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銀翼のリリと暁の嬰児  作者: くだきつね
風、始まりを告げる場所
5/5

5.小さな足跡、遠いざわめき

洞窟の中に、新たな音が加わった。それは、小さな手足が柔らかな苔の上を擦る音、そして時折響く、転んだ拍子の「あう!」という短い悲鳴。ユーは、驚くべき速さで行動範囲を広げていた。ハイハイと呼ばれるその移動方法は、当初こそぎこちなかったものの、今ではリリが少し目を離した隙に、洞窟の隅から隅まで探検するほどになっていた。


「もー、ユーったら! そっちはダメだって言ってるでしょ!」


リリは、壁際の少し不安定な岩棚に手を伸ばそうとするユーを、ひょいと抱き上げた。ユーは、捕まえられたことに抗議するかのように、足をばたつかせながら「あー! あー!」と声を上げる。その声には、明確な不満の色が乗っていた。


言葉の発達も目覚ましい。最初に覚えた「リリ」という響きは、今でははっきりと彼女を呼ぶときに使われるようになった。それだけでなく、リリが食事の準備をする際に「まんま、まんま」と催促するような音を発したり、洞窟の外を指差して「あっち、あっち」と訴えたりすることも増えてきた。もちろん、それらが正確な意味を持つ言葉なのかは定か分からない。だが、ユーが自身の意志を伝えようとしていることは、リリにもはっきりと理解できた。


「はいはい、まんまね。ちょっと待ってて」


リリは微笑みながら、いつものように木の実をすり潰し始めた。しかし、その表情には、わずかな曇りも浮かんでいた。ユーの成長は喜ばしい。だが、成長するにつれて、必要な栄養も増えてくるはずだ。いつまでも木の実のペーストだけで足りるのだろうか。人間の子供は、もっと多様なものを食べるのではないか。祖母の物語では、肉や魚、穀物といったものが出てきた記憶がある。


(お肉……)


リリは、森で狩りをすることを考えた。彼女自身は竜であり、生の獲物を食することに抵抗はない。だが、ユーにそれを与えるわけにはいかないだろう。火を使って調理する必要がある。そして何より、狩りの間、ユーを一人で洞窟に残していくことは、考えただけでも身がすくむ思いだった。この前感じた、あの不穏な気配。あれ以来、リリは洞窟から長時間離れることを極力避けていた。


「うーん……そうだ!」


リリは何かを思いついたように、手をぽんと打った。彼女は洞窟の一角、陽光がわずかに差し込む場所に、土を寄せ集め、小さな畑のようなものを作り始めた。そこに、栄養がありそうな植物の種や、根の一部を植えていく。


「見ててね、ユー。リリが、美味しいもの、育ててあげるから!」


彼女は手のひらを土にかざし、光竜の力を注ぎ込んだ。淡い光が降り注ぐと、植えられた種や根が、かすかに振動する。植物の成長を促進する力。これを応用すれば、洞窟の中でも、栄養価の高い作物を育てられるかもしれない。リリは、そんな期待を抱いていた。


しかし、現実はそう甘くはない。数日後、芽を出した植物は、どれもひょろりとしていたり、奇妙な形に歪んでいたりした。味見をしてみると、苦かったり、筋っぽかったりして、とてもユーに与えられるようなものではない。


「あれぇ……? おかしいなあ……光、足りなかったかな?」


リリは首を傾げ、しょんぼりと肩を落とした。傍らでその様子を見ていたユーは、リリの足元に落ちていた、実験に使われたらしい奇妙な形の根っこを拾い上げ、彼女に差し出した。まるで、「元気出して」とでも言うかのように。


「……ユー」


リリは、その小さな手に乗せられた根っこを見て、思わず笑ってしまった。失敗はしたが、ユーの優しさが心に沁みる。


「ありがとう、ユー。優しいね。大丈夫、リリ、また頑張るから!」


彼女はユーを抱き上げ、頬ずりをした。ユーは、きゃっきゃと声を上げて喜んだ。


ユーの知性は、こうした行動の端々にも現れていた。リリが何か物を落とすと、ハイハイで近寄って拾い、渡そうとする。リリが「ちょうだい」と手を差し出すと、持っているものを差し出す(もちろん、気に入っているものは離さないことも多いが)。簡単なジェスチャーや表情から、リリの意図を読み取ろうとしているのが分かった。


(やっぱり、ユーはただの赤ん坊じゃない)


リリは、確信に近い思いを抱いていた。時折見せる、大人びたような、何かを深く考えているような表情。そして、驚くほどの学習能力。この子がどこから来て、何者なのか、その謎は深まるばかりだった。だが、今はその出自よりも、目の前のユーを慈しみ、育てることの方が重要だった。


一方で、リリの心の中の不安の影は、ゆっくりと、しかし確実に濃くなっていた。洞窟の周辺で感じる、人間の気配。それは、以前よりも頻繁に、そして明確になってきている。一度だけ、遠くの木々の間に、人影のようなものが動くのを垣間見た気がした。すぐに姿を消したが、気のせいではなかったはずだ。


彼らは何者なのか? この森に何の用があるのか? そして、自分たちの存在に気づいているのだろうか?


リリは、洞窟の入り口周辺に、光の魔法を使った簡単なカモフラージュを施した。特定の角度から見ると、入り口がただの岩壁に見えるように、光の屈折を操るのだ。完全なものではないが、気休めにはなるだろう。さらに、誰かが近づけば微かな光で知らせる、単純な警戒用の魔法も設置した。それは、祖母から教わった古い護身術の一つだった。


その日のリリの日記には、ユーの成長への喜びと共に、切迫した警戒心が記されていた。


『ユー、ハイハイがすごく上手になった。どこへでも行ってしまうから、目が離せない。言葉もたくさん真似する。「まんま」と「あっち」がお気に入りみたい。』


『食べ物のこと、悩ましい。わたしの光魔法、植物育成は苦手みたい……しょんぼり。でも、ユーが慰めてくれた(気がする!)。あの子の優しさに救われる。』


『今日、森の中でまた人の気配を感じた。前よりも近く、はっきりと。ただの迷い人ではない気がする。何か、目的を持っているような……。洞窟に簡単な目くらましをかけたけど、どれだけ効果があるか。』


『ユーを守るためなら、わたしは何だってする。でも、もし、本当に危険が迫ったら……わたし一人で、この子を守りきれるだろうか。不安が消えない。』


『それでも、ユーの寝顔を見ると、勇気が湧いてくる。この子の未来のために、わたしは強くならなければ。逃げるのではなく、立ち向かう強さを。』


洞窟の中に響くのは、ユーの穏やかな寝息と、リリが刻む石の音。二人の世界は、まだかろうじて静寂と平穏を保っている。だが、その外側では、得体の知れないざわめきが近づいてきている。小さな足跡が刻む日常と、遠くで響き始める不協和音。エルドラの森の奥深く、運命の歯車は、ゆっくりと回り始めていた。

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