表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ソビエト連邦領アラスカについて

アラスカがアメリカに売却されなかった世界の架空戦記です。

 アメリカ合衆国市民の皆さん。


 ご自宅にある合衆国周辺の地図を見てください。


 我がアメリカ合衆国の北にはカナダがあり、その西にはアラスカがあります。


 言うまでもなく、アラスカはソビエト連邦の領土です。


 しかし、1860年代にロシア帝国から合衆国に売却する話が持ちかけられたことがありました。


 ロシア帝国はクリミア戦争による財政赤字をアラスカを売却することで穴埋めしようとしてたのでした。


 しかし、合衆国国内では、寒冷地であり、資源も発見されていなかったアラスカを「巨大な冷蔵庫を購入するために国費を浪費するべきではない」という意見が多かったのです。


 そして、交渉中にアラスカで金鉱が発見され、それにより財政赤字の補填は可能になったため、ロシア帝国はアラスカの売却を中止しました。


 その後、日露戦争後にはアラスカでは石油も発見されました。


 船舶の燃料が石炭から石油に切り替わろうとしていた時期なため、歴史に重要な影響を与えました。


 第一次世界大戦の結果、ロマノフ王朝は倒され、革命により、ロシア帝国はソビエト連邦となりました。


 ソビエト連邦が日本帝国に接近したのでした。


 自国の皇帝を殺害したソ連が、天皇という君主がいる日本に接近するのは思想的にはありえませんが、現実的な利害関係による判断でした。


 ソ連は共産革命の結果、世界から孤立していました。


 日本もロシア帝国とは日露戦争があり、第一次大戦後、長期にシベリア出兵をしていました。


 ロシア帝国からソ連になっても、日本の最大の仮想敵国であることは変わりませんでした。


 しかし、ソ連は、アラスカの石油の日本への割安の輸出とアラスカの金塊での軍事技術の輸入を求めたのでした。


 日本海軍は我がアメリカ海軍を仮想敵としてましたが、日本は海軍の活動に必要な石油の約90パーセントをアメリカから輸入していました。


 アメリカから石油の輸入をストップされるだけで、日本海軍は活動不能になってしまいます。


 この状況を打破しようとしていた日本海軍としては、ソ連からの提案は渡りに船だったのです。


 日本海軍がソ連に輸出した軍事技術は、主に潜水艦に関するものでした。


 戦略兵器である戦艦の技術を輸出するのは論外だったので、日本は第一次大戦で敗戦国となったドイツから取得した潜水艦の技術をソ連に輸出しました。


 もともと自国のものではなかった潜水艦の技術を右から左に渡すだけで、金塊が手に入るので、日本海軍としては良い取り引きだと思っていました。


 ソ連海軍としても戦艦を建造するのは時期尚早と考えていて、沿岸防衛用に小型潜水艦の多数建造を考えていたので、偶然にも双方の思惑が一致しました。


 日本陸軍は、最大の仮想敵国であるソ連との軍事技術の売買に最初は声高に反対していましが、シベリア出兵での赤字をソ連からの金塊で埋めることになったので、しぶしぶですが沈黙しました。


