第9話 揺れる心
社交サロンの奥、バラが咲き誇る中庭のテラス。
私はひとり、冷めかけた紅茶を手にしていた。
さっきまでの華やかな空気が嘘のように、ここは静かだった。
(ユリウス様は……もう私を見ていない)
エリシア様の隣に立ち、微笑む彼の姿が、何度も脳裏をよぎる。
自然な距離感。言葉を交わすたびに浮かぶ柔らかな笑顔。
ああ、もう私の居場所は――あそこにはない。
何度もわかろうとした。何度も、覚悟したはずだった。
けれど、胸の奥が痛むのはどうしてなのか、まだ答えは出せずにいた。
――その時。
「……こんなところにいたんだね」
柔らかく、でも芯のある声がした。
顔を上げると、夕陽に照らされた影が一つ。
セイラン第二王子が、私の前に立っていた。
「みんな君を探してたよ。でも……僕はなんとなく、君がここにいる気がしてた」
彼は、いつものように静かに、隣の椅子に腰を下ろす。
「アメリア。今日の君、とても綺麗だった。堂々としてて、でも、どこか寂しそうだった」
私は紅茶を見つめながら、かすかに笑った。
「ありがとう。でも、綺麗に着飾っても……心までは隠せないのね」
「それでも、君は笑っていた。それが、僕にはすごいことに思えたよ」
彼の声は穏やかで、風のようだった。
「……ユリウス様が、彼女の隣にいるのを見て、やっぱりダメだった。自分で解消した婚約なのに、まだ引きずってる自分が情けない」
「情けなくなんかない。人を好きになるって、簡単じゃないから」
「……私、本当にバカだったの。見た目だけで判断して、彼を避けて……何も見ようとしなかった」
気づいたときには、涙がこぼれそうになっていた。
なのに、その時、彼が言った。
「……僕は、ずっと君が好きだった」
――心臓が跳ねた。
「え……?」
「初めて会った時から。ずっと。ユリウスの隣に君がいても、君が彼と結婚する予定でも、変わらなかった」
セイランの声は静かで、でもひとつひとつの言葉がまっすぐだった。
「僕は、君を見てた。努力して、傷ついて、それでも笑ってる君を、ずっと」
その視線が真っ直ぐ私を射抜いてくる。
まるで、私の心の奥を見透かしているみたいに。
「……でも、すぐには返事できない。ごめんなさい」
私は唇を震わせながら、かすれる声で答えた。
「だって……まだ、私……ユリウス様のことが、好きだから……」
正直に打ち明けるのは怖かった。
けれど、彼の前では、なぜか嘘がつけなかった。
でも、セイランはすぐに、ふっと柔らかく笑った。
「……返事は、いつでもいいよ」
「え……?」
「僕は第二王子で、王太子じゃない。王位も継がないし、婚姻について誰にも強いられない立場にいる。結婚はしても、しなくてもいいって、ずっと言われてるから」
その笑顔は、私の痛みに寄り添うようだった。
「だから、もし君に出会わなければ――僕は、ずっと独身でいようと思ってた。誰かのために生きることなんて、必要ないって思ってた。でも、今は違う」
彼は静かに言葉を重ねる。
「君と出会って、好きになって、今こうして君の隣に座ってる。……それだけで、もう十分なんだ。君の気持ちが向かなくても、想いが届かなくても――僕は後悔しない」
「……そんなの、ずるいよ」
「うん、ずるいかも。でも、君の“今”を全部知ったうえで、僕は君が好きなんだ」
――その声に、胸の奥がじんと熱くなった。
夕暮れの風が、バラの香りを運んでくる。
ひとりではもう、抱えきれなかった痛みが、少しだけ軽くなった気がした。




