人喰らいの妖怪の恩返し
――その贄は、おかしな娘だった。
ちょろちょろと流れる小川のほとりにある石造りの祠。その中で我は、ただただ退屈していた。
我を簡単に言い表すならば、妖怪。人間に邪悪として扱われ、祟りを恐れて祠に封じられてから、一体どれほどの時間を底で過ごしていただろう。
やることがなく、何かを喰らいたくとも、妖力が足りないので祠から動くことは叶わない。そんな我の元へ、ひょっこりと顔を覗かせたのが件の娘だ。
空気が凍りつきそうなほどの、極寒の日のことであった。
「はじめまして。妖怪さん、あたし、贄を持ってきました!」
じめじめとした祠にはとても似つかわしくない溌剌とした声に、我はのそりと首をもたげ、娘を見た。
肩上で切り揃えられた漆色の髪。大きな瞳が目立つ、愛らしいと言える類の顔立ち。身に纏うは、てろんとした白い絹の衣が一枚。
「……贄か。お前、食べ頃ではなさそうだな」
我には人間の詳しい歳などわからぬが、成熟とは程遠い、幼子であることは確かであった。白い衣は贄の印。贄ならば、もう少し女の柔らかな部分がなければ旨くない。
贄とはすなわち、人間からの供物。どうにもならない天災やら流行病やらを邪悪たる我の責任にしては、若い女を祠に放り込み、「どうかお鎮まりください」などと宣う。
時たま捧げられるそれが我の馳走となっていた。仮に、贄をたくさん捧げられれば祠を破れるほどの妖力が手に入るに違いないが、現状は生きながらえるのがやっとである。
今回は異常な極寒を収めてほしい故に捧げられたのだろう。我の妖力が及ぶ対象は人間だけなので、気象をどうこうできるわけはないのだが。
久方ぶりの贄だ。ちょうど腹が減って仕方がなかったところだから、多少旨くなくとも我慢してやろう――そんな風に考える我に、娘が笑いかけた。
「贄って、妖怪さんの大好物だって村長に聞いたんだ。でもあたし、考えたんだけど、妖怪さんが何を好きかわかんなくて。だから、あたしが好きなものをあげるね」
娘は我をなんとも思っていないらしい。
贄にされる人間は皆、我を前にして恐怖に泣いたり、気が狂ったように「バケモノめ」と繰り返していた。人間にとって我は畏怖の対象でしかないはずなのに。
けれども、娘の風変わりさは、それだけに留まらなかった。
「…………なんだ、これは」
「メロンパン」
「めろん、ぱん?」
小さな掌に乗せ、娘が差し出してきたものを近寄せる。
見たことのない物体だ。女の胸元に似た半球型をしているが、表面に幾筋かの切れ目があった。
「こんなのを、我への捧げ物だとでもいうのか」
「それ、食べるととっても美味しいの! お父さんがね、村で初めてパン屋さんっていうお店を始めて、そこで売ってるのをわけてもらったんだよ」
娘の話は止まらない。
パンがいかなる代物なのか。そして、従来のあんこ菓子と異なり、メロンパンというものがどれほど特別に甘美なものかということをひたすらに語り出したので、我は呆れるしかなかった。
己が贄にされた事実を理解していないのか。あるいは、理解していて、とぼけているのか。
どちらにせよ娘を食らう気は失せてしまった。
「くだらぬ話はもういい、興が醒めた。食べ頃になってから出直せ」
「メロンパンは食べ頃です! お早めにどうぞ!」
「しつこい」
結局、我はわずかな妖力を振り絞って娘を追い出さなければならなかった。
やかましい娘が消えて、静けさが戻ってきた祠には、メロンパンとやらだけがぽつんと残される。
妖力を使ったせいで空腹感がひどく、仕方なしに食べてみた。……人間の肉とはかけ離れた味をしている。旨くはあるが生臭いそれとは違い、舌がとろけそうなほどにまろやかだ。
なるほど、娘がやたらと絶賛していたのも頷けなくもない。食べ頃ではない贄の娘よりはマシかも知れないと、溜飲を下げてやることにした。
それなのに、である。
「メロンパン、どうだった!?」
