中世にお茶会なんてない
以前、興味深いツイートをX(旧Twitter)で見かけた。
大まかに書くと「中世ヨーロッパのお茶会を描写したいなら、きちんと調べないとリアルにならない。」というものだった。
そこにすかさず「中世ヨーロッパにお茶会なんてない」、「紅茶は17世紀以降に伝わったもの」という突っ込みが入る。
どうやらこのお茶会のツイ主は、大手小説サイトのエッセイで「お茶会の描写をするなら、中世ヨーロッパのお茶会についてきちんと調べよう。」という記述を見つけ、鵜呑みにしてしまったようである。
……自分で調べようとは思わなかったのだろうか?
「お茶会 歴史」でググれば分かる程度の話だろう。
というか、高校の世界史で「三角貿易」について習わなかっただろうか。
そもそも「中世」の定義からしておかしい。
「中世」とは、5~15世紀の約1000年間の歴史を指す。
いわゆる「ナーロッパ」作品を読んでいると、ディテールは16~17世紀以降の「近世」に近い描写が目立つ。
特に衣装や家具などがそうで、家具とドレスはロココ調でお茶会があり、メイドや執事に関して言えば18~19世紀くらいの衣装であることが多い。
なので、ある程度の知識がある人からすれば、違和感がありすぎる。
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さて、最近気になる別の傾向として、大正ロマン風の「ざまあ」系。
容姿や才覚が優れたものでないから、という理由で家族から虐げられていたヒロインが、ひょんな事からハイスペックな男性と結婚して立場逆転!という内容が多い。
気になるのは、家族からの虐待である。
大正時代の虐待に対する認識というのは、意外と厳しい。
大まかに調べたところによると、大正デモクラシーの流れで、人権・自由主義思想が拡大、民衆運動や女性解放運動が活発化すると共に、虐待や家庭内暴力への世間の目は、現代並みに厳しかったらしい。
もちろん「家庭内の恥は外に出さない」空気はあったようだが、都市部やある程度の知識層になるほど、通報や噂、世間の目は無視できない。
よって、「姉/妹だけがボロを纏い、どちらが煌びやかに着飾っている」という光景を他所様に見られるのは、非常に良くない。
特に、名家であれば悪評に繋がる可能性が高い。
ヒロインを苛め抜くには、外面だけ良くして巧妙に隠す、くらいがリアルじゃないか、と個人的には思ってしまう。
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こういう事をネチネチと言っていると、「細かい事言うなよ!ファンタジーなんだから!夢の世界なんだから自由だ!」と言われる事だろう。
しかし、たとえ“ファンタジー”であっても、世界の骨組みに説得力がなければ、その物語は読者を引き込めない。
中途半端にリアリティのあるものだけツギハギして、手垢の着きまくったテンプレをトレスしただけのファンタジーは、世界の地盤がしっかりしていないから、矛盾だらけで、どこか薄っぺらく感じてしまう。
そういう作品の惰弱さをすぐに見つけ、見限ってしまう読者がいる事もまた事実だと思う。
結局、テンプレの焼き直しではなく、作り手の誠意や工夫が物語を支えるのだ。
読者もバカではない。
テンプレに依存せず、物語や世界観の骨組みを強化するために、作り手が研鑽する事も、また大事だと私は思う。