を覚えた。あの顔は、何か決めた顔だ。しかも良くない方向で。彼は責任から逃げる時ほど、妙に晴れやかな顔をする。
「皆、聞いてほしい」
ざわめきが止まる。
リクシエルは冷えた。
やめて、と一瞬思った。何をかは分からない。ただ今ここで、その声で始めることは、ろくなことにならないと本能が告げていた。
「私は今夜、リクシエル・アルヴェーンとの婚約を解消する」
大広間から音が消えた。
いや、実際には消えていないのだろう。どこかで誰かが息を呑み、衣擦れが鳴り、楽士が手を止めたはずだ。だがリクシエルには何も聞こえなかった。耳の内へ、白い水が一気に流れ込んだようだった。
エドリックは続ける。驚くほど流暢に。
「彼女は長く、セシール・マルティナ嬢へ高圧的な言動を繰り返してきた。嫉妬に駆られ、身分を笠に着て人を傷つけるようでは、未来の王太子妃としてふさわしくない」
周囲の視線が、いっせいにリクシエルへ向く。
その数の多さに、彼女は吐き気を覚えた。皆、待っていたのだ。いつかそうなるのではないかと薄々思いながら、こうして劇になる瞬間を。
セシールは蒼白になっていた。両手を胸元で重ね、今にも倒れそうなほど震えて見える。だがその震えが、リクシエルにはひどく遠かった。
「殿下」
やっと出た声は、自分のものではないように硬かった。
「……何を、仰っているのですか」
「事実を言っている」
「事実」
胸の奥で、何かがずるりと崩れる。
「事実ですって」
笑いそうになった。実際には笑えなかった。ただ顔のどこかが引きつっただけだ。
「では殿下は、これまでのすべてをそのように見ておられたのですか」
「少なくとも、セシール嬢がどれほど怯え、傷ついてきたかは見てきた」
「……そう」
もう駄目だった。耐えるための何かが切れてしまったのを感じる。
「では、わたくしが何に傷ついてきたかは、一度でもご覧になったのですか」
場がざわつく。それでも止まれない。
「どうしてわたくしばかりが我慢しなければならなかったのです」
「リクシエル」
「どうしてその方だけが、いつも守られるのです」
声が少し上ずる。最悪だと思うのに、抑えられない。
「殿下は婚約者の目の前で何度もその方へ親しくなさった。わたくしが何か言えば狭量だと仰る。あの方が何かしでかしても、悪気はないで済ませる。では、わたくしは何だったのです。黙って隣に立ち、笑っていればよかったのですか」
セシールが小さく嗚咽を漏らした。
「わ、わたくし……そんなつもりでは……」
その一言が、場を決定づけた。
ああ、終わった。
リクシエルはどこか醒めたところでそう思った。
今この瞬間、自分は完全に悪役令嬢だ。皆の見たい物語の中で、嫉妬に狂った婚約者として立っている。
エドリックが険しい顔で前へ出る。
「まだ言うのか。セシール嬢はお前のように強くない」
「だから何です」
「だから守られるべきだと言っている」
その言葉に、リクシエルは目を見開いた。
守られるべきだ。では自分は違うのか。強いから。平気そうだから。泣かないから。だから踏みつけても大丈夫だと、そういう意味なのか。
「殿下は」
喉が焼ける。
「本当に、何も分かっておられないのですね」
その時だった。
「では、その“そんなつもりではない”で、何が消えるのかを確かめましょう」
静かな声が、大広間のざわめきを真っ二つに割った。
フェルディオが、前へ出ていた。
場の中央へ進み出た彼は、王族の前へ出る無作法を犯した者の顔をしていなかった。むしろ最初から、ここへ出るべき時を待っていた者の落ち着きがあった。無駄な気負いも、若者らしい熱もない。静かで、よく通る声だけが大広間の空気を押さえていく。
「その“そんなつもりではない”という言葉で、何が消えるのか。今ここで確かめるべきでしょう」
セシールが涙に濡れた目で彼を見る。エドリックの眉が寄る。