翌朝。ゆらりゆらりと微睡んでいた我を叩き起こした贄の娘が、嬉々として訊いてきた。
娘の手には、メロンパンがぎっしりと詰められた籠が一つ。
我は当然ながら「なぜだ」と問い詰めた。
「昨日追い出されちゃったから、贄の儀?が失敗に終わったって村長は言ってね。なんか、妖怪さんに認められなくちゃいけないんだってー。だからあたしは感想を聞きにきたのです!」
「わけがわからん」
「ねぇねぇ、美味しかったでしょ?」
「…………まあ、悪くはない」
「やったぁ!」
娘の目が輝く。
いちいち鬱陶しい奴め。
「言っておくが、認めてはいないからな」
「えー! メロンパン、やっぱり要らないの? せっかくいっぱい持ってきたのに」
「押し付けがましく言うな。持って来いと命じた覚えは微塵もないぞ。……喰らってやらないでもないがな」
我は、娘の籠からメロンパンを取り出した。
その際に娘に触れたが、やはり身を固くする素振りすらない。ただ大人しく我が食べ終えるのを見守っていた。
そして言うのだ。
「認めてくれた?」
いいや、と首を振ると、娘は「そっか」と笑う。
「じゃあ認めてくれるまで、毎日通うね!」
嘘だろうと思いたかったが、本当だった。
三日目、四日目、五日目、一週、ひと月。極寒の冬を超えて、春になっても、「今日の贄を持ってきました」と祠に明るい声が響く。
あまりにもどうかしていた。
「認めてくれた?」
「……いいや」
「そっか」
お決まりになってしまったやり取りのあとは、とりとめのない話をするようになった。
――妖怪さん、都会って知ってる? 都会はね、お城みたいな店がたくさんあって、美味しいものがいっぱい売ってるんだって。メロンパンより美味しいものってあると思う?
――ねぇ聞いて! 昨日、お父さんの仕事を手伝ったの。すごいでしょう。
――メロンパンってメロンが入ってないんだって。そのうち本物のメロン入りのやつを作ってみたいなぁ。
我の知ったことではないけれど、仕方ないので全部聞いてやった。
新鮮だったメロンパンの味に我がすっかり飽きても、娘はずっと祠に通うのをやめない。小さかった娘の背が伸びても、平らだった胸がぷっくり膨れ始める頃になってさえ、だ。
そのうち我は気づいた。気づいてしまった。
己がいつしか、退屈を忘れ去っているという事実に。
◆
我は贄の娘に強く魅せられていた。
この暗い祠の中に、眩い光をもたらした娘。それにどうして惹かれずにいられよう?
娘はもはや幼子ではなく、食べ頃になったけれども、我はいつまでも手を出せずにいる。
なんだかんだ、メロンパンで満ち足りてしまっているというのもあった。あれほど枯渇しきっていた妖力が我の体内に渦巻いている。メロンパンすごい。
簡単に餌付けされたチョロい妖怪だと我ながら思う。それでも良かった。
――だが。
「あたし、お国のために働くことになりました」
ある日顔を見せた娘は、唐突にそう言って頭を下げた。
娘が語るには、村長という人間のところに、余所者がやって来たらしい。
その余所者は国の指令で『神の巫女』を探していた。『神の巫女』は皇の傍にあり、神の声を聞く役割を担っている存在だとか。
一代前の巫女が死に、娘はその代わりになれと求められた。
「あたしにもよくわかんないんだけどね。神聖な力?を身に宿していて、『神の巫女』に相応しいんだって」
娘が神聖な力を宿していると聞いて、我は妙に納得してしまった。
妖怪である我を恐れることがなかったのは、その所為なのではなかろうか。たとえ幼子だとしても普通の人間が妖怪の前で平気な顔をしていられるなどおかしいと思っていたのだ。
「お国のためになれるのは光栄なことだから行きなさいってお父さんも言ってた。贄の役割よりはずっとマシだろうって。あたしは妖怪さんと話すの、好きなんだけどな」
「……そうか」
「妖怪さんごめんね。もう贄は運んであげられないや」
