3.小さな発見と、揺れる木々の向こう
陽光が洞窟の奥まで届く時間は限られている。その貴重な光の中で、ユー――相川悠は、ゆっくりと世界を認識し始めていた。視界は以前よりも鮮明になり、耳に入る音も、単なるノイズではなく、意味を持つ響きとして捉えられる瞬間が増えてきた。
特に、リリの声。
「ユー、起きた? お腹すいた?」
柔らかく、どこか弾むような響き。彼女が自分を呼ぶときに使う「ユー」という音は、すでに特別な意味を持って悠の意識に刻み込まれていた。その声が聞こえると、自然とそちらに顔が向く。
(認識されている、という事実は重要だ)
悠は、赤ん坊の身体でできる最大限の反応として、リリの方を見て、あー、うー、と意味のない声を発した。それだけで、リリはぱあっと顔を輝かせる。
「なあに? やっぱりお腹すいたのね!」
どうやら空腹だと解釈されたらしい。まあ、それも間違いではない。赤ん坊の身体は常にエネルギーを欲している。悠は、差し出された温かい木の実のペーストを、以前よりもしっかりとした口取りで受け入れた。味は……相変わらず微妙だが、生きるためには必要だ。そして、リリが自分のために一生懸命準備してくれているという事実が、不味さをいくらか緩和してくれるような気もした。
リリの育児は、まさに試行錯誤の連続だった。人間の赤ん坊に関する知識は、祖母から聞いた断片的な物語と、彼女自身の観察と推測だけが頼りだ。
「ユー、これ、食べられるかな?」
ある日、リリは森で様々な種類の木の実や、柔らかそうな植物の根などを集めてきた。一つ一つ、ユーの前に差し出して反応を見る。ユー(悠)は、匂いや見た目、そして前世の知識の断片(毒草に関する曖昧な記憶など)を総動員して、口にできそうなものを選んでいく。甘い香りのする赤い実、柔らかくて水分の多そうな白い根。明らかに苦そうな匂いのする葉や、見るからに固そうな実は、顔をしかめたり、そっぽを向いたりして拒否した。
「むぅ……ユーは好き嫌いが多いなぁ。でも、食べられないものをちゃんと分かってるみたい。えらい、えらい」
リリは、ユーが選んだものを丁寧にすり潰し、ペーストに混ぜてくれた。少しだけ、食事の内容が改善された瞬間だった。悠は内心でガッツポーズをとった。非言語コミュニケーションによる要求の実現、フェーズ2クリア、といったところか。
食事の時間が終わると、次は遊びの時間、らしい。リリは、どうやらユーが退屈しているのではないかと考えているようだった。彼女なりの「あやし方」は、少々独特だ。
キラキラと輝く光の玉を手のひらから生み出し、洞窟の中をゆっくりと飛ばしてみせる。それはまるで、意志を持っているかのように飛び回り、時折ユーの目の前で弾けて、小さな光の粒子を振りまいた。ユーは、その光景に素直に見入った。魔法という非現実的な現象が、日常の風景としてここにある。その事実に、改めて異世界に来たのだと実感させられる。
またある時は、リリは自身の鱗を一枚、そっと剥がしてユーの前に置いた。銀色に輝く、手のひらほどの大きさの鱗。ひんやりとして滑らかな感触が、小さな手に心地よい。
「これは、わたしの鱗。お守りみたいなものだよ」
言葉の意味は分からないが、彼女の優しい声色と表情から、何か大切なものを与えてくれているのだということは伝わってきた。ユーは、その鱗をぎゅっと握りしめた。
リリは、時折、洞窟の壁に描かれた古い壁画をじっと見つめていることがあった。線刻された竜の姿や、不可思議な幾何学模様。それは、リリの一族の歴史か、あるいはこの世界の秘密に関わる何かを示しているのかもしれない。悠も、その壁画に興味を引かれた。特に、複雑なパターンを描く模様は、前世で扱っていたシステム構造図やアルゴリズムを連想させた。
(あれは、単なる装飾じゃない……何らかの情報をコード化したもの、あるいは魔法的な意味を持つ図形か?)
