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銀翼のリリと暁の嬰児  作者: くだきつね
風、始まりを告げる場所
2/5

2.名もなき声、初めての響き

夜明けの光が洞窟の入り口から差し込み、岩肌を淡い金色に染め上げていた。エルドラの森が新しい一日を迎える鳥たちのさえずりが、遠くから聞こえてくる。リリは、自身の翼の微かな温もりの中で眠る小さな存在――昨日拾ったばかりの赤ん坊を、そっと見下ろした。


(生きてる……よかった)


規則正しい寝息と、上下する小さな胸。その確かな生命の徴候に、リリは安堵の息をついた。昨夜はほとんど眠れなかった。興奮と不安、そして未知の責任感が、彼女の心を落ち着かなくさせていたのだ。赤ん坊が少しでも身じろぎするたびに、何かあったのではないかと飛び起きた。竜としての長い寿命を持つ彼女にとって、これほど切迫した時間の感覚は初めての経験だった。


やがて、赤ん坊がもぞもぞと動き出し、ふにゃ、と小さな声をもらした。空腹のサインだろう。問題は、何を与えるか、だ。昨夜試した木の実のペーストは少量しか受け付けなかった。人間の赤子は、確か「乳」というものを飲むと、祖母の古い物語で聞いたことがある。だが、竜であるリリにそんなものが出るはずもない。


「うーん……どうしよう……」


リリは腕を組み、真剣な顔で唸った。シルヴァリウス家の試練に、育児は含まれていなかったはずだ。長老たちに聞けば、何か知っているかもしれないが、この子の存在を知られるわけにはいかない。人間への不信感が根強い竜の谷で、この赤ん坊が受け入れられる可能性は低いだろう。最悪の場合、森に返すように言われるかもしれない。それは、この小さな命を見捨てることに等しい。


(自分で、なんとかしないと)


決意を固め、リリはまず、昨日と同じ木の実をいくつか集めてきた。今度はもっと丁寧にすり潰し、湧き水で少し温めてみる。彼女の掌から放たれる微かな光の熱が、石の器に入ったペーストを人肌程度に温めていく。光竜の力の、ささやかな応用だ。


「ほら、あーん……は、しないか」


人間の真似をしようとして、すぐに思い直す。そっと指先にペーストを取り、赤ん坊の唇に触れさせてみる。赤ん坊は、最初はいぶかし気に眉を寄せたが、やがて小さな口を開き、ちゅ、と指を吸った。昨日よりは、いくらか食が進んでいるようだ。リリは根気よく、少しずつペーストを与え続けた。



(……まずい)


意識の片隅で、相川悠は冷静に評価を下していた。いや、正確には「口に合わない」そして「栄養的に足りているか疑問」だ。だが、選択肢はない。目の前の銀翼の竜――リリが、一生懸命に用意してくれたものだ。そして何より、生きるためにはエネルギーが必要だ。


赤ん坊の身体は、驚くほど思い通りにならない。空腹、眠気、排泄の不快感といった本能的な欲求が、思考よりも先に身体を支配する。泣くことでしか、それを伝えられないもどかしさ。言葉を発しようとしても、意味のある音にはならない。


それでも、悠は諦めなかった。SEとして叩き込まれた問題解決能力は、こんな状況でも無意識に働いてしまう。


(観察、分析、実行、評価……)


リリの行動を注意深く観察する。彼女が使う言語らしき音の響き、イントネーション、表情の変化。今はまだ単語の区切りすら判別できないが、パターンを記憶していくしかない。彼女が自分に向ける感情――心配、戸惑い、そして微かな優しさ。それは、言葉が通じなくても伝わってくる。


食事の後、身体の下に敷かれた布(おそらくリリがどこかから調達した植物の葉や繊維で作ったものだろう)が濡れて不快感を覚えた。悠は、ぐずりながら、その濡れた部分を指差すような仕草をしてみた。最初は意図が伝わらなかったが、リリが布を取り替えようと持ち上げた時に、悠が少しだけ静かになったことで、彼女は何かに気づいたようだった。


「もしかして……ここが、気持ち悪かったの?」


リリは、独り言のように呟きながら、手早く新しい乾いた敷物と交換してくれた。その手つきはまだぎこちないが、懸命さは伝わってくる。


(通じた……!)