 ソ連はウラジオストクを経済特区として日本との貿易の拠点としました。


 ウラジオストクには、日本料理屋や日本式旅館があり、ソ連人民による商業も一部許可されていたので、モスクワやレニングラードよりも賑やかな都市となりました。


 日本国内では共産党は禁止され、ソ連国内では市場経済は廃止されているのに、この奇妙な共生関係は続きました。


 そして、1930年代後半を迎えました。


 日本とソ連の共生関係は続いており、ソ連の指導者スターリンはドイツ総統ヒトラーと不可侵条約を結び、東西の安全を確保しました。


 ソ連は、中国においては、現実主義的な判断から中国共産党よりも国民党を支持していました。


 日本も国民党を支持していたので、中国において日ソに対立はありませんでした。


 我がアメリカ合衆国政府は、その状況で中国市場の門戸開放を求めました。


 我が国は国内でのフロンティアは消滅し、新たな市場を手に入れなければ先細りになってしまうからです。


 日ソは、我が合衆国政府の要求を拒否しました。


 我が国は報復として日本に経済制裁をしました。


 ソ連には経済制裁をせず、日本のみをターゲットにしたのは「仲間割れ」を期待したからでした。


 日本は石油はソ連から輸入できたので、我が国からの輸入が止まっても困りませんでした。


 しかし、工作機械は我が国から輸入していたので、根をあげるに違いないと思われました。


 ですが、日本は、工作機械をドイツから輸入することで対処しました。


「中国市場を開放させるには、まず日本を屈伏させなければならない。それには軍事的な手段しかない」


 そう我々は考えたのでした。


 1941年12月7日、駐日大使が日本の外務大臣に宣戦布告文書を手交した15分後、アメリカ海軍空母6隻から発艦した艦上機が呉軍港を空襲しました。


 ハルゼー提督を指揮官とした空母機動部隊は、空母「レキシントン」「サラトガ」「ヨークタウン」「エンタープライズ」「ホーネット」「ワスプ」によって編成されていました。


 停泊していた日本海軍の戦艦4隻、「長門」「陸奥」「扶桑」「山城」を撃沈し、史上初の「航空機による戦艦の撃沈」を成し遂げました。


 しかし、同日、ハワイ近海まで進出していた日本海軍の空母機動部隊、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」6隻から発艦した艦上機がオアフ島の真珠湾を空襲しました。


 我がアメリカ海軍と日本海軍は、偶然にも同じような作戦を実行していたのでした。


 アメリカ海軍戦艦部隊は真珠湾から出払っており、日本海軍は真珠湾の修理用ドック・燃料タンクなどを破壊し、1年以上は軍港としての機能を失うことになりました。


 フィリピンは日本海軍基地航空隊による空襲の後、ソ連義勇軍海軍歩兵部隊に上陸されました。


 この太平洋戦争と名づけられた戦争に、ソ連は正式には参戦せず、「義勇軍」を派遣しました。


 ソ連義勇軍の主力となったのが、ソ連海軍であり、ソ連海軍歩兵部隊が最も活躍しました。


 奇妙なことに、この戦争に日本陸軍はほとんど参戦していません。


 日本陸軍の第一の仮想敵国はソ連であり、我が国との戦争に大兵力を派遣するのを拒否したのです。


 そして、日本海軍とソ連海軍は密接な関係にあったので、ソ連は海軍歩兵を義勇軍として参戦させたのでした。


 ソ連が「義勇軍」としたのは、国として正式には参戦しないという意思表示でした。


 我が国は、ソ連まで敵に回すことはできなかったので、それを黙認しました。


 ハワイが拠点としては使えなくなった我が国は、オーストラリアを新たな拠点としました。


 オーストラリアは英連邦の加盟国であり、イギリス本国は、この戦争では中立でしたが、多額の軍事・経済援助と引き換えに「オーストラリアの英連邦からの離脱、米豪軍事同盟」を成し遂げました。


 ソ連の新聞では「アメリカの資本家が札束でオーストラリアの労働者を酷使する同盟」と書き立てましたが、オーストラリア自身が太平洋での日本・ソ連を脅威に感じていました。


 オーストラリア本土までの制海権をめぐる戦いで、我がアメリカ海軍は敗北し、オーストラリア本土に日本海軍陸戦隊とソ連義勇軍海軍歩兵部隊が上陸しました。


 オーストラリア本土で激烈な地上戦が行われました。


 日本海軍陸戦隊とソ連義勇軍海軍歩兵部隊のT34戦車は、我が陸軍のM4戦車より強力であり、我が軍は敗北を重ねました。


 日本海軍の空母機動部隊は、オーストラリア各地を空襲し、諜報活動により世界最大の18インチ砲搭載戦艦と判明した「大和」「武蔵」が地上施設に向けて艦砲射撃をしました。