「フェルディオ。これは私とリクシエルの婚約の問題だ」
「ええ。ですから、なおさら曖昧な情に流すべきではありません」
言い返されたエドリックの顔が一瞬こわばった。王妃の甥であるフェルディオは、無遠慮に王太子へ食い込める立場ではない。だが逆に言えば、簡単に黙らせてよい相手でもない。
フェルディオはまず、リクシエルへ視線を向けた。
「先に申し上げておきます。リクシエル嬢、あなたの言動が拙かったことは否定しません」
胸の内がぎくりと縮む。今さらそれを言うのかと、一瞬だけ思った。だが彼は、彼女を責め立てるための声ではなかった。
「傷ついた時に、その傷をそのまま言葉にできず、怒りや皮肉の形で人へ返した。人前で相手の逃げ場を奪うような言い方もした。あなたは実際に、人を傷つけています」
痛いほどその通りだった。
リクシエルは唇を噛む。庇われるのではないと、その数言だけで分かる。けれど、それでいて切り捨てられてもいない。
「ですが」
フェルディオはその一語を、わずかに重く置いた。
「だからといって、その幼さをこの場であなた一人の罪として並べるのは違う」
大広間の空気が、わずかに揺れる。
「幼かったのは、リクシエル嬢だけではないからです」
その言葉に、エドリックがあからさまに顔をしかめた。
「何を言っている」
「申し上げている通りです、殿下」
フェルディオは一歩も退かなかった。
「リクシエル嬢は、あなたの婚約者でした。ならば、彼女の未熟さもまた、あなたが向き合うべきものであったはずです。諭し、支え、誤れば正し、傷ついているならその理由を聞く。それをせず、ただ強く見えるから耐えられるだろうと決めつけた」
エドリックの喉が小さく動いた。
「私は、そんなつもりでは」
「でしょうね」
あまりにも淡々と返された言葉に、場の何人かが息を呑んだ。
「殿下は常に“そんなつもりではなかった”。セシール嬢も“そんなつもりではなかった”。けれど、その“つもりではない”の結果として、誰が何を背負わされたのか。それを今、問うているのです」
フェルディオは視線を横へ滑らせ、セシールを見る。
「セシール嬢。あなたは、婚約者のある王太子殿下へ何度も私的に相談を持ちかけた」
「わ、わたくしは……本当に、課題や、舞踏会のことで……」
「ええ。一つひとつは、その通りなのでしょう」
フェルディオは遮らずに言った。
「書庫での相談も。庭園での立ち話も。栞も。観劇前の不安も。単体で見れば些細なことだ。だからこそ始末が悪い。些細であることを盾に、婚約者の心を少しずつ踏みにじってもよい理由にはならない」
セシールの肩が大きく震えた。彼女は明らかに、ここまでの言葉を予想していなかった。悪意を暴かれるのではなく、甘えそのものを裁かれているのだと、ようやく理解した顔だった。
「あなたが本当に悪意なく振る舞っていたとしても、それで済む年でも立場でもありません」
声は最後まで穏やかだった。
「守られる位置に立てば、誰かがその分を傷つく。そう考えたことは一度でもありましたか」
セシールは唇を震わせ、答えられなかった。
その沈黙は、泣き声よりも雄弁だった。
彼女は考えたことがなかったのだ。自分が困れば誰かが助けてくれる、その当然の延長でしか動いてこなかった。そうして起きる歪みを、誰か大きな人たちがうまく処理してくれるものだと、どこかで信じていた。
フェルディオはそこで初めて、場全体へ向き直った。
「周囲の皆も同じです。リクシエル嬢が強く見えるから、泣かないから、正しい衣装を纏い、正しい礼を崩さないから、この娘は耐えられるのだと勝手に決めた」
その声は広間の端まで届いた。
「そして一方で、目の前で怯えれば、困れば、涙ぐめば、それを傷として受け取った」
彼はゆっくりと言葉を選ぶ。
「泣く者だけが傷ついているのではない。強く見える者が平気であるとは限らない」