赤ん坊の脳では複雑な解析はできないが、そのパターンを目に焼き付けておく。いつか、この世界の理を理解する手がかりになるかもしれない。
そんなある日、少しだけ洞窟の外の空気に触れさせてくれることになった。リリはユーを慎重に抱き上げ、洞窟の入り口から数歩だけ外に出た。
森の空気は、洞窟の中とは比べ物にならないほど濃密で、生命の匂いに満ちていた。木々の葉が太陽の光を浴びて輝き、風が肌を撫でる感覚が新鮮だった。ユーは、赤ん坊の本能として、目に入るもの、聞こえる音、感じる匂い、そのすべてを吸収しようと感覚を研ぎ澄ませた。
リリは、ユーを抱いたまま、近くの巨木の根元に腰を下ろした。
「外は気持ちいいね、ユー。でも、あんまり遠くへは行けないんだ。危ないから」
彼女は、周囲を警戒するように、絶えず視線を動かしている。その緊張感が、悠にも伝わってきた。この森は、決して安全な場所ではないのだ。
不意に、リリの表情が険しくなった。彼女の耳がぴくりと動き、鼻がひくつく。
「……!」
リリは素早く立ち上がり、ユーを胸に抱きしめると、音もなく洞窟の中へと駆け戻った。そして、入り口に向かって手のひらをかざす。淡い光の膜が、一瞬だけ洞窟の入り口を覆い、すぐに消えた。結界のようなものだろうか。
「しーっ……静かにしててね、ユー」
リリは囁き、洞窟の奥の暗がりへと身を潜めた。悠も、状況が尋常でないことを察し、泣きもせずにじっとしていた。
しばらくすると、洞窟の外から、低い唸り声と、地面を踏みしめる重い足音が聞こえてきた。それは、リリよりもずっと大きく、獰猛な獣の気配だった。足音は、洞窟の前を何度か行き来し、やがて遠ざかっていった。
リリは、足音が完全に聞こえなくなるまで、じっと息を潜めていた。そして、ようやく安堵の息をつくと、抱きしめていたユーの顔を覗き込んだ。
「……怖かったね。ごめんね。でも、大丈夫だったよ」
ユーは、リリの胸の中で、彼女の鼓動がまだ少し速いのを感じていた。彼女もまた、恐怖を感じていたのだ。それでも、自分を守ろうとしてくれた。その事実が、言葉以上に強く、悠の心に響いた。
(ありがとう、リリ)
声には出せない感謝の言葉を、心の中で繰り返した。
その夜、リリはいつものように石板に日記を刻んでいた。焚火の揺れる光が、彼女の真剣な横顔を照らしている。
『ユー、初めて外の空気に触れた。嬉しそうだった(と思う)。でも、すぐに危険な獣の気配がして、洞窟に引き返した。わたしがもっと強ければ、ユーを自由に外で遊ばせてあげられるのに……』
『ユーは、危険を察したのか、とても静かにしていてくれた。本当に賢い子。もしかしたら、わたしが思っている以上に、いろいろなことを理解しているのかもしれない。』
『わたしの鱗をあげた。シルヴァリウス家の鱗には、微かな守護の力が宿ると言われている。気休めかもしれないけど、ユーを守るものが、少しでも多い方がいい。』
『毎日、ユーの顔を見ていると、不思議と力が湧いてくる。この子を守らなければ、育てなければ、という気持ちが、わたしを強くしてくれる気がする。長老たちの試練とは違う意味で、わたしは今、成長しているのかもしれない。』
『だけど、時々、ふと考える。この森の奥で、竜と人間の赤ん坊が一緒に暮らしているなんて、誰が信じるだろう。いつか、この穏やかな日々が壊される時が来るのではないか……。考えないようにしよう。今は、ユーとの時間を大切にするだけ。』
石板に刻まれた文字は、リリの揺れる心情そのものだった。育児の喜びと苦労、ユーへの深まる愛情、そして、拭いきれない未来への不安。
洞窟の中、眠りについたユーの隣で、リリもまた静かに目を閉じた。赤ん坊の寝息と、遠くで響く世界樹の歌だけが、エルドラの森の静寂を満たしている。確かな絆が、言葉を超えて二人を結びつけ始めている。しかし、その穏やかな時間の外側では、世界は動き続けている。木々の揺れるその向こうに、いずれ訪れるであろう変化の兆しを孕みながら、夜は静かに更けていくのだった。