 それよりも一番の脅威は、ソ連義勇軍海軍潜水艦部隊だったと言えるでしょう。


 ソ連は日本から得た技術を発展させ、外洋型大型潜水艦を建造するようになっており、それをアメリカとオーストラリアの海上交通線の破壊のために投入したのでした。


 日本・ソ連の新聞では「アメリカとオーストラリアの間には多数の船が並んでいる。海底で」などと書かれました。


 アメリカからオーストラリアへの兵員・物資の輸送は絶たれ、オーストラリアは日本に降伏するしかなく、オーストラリアを失った我が国も敗北を認めるしかありませんでした。


 私は戦争に敗北した責任を取り、大統領を辞任します。


 いくつかの新聞記事では「もし、アラスカがアメリカの領土であったら、戦争はまったく違う経過と結果だったのだろうか?」というのもあります。


 しかし、人は過去の判断を変えることはできません。


 変えられるのは未来の判断だけです。


 未来の大統領、そして未来のアメリカ市民の皆さんが賢明な判断をされることを祈ります。


 私、フランクリン・デラノ・ルーズベルトの大統領としての最後の演説を終わります。


 さようなら。



 ……以上が太平洋戦争時のアメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトの退任演説です。


 ラジオで全米に生中継されるだけでなく、カラーフィルムで撮影されており、全米の映画館でニュース映画として公開されました。


 太平洋戦争で、敗北した時、アメリカ市民の間では混乱が起きましたが、ルーズベルト大統領の退任演説の堂々した態度に混乱はおさまりました。


 太平洋戦争後、日本・ソ連は正式な軍事同盟を結びました。


 1950年代、アメリカが世界初の原子爆弾の開発に成功し、少し遅れて日ソが共同開発に成功しました。


 原子爆弾の初の実戦使用は、ソ連がドイツに使用しました。


 イギリス以外の欧州をナチスドイツは征服し「大ドイツ帝国」となっていましたが、原子爆弾の開発は遅れていました。


 晩年のヒトラーは、通常戦力で勝る今のうちにソ連の一部領土を占領し、その返還と引き換えにソ連から原爆を手に入れようとしました。


 ドイツ装甲軍団は、旧ポーランドの独ソ国境を突破、たちまちウクライナまで進軍しました。


 しかし、日ソが共同開発した戦略爆撃機「富嶽」により、ミュンヘンに原子爆弾が投下され、ドイツは軍を引きました。


 ベルリンではなくミュンヘンに原爆を投下したのは、交渉相手をなくさないためでした。


 ヒトラーは原爆を投下されても、軍にさらなる進軍を命じましたが、国防軍によるクーデターで暗殺されました。


 大ドイツ帝国は、「ドイツ連邦」となりましたが、ソ連は崩壊はさせませんでした。


 ドイツが崩壊してしまうと、イギリス本土を出城としているアメリカが欧州に介入して来るからです。


 日本・ソ連・ドイツは安全保障条約を結び、ドイツ本土には在独ソ連軍が駐留しています。


 ドイツの核兵器の開発・保有は禁止しました。


 日本・ソ連同盟とアメリカがお互いに核兵器を持ってにらみ合う、「冷戦」の始まりでした。


 さて、アラスカにソ連は戦略爆撃機を配備しており、アラスカからアメリカ本土は爆撃機による攻撃圏内のため、ソ連は大陸間弾道弾の開発にあまり関心を持ちませんでした。


 しかし、1960年代に、アメリカは史上初の人工衛星の打ち上げ、有人宇宙飛行に相次いで成功しました。


 ソ連もロケット開発に邁進し、人類で初めて月に立ったのはソ連人になりました。


 日本もロケット開発には、協力しましたが、大陸間弾道弾よりも、潜水艦発射型弾道弾の開発を優先しました。


 なぜなら、核攻撃に対して日本本土はあまりにも脆弱であり、弾道弾発射型原子力潜水艦による「相互確証破壊」で日本は本土の安全を守っています。


 2025年の現在も、日本・ソ連同盟とアメリカの冷戦は続いています。


 1990年代にアメリカでは「ソ連は経済的に崩壊する」と分析されましたが、ソ連は政治的には社会主義体制のまま市場経済を導入し、経済危機を乗り切りました。


 日本はソ連に経済協力し、モスクワやレニングラードには日本人ビジネスマンや観光客が大勢います。


 ソ連には、かつてロシア領であり現在は日本の領土である南樺太や満州への「武力での奪還」を唱える政治家もいますが少数であり、実行にされる確率は低いです。


 日本・ソ連の良好な関係はこれからも続いていくでょう。

感想・いいね・評価をお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
2本目の御参加ありがとうございます。 このお題については、今は亡き高貫布士先生の「双頭鷲の紋章」へのオマージュとして設定しましたが、さすがは自分の予想を裏切るような設定で、なおかつ面白い内容でした。…
イギリスは、一気に衰退の道を辿るのか カナダ、アフリカ植民地は、米ソの引き抜き合戦にあい インドも日ソの工作で崩される そのうち大国の言いなりになりそうですね
この世界だと、大和は呉以外で建造されていたのですか? もし、呉で造船していたら、間違いなく、進水前に爆撃されたはず それに呉を爆撃するにしても 四国を超えないといけないはず
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