「だから今日はどっさり持ってきたんだ」と、メロンパン盛りだくさんの籠を五つほど我に差し出す娘。
人間ならば食べ切れない量だろうが、我ならばすぐに喰らい切ってしまう。そのあとは……もう、メロンパンを目にする機会は訪れないかも知れない。
贄のくせに、なんという勝手なのだ。
「認めない。お前は我の、我だけの贄だ」
「そっか」
少し、ほんの少し、寂しそうな顔をして――娘はそれでも去って行く。
その背中を見つめながら、娘を選んだ神を恨まずにはいられなかった。
――――それから、幾年が過ぎただろうか。
懐かさすら感じるつまらない毎日を過ごしながら、我はずっと外の世界をぼんやりと眺めてていた。
溜め込んだ妖力のおかげで、容易く遠くを視られるようになっていた。見つめる先は、もっぱら贄の娘だ。
巫女となった娘は、歓迎されていなかった。
なぜなら神の声が聞こえないから。
これはもしかすると我の力が悪影響を及ぼしている可能性がある。長い期間妖怪と触れ合ってしまった弊害で、神聖な力を持っているのに神と波長が合わない……とか、そんなところだと我は推測している。
無能。無価値。皇とお近づきになりたい一心で己を偽った愚か者。
そう呼ばれ、貶められてもなお、笑顔を崩さない理由が我には理解不能である。
娘を求めたのは余所者であり、娘が悪いことなど何一つないのに。
「村のメロンパンが食べたいなぁ。都会の食べ物って意外と味気なくて、つまんないの」
嫌がらせだろうか。どう考えても味気ないどころではない腐った飯を振る舞われても、そんな風に呟くだけだった。
それを視ている我はというと、憤りのあまりのたうち回ったが。
それだけならまだ良かった。
一番許せないのは皇だ。
娘に粘ついた視線を送る。にたにたと気持ちの悪い表情で「哀れよな」と見下す。些細な失敗をあげつらい、ことあるごとに娘を傍に置き続ける自らの寛大さを説いた。
はっきり言って糞野郎である。
糞野郎はやがて、失敗の代償を欲し始める。
土下座。誠意が足りないと言ってタダ働きさせ、挙げ句の果ては、娘の体が狙われた。
「……っ、何をなさるのですか」
薄暗い寝間にて、押し倒された娘がきょとんと糞野郎を見上げた。
無垢な娘は思わないのだろう。まさか、妖怪でも何でもない人間の男に、喰らわれようとしているなど。
「余のものにする。余に屈し、余にその全てを味わせろ」
「あたし、美味しくないです!」
巫女衣装が破られる。
顕になるは柔らかな胸元だ。旨そうである。以前の我なら躊躇いなく貪っていただろうと思えるくらい、瑞々しく美しい。
「やだ。やだっ。こわい……やめてください……!」
娘の愛らしい顔が歪んだ。円い双眸からつぅぅ、と涙がこぼれ落ち、頬を伝う。
それは我が初めて見る娘の泣き顔だった。決して我には見せなかった涙を、娘は糞野郎の前で晒しているのだ。
その事実に、どうしようもないほど腹が立つ。
そして同時に思った。我が贄を、糞野郎などに与えてなるものかと。
じめじめした祠の中でいた我に光を与えてくれた娘に、恩を返してやろうではないかと。
だから、我は。
祠がぼろぼろと音を立てて崩れる。
破ろうと思えばとっくに出られたのだ。ただ、ひとたび出てしまえば力を使い果たしてしまうに違いないから、そうしなかっただけで。
だが、それでも、迷いはなかった。
娘の元まで赴き、その体にそっと触れた。
娘は小さく目を見開いたが、抵抗は感じられない。抵抗があれば無理に憑依しなければならないところだったが、その必要はないらしい。
遠慮なく彼女の中にするりと入り込んだ。
『あとは任せて、大人しく眠っておけ』
「妖怪、さん?」
『我がたっぷりと思い知らせてやる』
安心したように頬の力を抜く娘。
すぐに娘の意識が遠のいていった。
娘の体を動かしてみる。
すんなり手足が持ち上がった。ついでに、のしかかっていた糞野郎を勢いよく引き剥がす。