小さな成功体験。非言語コミュニケーションの第一歩だ。この積み重ねが、いずれ意思疎通への道を開くはずだ。


悠は、リリの顔をじっと見つめた。彼女の銀色の髪、アメジストのような瞳、心配そうに自分を覗き込む表情。この異世界で、唯一頼れる存在。今はまだ、か弱い赤ん坊でしかない自分が生き延びるためには、彼女の庇護が不可欠だ。


(信頼してもらわないと)


そのためには、できるだけ「普通の」赤ん坊らしく振る舞う一方で、彼女の助けになるようなサインを送る必要がある。例えば、危険が迫った時、異常を察知した時。赤ん坊の五感は頼りないが、前世の知識と観察力で補える部分もあるはずだ。


不意に、強い眠気が襲ってきた。赤ん坊の身体は、エネルギー消費が激しいらしい。抵抗する間もなく、悠の意識は再び微睡みの中へと沈んでいった。次に目覚めた時、また少し、この世界に適応できているだろうか。そんな淡い期待を抱きながら。



赤ん坊が眠りについた後、リリは洞窟の入り口近くに座り、外の森の様子をうかがっていた。育児という新たな仕事が加わったことで、これまで以上に周囲への警戒が必要になった。この森には、獰猛な獣もいれば、時には人間――密猟者や、道に迷った者――が紛れ込むこともある。


(あの子、やっぱり少し、変わってる)


リリは、先ほどの赤ん坊の行動を思い出していた。空腹を訴えるだけでなく、不快な場所を指し示すような仕草。偶然かもしれない。だが、あの理知的な光を宿した瞳で見つめられると、この子はただの赤ん坊ではないのかもしれない、という思いが強くなる。


(まさか、とは思うけど……古い言い伝えにあった、「異世界からの魂を持つ者」とか……?)


それは、竜の間に伝わる、真偽不明の伝承の一つだ。世界と世界の狭間から、稀に迷い込む魂があるという。多くはすぐに消滅するか、あるいは異質な存在として排除される。だが、ごく稀に、世界に受け入れられ、大きな影響を与えることがあるのだとか。


(考えすぎ、かな)


リリは首を振って、突飛な想像を打ち消した。今は、目の前の現実に対処するのが先決だ。


ふと、赤ん坊にまだ名前がないことに思い至る。拾った時に身に着けていたものには、名前を示すようなものは何もなかった。ずっと「あの子」や「赤ん坊」と呼ぶわけにもいかないだろう。


(どんな名前がいいかな……)


人間の名前の響きは、あまり知らない。物語に出てくる王女様や勇者の名前は、なんだか大げさすぎる気がする。もっと、こう、呼びやすくて、温かい感じがいい。


リリは、眠っている赤ん坊の顔を覗き込んだ。小さな口が、何かを呟くように動いている。


「……ぅー……あー……」


意味のない、赤ん坊特有の声。だが、その「ぅー」という響きが、なぜかリリの耳に残った。


「ユー……?」


試しに、そう呼びかけてみる。もちろん、返事はない。眠っているのだから当然だ。でも、悪くない響きな気がした。短くて、呼びやすい。


「よし、決めた。今日からあなたは、ユー」


リリは、満足げに頷いた。勝手に名前をつけてしまったが、文句は言われないだろう。少なくとも、言葉を話せるようになるまでは。


その日の夕暮れ、リリは再び日記代わりの石板を取り出した。


『ユー、と名付けた。わたしが呼んだ音から、なんとなく。気に入ってくれるといいな。』


『今日は、木の実のペーストを少し食べてくれた。あと、おしっこで濡れた場所を教えてくれた(気がする)。やっぱり、この子は賢いのかもしれない。観察を続けよう。』


『ユーがいると、洞窟の中が少し明るくなった気がする。静かなのは変わらないけど、前のような、ただ広いだけの寂しさとは違う。守るものがあるというのは、こういう気持ちなのかな。』


『でも、不安もある。いつまで、こうしていられるだろう。わたし一人の力で、この子を育てられるのかな……。』


石板に刻む文字が、リリの心の中の期待と不安を映し出していた。銀翼の竜と、秘密を抱えた赤ん坊。二人の奇妙な共同生活は、まだ始まったばかり。言葉にならない声と、不確かな未来への予感を乗せて、エルドラの森に再び静かな夜が訪れようとしていた。洞窟の奥で眠るユーの寝息だけが、確かな現実としてそこに響いていた。

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