4.響きを探して
季節が緑の深さをわずかに変え、森を渡る風の匂いが移ろう頃には、ユーは洞窟の中を小さな冒険の場とするようになっていた。まだ覚束ない動きではあるが、両手両足を使って、柔らかな苔の上をずりずりと移動する。その姿は、リリの目には微笑ましくも、目が離せないものとして映っていた。
「こら、ユー。そっちは危ないよ」
洞窟の壁際、少し尖った岩がある場所へ向かおうとするユーを、リリは慌てて抱き上げる。ユーは、きゃっきゃと無邪気な声を上げた。その声は以前よりも力強くなり、感情の起伏を表すかのように、様々な音色を響かせるようになっていた。
リリの育児も、最初の頃の戸惑いばかりではなくなっていた。ユーが何を求めているのか、泣き声の調子や仕草で、ある程度察することができるようになったのだ。空腹、眠気、不快感、そして、構ってほしいという甘え。そのサインに応えることに、リリは喜びを感じ始めていた。
特に、リリが話しかける言葉や、時折口ずさむ古い竜の歌に、ユーが耳を澄ませていることに気づいてからは、彼女は意識してユーに語りかける時間を増やしていた。
「これはね、キノコ。赤いけど、毒はないの。美味しいんだよ」
「風の音、聞こえる? 今日は少し強いみたい」
言葉の意味はまだ理解できないだろう。それでも、ユーはリリの顔をじっと見上げ、彼女の唇の動きや声の響きを、まるで何かを吸収するかのように熱心に観察していた。そして、時折、リリの言葉尻を真似るかのように、「あー」「うー」といった音に混じって、「きー」「かー」といった、よりはっきりとした子音に近い音を発するようになった。
(言葉を、覚えようとしているのかな……?)
リリは、その小さな変化に胸を高鳴らせた。人間とは違う、竜である自分が発する言葉を、この小さな存在が懸命に捉えようとしている。その事実に、種族を超えた繋がりを感じずにはいられなかった。
ある日、リリは石板に日記を刻む代わりに、ユーの前にそれを置いてみた。そして、黒曜石の欠片で、簡単な竜文字をいくつか描いて見せた。それは、彼女が最初に覚えた文字――「太陽」「水」「木」といった、自然を表すシンプルな図形文字だ。
「これは、おひさま。キラキラの」
「これは、おみず。ちゃぷちゃぷ」
「これは、き。おっきいの」
リリは、文字とそれが示すものを、身振り手振りを交えながら、ゆっくりとユーに伝えた。ユーは、石板に描かれた模様に、強い興味を示した。小さな指で、カリカリと刻まれた線をなぞろうとする。その瞳には、いつもの理知的な光が宿っていた。
(文字……記号……)
悠の意識の中で、忘れかけていた知識の断片が刺激される。前世で当たり前に使っていた文字やコード。それらと同じ、「意味を持つ図形」が目の前にある。この世界の文字体系。それを理解できれば、コミュニケーションの質は格段に向上するだろう。そして、あの壁画の謎にも近づけるかもしれない。
ユーは、リリが描いた「木」の文字を指差し、自分も何かを伝えようとするかのように、「き、き」と繰り返した。
「そう! き! ユー、すごい! わかったの?」
リリは、思わずユーを抱きしめた。もちろん、ユーが本当に文字の意味を理解したわけではないだろう。ただ、音を真似ただけかもしれない。それでも、リリにとっては大きな一歩に思えた。
そして、その夜のことだった。リリが、いつものようにユーを寝かしつけようと、優しい声で呼びかけていた時。
「さあ、ユー、ねんねの時間だよ……」
すると、ユーは眠そうな目をこすりながら、リリの顔を見上げ、おぼつかないながらも、はっきりとした音を発したのだ。
「り……り……」
それは、間違いなく、リリの名前を呼ぼうとしている響きだった。
リリは息を飲んだ。心臓が、喜びと驚きで大きく跳ねる。
「……! ユー、今……わたしのこと、呼んだ?」
もう一度、と促すように、リリはユーの顔を覗き込む。ユーは、ふにゃり、と笑うような表情を見せ、再び「りり」と呟いた。
「……呼んでくれた……!」
リリの瞳から、ぽろり、と涙が零れ落ちた。それは、悲しみの涙ではない。温かく、満たされた感情が、雫となって溢れ出したのだ。拾った時には、こんな日が来るなんて想像もできなかった。言葉が通じない、異種族の赤ん坊。それが今、自分を認識し、名前を呼んでくれた。ただそれだけのことが、リリの世界を輝かせた。
リリは、愛おしさが込み上げるままに、ユーを優しく抱きしめた。ユーは、リリの腕の中で、安心したようにすぐに寝息を立て始めた。
しかし、その幸福感のさなか、リリはふと、洞窟の外の気配に意識を向けた。昼間、森の少し離れた場所で感じた、微かな違和感。それは、獣のものでも、森の精霊たちのものでもない、もっと人工的で、統制されたような……魔力の残滓。気のせいだったのかもしれない。だが、ユーという守るべき存在ができてから、リリの警戒心は以前よりもずっと鋭敏になっていた。
(大丈夫。わたしが、絶対に守る)
リリは、眠るユーの額にそっと口づけをした。そして、決意を新たにする。この小さな光を守り抜くために、自分はもっと強くならなければならない、と。
その夜のリリの日記には、喜びの言葉と共に、かすかな不安も記されていた。
『ユーが、わたしの名前を呼んでくれた! 「リリ」って! 感動して、涙が止まらなかった。こんなに嬉しい気持ちは、初めてかもしれない。』
『竜文字にも興味を示しているみたい。簡単な図形なら、少しずつ教えていけるかな。いつか、ちゃんとお話できる日が来るのが楽しみ。』
『昼間、森の向こうに妙な気配を感じた。人間の魔力……? まさかね。でも、油断はできない。ユーのためにも、もっと警戒しないと。』
『ユーとの絆が深まるほど、この子を失うのが怖くなる。わたしは、この子をちゃんと守れるだろうか。強くならなきゃ。もっと、もっと。』
言葉にならない響きが、初めて意味を持つ音になった夜。銀翼の竜と秘密を抱く赤子の間には、また一つ、確かな絆の糸が紡がれた。しかし、穏やかな洞窟の外の世界は、静かに、だが確実に動き始めている。その変化の足音は、まだ遠く、小さいけれど、確かに存在していた。響きを探す小さな声と、それを聞き取る優しい耳。二人の時間は、ゆっくりと、しかし確実に未来へと流れていく。