反撃されると思っていなかったのか、男は吹っ飛び、大袈裟によろめいた。
「ぐっ。余に抗おうというのか、小娘が!」
「若造風情が偉そうな口をきくな。この娘を何者と心得ている。何人たりとも穢す資格はない」
「……!?」
娘に強い妖力を纏わせ、糞野郎へ向かって微笑みかければ、それだけで勝敗は着く。
妖力にあてられて声と身動きを封じられた糞野郎に一歩、また一歩と近づいて――。
パチン。
パチン。パチン。パチン。パチン。パチン。パチン。パチン。パチン。
何度も何度も頬を叩いた。じっくりと痛みを刻みつけるように。逃れようにも逃れられない恐怖を味わせるために。
いっそ殺してしまおうかと思ったが、その価値もないだろう。故に、ただ心を折ることにしたのだ。
蹂躙しようとしていた娘に好き放題にされる。それはきっと、この糞野郎にとってはとんでもない屈辱に違いない。まったくくだらないが。
何も叫べず、苦しみ悶えることすら叶わないまま、糞野郎は静かに静かに壊れていった。
日が昇り、我が娘の身から離れて妖力の効果が失せても、生まれたての鹿のごとく震えるばかりの糞野郎の滑稽さといったら。
そのあと糞野郎が姿を見せることは二度となかった。
◆
「妖怪さん、贄のお届けです!」
軽い足音と共に娘が祠を訪れたのは、十日後のこと。
巫女衣装ではなく白い絹の衣を纏った彼女を目にするのはいつぶりなのか。表情は明るく、皇の前で涙を流していたのが嘘のようだった。
「『もう贄は運んであげられない』のではなかったのか」
「まさか、また妖怪さんに贄を運ぶことになるとは思わなかったよ。あ、メロンパンどうぞ!」
今日のはうちで作ったやつじゃなくて都会で買ってきたんだ、とニコニコしながら、メロンパンを差し出す娘。
あまりにいつも通りだ。我もいつも通りに受け取り、空きっ腹に詰め込む。
「……なるほど」
甘さが足りないし、焦がしているのか色が黒い。形も綺麗な円形ではなく楕円だった。
慣れ親しんだ味の方が我は好ましいが、戻ってきて早々駆けつけた心がけに免じて、特別に許してやろう。
娘は皇宮を追放された。
我が憑依したせいだろうか。娘の中にあったはずの神聖な力が消え失せ、『神の巫女』ではなくなった。
元々役立たず扱いだったせいで惜しむ者は誰もおらず、むしろ娘を虐げた連中は「せいせいする」と喜んでいた。置き土産がてら死ぬまで悪夢しか見られないよう祟ってやったのも知らないで、呑気なことだ。
そんなこんなありつつ、娘は無事に帰還した。そして今に至る。
皇宮での暮らしについて。
追放されてから、憧れだった都会を歩いたこと。
都会のおしゃれなパン屋のパンは冗談のように高値で、やはり実家のパン屋が一番だという感想。
妖力の枯渇でこの十日間は娘の動向を追えていなかったので、知らない話ばかりだった。
ひとしきり語り尽くしてから、「じゃあ」と娘が立ち上がる。
もう帰るらしい。くるりと踵を返し、しかし、すぐに首だけ振り向いた。
「ねぇ、妖怪さん。一つ聞いていい?」
娘のまっすぐな瞳が我を射抜く。
「どうしてあの夜、助けてくれたの」
どうして、か。
直接告げるのはなんだか気恥ずかしい気がしたが、娘の体を借りたことだし、答えなければなるまい。
「お前の捧げ物を――いいや、お前を気に入ったからだ」
「ほんと!? やっと認めてくれたんだね。妖怪さん大好き!」
「おい待て。気に入っただけで認めてはいないから勘違いするな」
「そっか」
ありがとう、と一際綺麗に微笑む娘。
その姿を見られただけで、恩を返してやった甲斐があったと思った。
この時の我はまだ考えもしていなかったのである。
――危機を救われた際に恋心が芽生えてしまったなどと宣って、この翌日からグイグイと迫ってくるなんて。
――娘の柔らかな体を、憑依までして貞操を守ってやった体を、飢餓を満たすのとは別の意味で喰らうことになってしまうなんて。