リクシエルは、自分の胸が少しずつ痛くなるのを感じていた。痛いのは責められているからではない。今まで誰一人、そこを言葉にしてこなかったからだ。自分でさえうまく言えなかったことを、他人が先に口にしてしまう痛みだった。
けれど、その痛みの正体を正しく見抜く声は、フェルディオの後から続いた。
「その通りです」
王妃だった。
誰かが慌てて道を開き、場の視線がいっせいに玉座側へ流れる。王妃は席を立ち、裾を引くことなく数歩だけ前へ出ていた。宝石も衣も光を受けているはずなのに、その人だけは妙に静かな影を纏って見えた。
王妃はリクシエルを見る。その眼差しは冷たくなかった。だが甘くもなかった。
「泣かない娘は、傷ついていないように見えるものです」
王妃の声は、夜会の華やかさを一枚ずつ剥いでいくようだった。
「強く見える娘は、平気だと決めつけられる。言い返せばきついと評され、沈黙すれば当然と扱われる」
ほんのわずかに間を置いて、続ける。
「けれど婚約というものは、ただ隣で笑っていれば務まるものではありません。相手の立場を支え、家と家のあいだに立ち、まだ若いうちから、自分一人の感情では済まぬ重さを背負わされる。リクシエルはその重さを、誰より早く知っていたはずです」
リクシエルは息を止めた。
誰より早く。そうだ。たしかにそうだった。
幼い頃から作法を仕込まれた。王家へ嫁ぐ者の顔を学び、王宮の人間関係を覚え、家の利害を知り、感情を顔へ出すなと繰り返された。自分が何を好きで、何が嫌いで、何に怯えているのか。そういうものより先に、どう見えるべきかを教え込まれてきた。
「この娘は未熟でした」
王妃ははっきりと言った。
「けれど、未熟な娘でいることを、誰からも許されなかった」
その一言で、リクシエルの視界が一瞬揺れた。胸の奥へ押し込めていた何かが、ようやく名前を与えられた気がした。
王妃はエドリックへ向き直る。
「あなたは婚約者の幼さを見ましたか、エドリック」
「……母上」
「癇癪の形でしか出せぬ傷を、見苦しいの一語で片づけてきたのではありませんか」
エドリックの顔から血の気が引いていく。だが王妃は容赦しない。
「あなたは優しい子です」
その言葉に、一瞬だけ場が揺れた。だが続く声は鋭かった。
「だからこそ厄介なのです。優しい言葉をかけることと、責任を引き受けることは別です」
王妃はゆっくりと言った。
「怯えて見える者を庇い、強く見える者へ忍耐を求める。それは優しさではなく、怠慢です」
エドリックが何か言おうとして、言葉を失う。
その沈黙へ、今度はさらに重い声が落ちた。
「フェルディオの言に、誤りはない」
王だった。
低く、大きく、覆す余地のない声だった。その一声だけで、さきほどまで空気だったものが全て裁定の前段へ変わる。もはやこれは若者同士の感情のもつれではない。王家が見ている場だ。
王は玉座から立ち上がらなかった。ただ、その視線だけで広間を圧した。
「未熟だったのは、リクシエルだけではない」
王の言葉は短い。
「だが王太子たる者、自らの未熟さを婚約者一人へ背負わせた時点で、最も重い責を負うのはお前だ、エドリック」
エドリックは蒼白になった。
「父上、私は……」
「弁明は聞く。だが今この場で、お前が行おうとしたことは弁明より先に裁かれる」
王の目は厳しかった。
「婚約という公の約を、私情の劇へ変えた。王家の名の下に、一人の娘へ全ての責を負わせれば済むと思った。その軽さは、王太子として見過ごせぬ」
広間の隅で誰かが膝を鳴らした。重い沈黙が波のように広がる。
王は次にセシールを見る。
「セシール・マルティナ」
名を呼ばれただけで、彼女は膝を折りかけた。
「そなたに悪意があったか否かは、今ここでは大きな問題ではない。悪意がなければ、結果に責がないわけではないからだ」
セシールは泣きながら首を振った。
「わ、わたくし、そんな……殿下にご迷惑をおかけするつもりは……」
