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銀翼のリリと暁の嬰児  作者: くだきつね
風、始まりを告げる場所
1/5

1.森の奥、運命の赤子

それは、永遠に続くかのような緑の牢獄だった。

天蓋を覆う枝葉は陽光を遮り、地上を薄暗い緑の影で満たす。湿り気を帯びた空気は重く、苔と腐葉土、そして名も知らぬ花の甘い香りが混じり合い、淀んでいる。風が木々を揺らす音だけが、唯一の変化。だがそれすら、繰り返されるだけの退屈な囁きに過ぎなかった。

エルドラの森。その奥深く、巨大な樹の根元に、リリアーナ・シルヴァリウス――リリは、今日も独りだった。

白銀の鱗が、数少ない木漏れ日に反射して鈍くまたたく。人と竜の狭間にあるその姿は、周囲の風景に溶け込むことなく、むしろ異物のように浮き立っていた。繊細な角、畳まれた翼。光を司るシルヴァリウス家の末裔。その事実は、彼女にとって誇りであると同時に、この孤独の理由でもあった。

『試練だ』

長老たちの厳かな声が、耳の奥で木霊する。

『人間を知り、距離を知り、力を持つ者の責任を知れ』

だが、知るべき「人間」はこの森にはいない。あるのは、単調な日々だけ。胸の奥で疼くのは、世界への憧れと、禁じられた種族への抗いがたい好奇心。そして、どうしようもない焦燥感。

「……また、同じ一日」

吐き捨てた言葉は、誰に聞かれることもなく苔に吸い込まれる。祖母に教わった古の竜の歌を口ずさむ。それは本来、仲間への呼びかけや、力を高めるための旋律。だが今は、虚しさを紛らわすためだけの、意味のない音の羅列だった。


その、瞬間。


空気が震えた。

森を満たす生命の匂いとは全く異なる、異質な気配。風上から、それは届いた。

――血の匂い。

生々しく、鉄錆びたような、濃密な死の香り。そして、その奥にかすかに混じる、生まれたばかりの、ミルクのようなか弱く甘い匂い。

リリは弾かれたように立ち上がった。全身の鱗が逆立つような感覚。竜の本能が警鐘を鳴らす。危険。そして、無視できない何か。

長老たちの警告が脳裏をよぎる。『人間に近づくな。関わるな』

だが、ここは彼女の領域だ。そして、あの血の匂いの先に漂う、あまりにも無防備なか弱さが、彼女の心を掴んで離さない。

好奇心か、責任感か、あるいはもっと根源的な衝動か。

リリは、風のように駆けた。音もなく、影のように木々の間をすり抜ける。近づくにつれて、血の匂いはむせ返るほど強くなり、獣の断末魔のような唸り声と、そして――赤子の、か細い、途切れそうな泣き声が耳朶を打った。

茂みを抜けた先、視界が開ける。そこは、かつて穏やかだったはずの小川のほとり。今は、地獄のような光景が広がっていた。

草は無残に踏み荒らされ、土は抉られ、おぞましい姿の獣――リリの知らない凶暴な種――の骸がいくつも転がっていた。その中心、泥と、生々しい赤黒い血に塗れた布の塊。

そこから、泣き声は漏れていた。

「……!」

息をのむ。

人間の赤ん坊だ。

なぜ。どうして。こんな場所で?

周囲の惨状が、起こった出来事を雄弁に物語る。襲撃。おそらく、この赤子を連れた人間が犠牲になったのだ。そして、この小さな命だけが、奇跡的に、あるいは皮肉にも、生き残った。

ゆっくりと、一歩ずつ近づく。五感を研ぎ澄ませ、わずかな敵意も見逃さないように。だが、赤ん坊からは、ただひたすらに純粋な「生きたい」という本能の震えしか感じられない。

泥と血に塗れた顔。閉じられた瞼が震え、小さな手が虚空を掻く。泣き声はもう、ほとんど音になっていない。生命の灯火が、今まさに消えようとしていた。

――見捨てるか?

森の掟に従うならば、それが自然の摂理だ。弱き者は淘汰される。シルヴァリウス家が過去に人間から受けた仕打ちを思えば、情けをかける理由などない。

だが。

リリの脳裏に、祖母の語った物語が蘇る。悲劇だけではない、温かな交流の記憶。種族を超えた絆の話。その血が、確かに自分の中にも流れている。人間への興味は、この血筋ゆえの抗いがたい「さが」なのだ。

「……仕方、ない」

呟きは、決意の響きを帯びていた。

そっと、壊れ物に触れるように、赤ん坊を抱き上げる。驚くほど軽く、しかし確かな温もりがあった。腕の中で、赤ん坊の泣き声がふっと止まる。小さな身体が、完全にリリに委ねられる。その絶対的な無防備さが、リリの胸の奥深くを突き刺した。

守らなければ。

理由は、後で考えればいい。

踵を返し、住処である洞窟へと歩き出す。腕の中の小さな温もりは、いつの間にか、ずしりと重い責任感に変わっていた。



洞窟の中は、外の森とは違う静寂に満ちていた。岩壁に刻まれた古代の文様が、焚火の揺れる光に照らされて、まるで生きているかのように蠢いて見える。

リリは、寝床代わりの柔らかな苔の上に、赤ん坊をそっと横たえた。まずは清めなければ。洞窟の奥から湧き出る清らかな水で濡らした葉で、慎重に身体を拭いていく。小さな身体。男の子だ。目立つ外傷はないが、触れる肌は冷たく、衰弱しきっている。

