第8話 社交界にあらわれた女神
日曜礼拝後の社交サロン。
陽光が降り注ぐ大広間に、貴族たちの笑い声が響いていた。
その中へ、ひとりの女性が足を踏み入れる。
スラリと伸びた脚、ピンと張った背筋、腰にフィットするドレスのライン。
揺れるミルクティーブラウンの長い髪が、光を弾いてきらめいた。
――彼女の後ろ姿だけで、場の空気が変わった。
「……誰? あの方」
「見たことないわ……でも、なんて綺麗な後ろ姿……!」
貴族令嬢たちが口元を押さえ、息を呑む。
どよめく空気の中、彼女がゆっくりと振り返る。
白く透き通る肌、長く濃い睫毛、艶やかなピンクの唇。
そして、ぱっちりとした大きな瞳が周囲を見渡す。
「――アメリア様……!?」
その名が口々に漏れた瞬間、広間は静まり返った。
アメリア・ヴァレンティナ。
かつて侯爵令嬢として「美しい」と名を知られたその少女は、今――まるで女神のように輝いていた。
* * *
変わったのは、外見だけではない。
体を鍛え、食生活を見直し、自分と向き合い続けた三ヶ月。
自信を持った笑顔が、彼女を“女神のような美人”に変えていた。
胸元はふっくらと張り、ウエストは絞られ、ヒップラインは美しく引き締まっている。
動くたび、全身が洗練された美のラインを描く。
だが一番の変化は、彼女が“自分に自信を持って立っている”ことだった。
笑顔には迷いがなく、視線には誇りがあった。
――そんな彼女の姿を、誰よりも目を奪われて見つめていた男がいた。
* * *
会場の隅、アメリアの元婚約者のユリウスは、一歩も動けずにいた。
(……アメリア)
視界に入った瞬間、胸の奥がざわめいた。
(こんなにも……綺麗だったか……?)
いや、もともと美しかったはずだ。
でも今は、何もかもが違って見えた。
堂々としたその姿。
誰の隣にもいないのに、誰よりも輝いて見えるその背中。
(まるで……)
(もう俺の知らない場所で、生きているみたいだ)
その思いが、胸に痛みを残す。
(君を諦めたいのに)
(どうして……こうも惹かれてしまうんだ)
だが、その手を伸ばす資格は、もう自分には――ない。
* * *
「ユリウス様?」
やわらかな声が耳元でささやかれる。
振り返ると、紫のドレスを纏ったエリシア・グレイスベルが、彼の腕にぴたりと寄り添っていた。
「アメリア様……見違えるほどですね。でも、遅かったわ」
微笑みながら、意地悪な言葉を投げかける。
「ユリウス様は、もう私の隣にいるんですもの。……ね?」
そう言って彼女は、わざとアメリアの方を向き、声を張った。
「来月には婚約発表もございますの。ユリウス様も、楽しみにしてくださっていますよね?」
ユリウスは答えなかった。
アメリアは、その言葉を確かに聞いていた。
そして――ゆっくりと、目を伏せる。
(……そうだよね)
(もう、ユリウス様は私を見ていない)
(私が変わっても、美しくなっても、隣にいるのは――彼女なんだ)
胸が、きゅっと締めつけられる。
(どうして……)
(こんなに痛むの?)
もうとっくに終わったはずの関係。
婚約解消を願ったのは、他でもない自分だった。
それなのに。
(……私、ユリウス様が好きだったんだ)
ようやく気づいた想いは、もう届けることさえできない。
(今さら、取り戻せるわけない)
(彼はもう、エリシア様のものなんだから)
誰にも悟られないように、微笑む。
そして、そっと背を向けて――歩き出した。
振り返らなかった。
もしも、ユリウス様がこちらを見ていなかったら。
――その現実に、きっと、私は耐えられないから。