「だからこそ未熟だと言っている」
王の声は冷たく切った。
「“つもりではない”で済ませてよい立場と、そうでない立場がある。王太子へ私的に寄りかかり、その婚約者を傷つけた以上、そなたもまたその責から逃れられぬ」
セシールはとうとうその場へ崩れ落ちた。泣きじゃくる声が大広間へ響く。だがもう、その涙だけで空気が味方をすることはなかった。
王は周囲の若い貴族たちへも視線を巡らせた。
「そして、この場へ至るまで、その構図を面白がり、あるいは見て見ぬふりをした者も同じだ。空気で人を裁き、涙で軽重を決めるような者に、宮廷を支える資格はない」
何人かが青ざめて顔を伏せる。侍従見習いや令嬢たちの中には、震えている者もいた。
それから王は、一度だけ深く息をつき、最後にリクシエルを見た。
その目だけは、裁く者の目でありながら、少しだけ人としての色を宿していた。
「リクシエル・アルヴェーン」
「……はい」
声がかすれた。だが彼女は正面を向いた。もう逃げたくはなかった。
「お前もまた、幼さで人を傷つけた」
その言葉は当然だった。だからこそ、奇妙な安堵があった。やっと言われた、と彼女は思ってしまった。自分のしてきたことは傷ついていたから仕方ないなどと、誰かに免罪される方がむしろ苦しかった。
「正しさを盾に人を刺した。人前で逃げ道を失わせ、勝とうとした。その咎はある」
「……はい」
「だが」
王はそこで言葉を切った。
「その幼さを、今日ここで終えよ」
それは断罪というより、命令だった。
初めて境界を引かれた気がした。ここまでだ、と。ここから先は自分で変われ、と。完璧であれと求める声ではなく、未熟であったことを認めた上で終わらせろと言う声だった。
リクシエルは唇を結んだまま、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
王の裁定はその場で下った。
エドリックは王太子としての継承順位を一時停止され、今後一年、政務と婚姻の教育を改めて受け直すこと。対外の場への単独出席を禁じられ、王家の名の下で感情を演出へ用いた件について公式に叱責を受けること。
セシールは王宮への出入りを禁じられ、実家へ戻された上で、一定期間の謹慎と再教育を命じられること。今回の件は“可哀想な娘”としてではなく、“立場と距離を弁えぬ未熟”として記録されること。
周囲で面白がっていた若い貴族たち、侍従見習い、侍女たちも軽い処分では済まなかった。役目を外される者、宮廷での教育課程を延長される者、家へ戻される者。皆一様に、ただの噂話ではなかったのだと顔色を失った。
そしてリクシエルとエドリックの婚約は、その夜をもって正式に解消された。
夜会はそこで終わりにはならなかったが、もはや続きの音楽や会話が何を意味したのか、彼女にはよく分からなかった。
気づけば王宮の客室へ戻され、重い装身具を外されていた。侍女が何かを言っていた気もするが、半分も耳へ入っていない。髪を解かれ、背の飾りを外され、やっと一人になった時、鏡の前にいる自分を見た。
完璧に整えられていたはずの顔は、思いのほか崩れていなかった。
泣いていないからだ。
それが不思議で、少しだけ笑いそうになった。あれだけのことがあって、まだ泣けない。胸の中は滅茶苦茶なのに、目だけがうまく働かない。けれど以前とは少し違った。怒りの形でしか出てこなかったものが、今はちゃんと痛みとしてそこにある。
傷ついていたのだ、とやっと思えた。
最初からずっと。
嫌だった。寂しかった。軽んじられているのが苦しかった。なのにそれを認めること自体が、負けることのようで怖かった。だから正しさへ逃げた。作法へ逃げた。相手を刺すことで、自分だけが傷つく形を避けようとした。
けれど結局、自分も人を傷つけた。
そこからは逃げられない。