身体を拭き終え、顔の汚れをそっと取り除いた、その時。

赤ん坊の目が、開かれた。

リリは息を止めた。

深い、深い藍色の瞳。

それは、ただの赤ん坊の瞳ではなかった。硝子玉のように透き通り、揺らめきもしない。その奥には、この世に生を受けて間もない生命が持つはずのない、静かで、冷徹で、全てを見透かすような――理知の光が宿っていた。

見つめられている。

この小さな存在に、値踏みされているような感覚。洞窟の壁画も、揺れる炎も、リリ自身の鱗の輝きも、そして心の奥底の戸惑いさえも、この瞳は全てを捉え、分析しているかのようだった。

(まさか……そんなはず……)

背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。リリは慌てて視線を逸らし、赤ん坊を布で包み直した。だが、あの瞳の感覚は、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

この赤ん坊は、一体……?



――ノイズ。激しいノイズだ。

視界は白と黒の点が明滅し、耳には意味のない残響音がこびりつく。思考はある。俺が、相川悠あいかわ ゆうであるという認識も。だが、その思考を収める器が、まるで他人のもののように自由にならない。

(……クソッ、なんだこれは……)

手足を動かそうとすれば、微かな痙攣が返ってくるだけ。声を出そうとすれば、空気の漏れるような音しか紡げない。全身を包むのは、不快な湿り気と、内側から突き上げるような飢餓感。

(……赤ん坊……かよ……!)

断片的な記憶と現状を結びつけ、結論に至る。過労死したはずの俺は、どういうわけか、赤ん坊として見知らぬ場所に転生した。ラノベか? 馬鹿馬鹿しい。だが、この無力感と不快感は、紛れもない現実だ。

森の中。争いの痕跡。そして、俺を拾った、信じられない存在。

(ドラゴン……ファンタジー、確定か)

ぼやける視界の先に、銀色の鱗を持つ人型の少女が見える。角と翼。間違いない。彼女は、俺が理解できない言語で何かを語りかけながら、慣れない手つきで世話をしている。

(落ち着け、分析しろ。SEだろ、俺は)

パニックになりそうな思考を、無理やり論理で押さえつける。

状況:異世界転生(赤ん坊)。言語不通。生命の危機。ドラゴンの少女に保護された。

リスク:餓死、病死、見捨てられる、未知の脅威。最悪のスタートだ。

目標:生存。成長。意思疎通。情報収集。

最優先事項:保護者ドラゴンとの信頼関係構築。

だが、どうやって? 赤ん坊にできることなど限られている。泣いて要求を伝える以外は、「無害で、比較的手のかからない赤ん坊」を演じるしかない。

彼女が俺の顔を覗き込む。その瞳に、戸惑いと、強い好奇心、そして一瞬、得体の知れないものを見るような怯えの色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。俺の「視線」に気づいている。

(解析眼なんてもんは無いが、観察と推論は得意分野だ)

彼女の歌声。それは単なる歌ではない。響きに、微かな力がこもっている。感情が乗ると、その力が増すようだ。孤独、焦り、そして俺への戸惑い。

彼女の手から放たれる光。温かい。これが魔法か。

(情報は武器だ。今はとにかく、生き延びて情報を集める…!)

今はまだ、何もできない。この非力な身体で、生存本能に従うだけだ。だが、思考だけは止めない。この銀翼の竜――リリ、と呼ばれているらしい彼女との関係を築き、必ずこの世界で生き抜いてみせる。



夜の帳が下りた洞窟は、焚火の爆ぜる音と、壁を伝う水滴の音だけが響いていた。リリは、ようやく眠りについた赤ん坊の隣で、膝を抱えていた。

森の木の実をすり潰しただけの粗末な食事。それでも、赤ん坊は僅かにそれを口にした。今はそれで十分だと、自分に言い聞かせる。

昼間の出来事が、まるで遠い昔のことのようだ。この小さな存在が、リリの世界を根底から揺さぶり始めている。

傍らの滑らかな石板に、黒曜石の先を走らせる。カリ、カリ、と硬質な音が、静寂を刻む。

『森で人間の赤子を拾った。男。名は、まだない。』

『ただの赤子ではない気がする。あの瞳……忘れられない。わたしを見つめ、何かを測るような、不思議な光。』

『長老たちには秘密だ。きっと叱られる。……捨てられるかもしれない。それは、嫌だ』

『怖くないと言えば嘘になる。でも、それ以上に、この小さな命を守りたいと思った。わたしが、この子を。』

『明日、この子は何を見せてくれるだろうか。少しだけ、明日が怖い。でも、ほんの少しだけ、楽しみでもある。』

石板を置き、眠る赤ん坊の寝顔を見つめる。昼間の理知的な光は消え、今はただ無垢な寝息を立てている。

(大丈夫。わたしが守る)

それは、もう衝動や気まぐれではなかった。リリの中で確かに形になった、強い意志。

そっと隣に横になり、畳んだ翼で、小さな身体をふわりと覆う。伝わる温もり。確かな生命の鼓動。

洞窟の外では、風がまた森を揺らす。それはもう、退屈な囁きではなかった。エルドラの森の奥深く、銀翼の竜と、異世界から来た魂を持つ嬰児の、奇妙で、危うく、そして希望を孕んだ最初の夜が、静かに更けていく。

二人の物語が、今、確かに動き出した。

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