夜が明ける頃、アルヴェーン公爵家の帰還準備が整った。王宮の長い回廊を歩きながら、リクシエルは妙に軽い足取りと、鉛のように重い胸を同時に抱えていた。婚約者という立場を失ったのに、どこかで呼吸がしやすい。そんな自分へ、罪悪感すらあった。
中庭へ出る手前で、足音が一つ近づいてきた。
振り返ると、フェルディオが立っていた。夜会の礼装のままではなく、すでに外套を羽織っている。彼もまた、このあとどこかの務めへ向かうのだろう。
リクシエルは少し迷ってから、きちんと礼をした。
「昨日は……ありがとうございました、と言うべきなのか分かりません」
「言う必要はありません」
フェルディオはいつもの調子で答えた。
「私は必要なことを言っただけです」
「必要なこと」
「ええ」
それだけではあまりにもそっけなくて、リクシエルは少しだけ唇を引いた。以前ならそのそっけなさに腹を立てていたかもしれない。だが今は、不思議とそうならない。
「あなたは、最初から分かっていたのですか」
「何を」
「わたくしが……傷ついていたことを」
口にしてから、自分で驚いた。ちゃんとその言葉で言えたことに。
フェルディオは彼女をまっすぐ見た。
「分かっていた、というほど立派ではありません。そう見えた、だけです」
「泣いてもいませんでしたのに」
「泣かない人間が傷つかないと思ったことはありません」
その返答が、ひどく静かに胸へ落ちた。
しばらく沈黙があった。朝の光はまだ弱く、中庭の石畳へ淡く広がっている。どこかで鳥が鳴いた。
フェルディオはやがて、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「次は、怒る前に言葉にしろ」
リクシエルは目を瞬いた。
「簡単に仰るのですね」
「簡単ではないでしょう。だから次だと言っています」
彼はそこでわずかに肩をすくめた。
「だが、その方がずっとましだ。少なくとも、今までのあなたよりは」
リクシエルは小さく息を吐く。
「……努力いたします」
「そうしてください」
フェルディオはそれ以上何も言わず、軽く一礼しかけて、ふと足を止めた。
「今度は、あなたが何を言おうとしているのかを、最初から聞く者もいるはずだ」
それだけを置いて、彼は去っていった。
呼び止める理由はなかった。呼び止めなくてもいいと思えた。妙にすっきりした背中を見送りながら、リクシエルはようやく、自分の中に残っていた最後の張りつめた糸がほどけるのを感じた。
涙は、そのあと少し遅れてきた。
馬車へ乗り込む前、人のいない柱の陰で、ほんの短く。
嗚咽になるほどでもなく、顔をぐしゃぐしゃにするほどでもない。静かに、数滴だけ落ちた。
それでよかった。
誰にも見せる必要はないが、もう自分の中で否定する必要もない。
悪役令嬢と呼ばれたあの夜、リクシエルは初めて、自分がずっと子供のまま傷ついていたことを認めた。
そしてようやく、その幼さを終える場所へ立ったのだった。
今回の「ずっと幼かったから」は、幼いという言葉の中にある、可愛げだけではない未熟さを書きたくて作った話でした。
言えない、甘えられない、傷ついたと認められない。
そういう幼さは、時にかなり不器用で、歪んだ形で外へ出ます。
リクシエルはまさにそのタイプで、だからこそ悪役令嬢に見えました。
ただ、今回書きたかったのは、本人の未熟さだけではありません。
その幼さをうまく扱えなかった周囲、強く見えるからといって平気だと決めつけた空気、未熟なまま立たされた娘にだけ大人であることを求めた構図も、同じように置きたかった話でした。
とはいえ、だから許される、で終わらせたい話でもなかったので、本人の咎も、周囲の咎も、どちらもきちんと線を引く形にしています。
少し苦い話ではありますが、最後にほんの少しでも前を向ける形になっていたら嬉しいです。
読んでくださって、ありがとうございました。




