距離hの数式
児童虐待において先天的な異常者が子の不幸を望んで積極的に虐待している現実を、「虐待の連鎖」などとして情報や金銭の不足に矮小化して認知する距離、h。
ガザ地区などにおいて大量の子供達が手足や命を失うほど苦しめられている現実を、テロ組織なるハマスの掃討や先制攻撃の所在によって正当化して認知する距離、h。
ウクライナにおいて両側の東スラヴ人が世界の代理戦争で殺されていく現実を、片側の正義ゆえに片側の兵や市民について死傷することを正当だと認知する距離、h。
財産や学歴など権威ならぬ権威によって人間が人間の尊厳を蔑む現実を、利他的な精神なきところに偽りの社会正義を定義することによって支持して認知する距離、h。
それら、現実と認知の距離hは、主に人間の利己心を理由とする欺瞞であるから、もちろん人間の関数だ。
一方で、互いに独立なhは存在せず、そういったhはどれも互いに関連しているから、すべてのhは螺旋系を描いている。
そのような螺旋が空間的時間的にすべての個人について積算された積分が、この世界だ。
例えば広島で10万人の市民が焼き殺されても、政治的に必要ならばそういったことは正当化される。
敗戦国の戦後教育がそういった力学をフェアに教えることはないように、教育は事実を教育しようとするものではない。
したがって、人類における学問は、事実を研究するものではありえない。
ならば、いわゆる数学的記述よりもむしろ、数学的語法を用いた「ポエム」ごときものが、現実の真値を指し示しても不思議ではないだろう。
すべての現代人が無限大に不幸なわけではないし、公正に向かう努力が社会に存在しないわけではない。
しかし、社会の一部には現代でもなお無限大の不幸が実在しているし、公正への前進となると実際には虚像にすぎない。
なぜなら、不正義の根本原因は完全に批判を免れており、環境問題などの本質的でない問題が正義の前進として強調されているからだ。
現代においては、ドローンが日常的に一方的に人間を殺しているし、歴史的に考えられないほど賢いAIが実現し進歩しつづけている。
技術発展は本質的に力の格差を拡大する要因だが、人々の多くはその脅威に自覚的ではない。
人類のほとんどは、銃どころか剣が出現した時代においてすでに、社会なるものの現実を認知することに追随できなくなっていた。
つまり、現実としての力の力学と、それを修飾し粉飾する「公正世界仮説」という認知バイアスとの距離は、常に乖離を強めてきた。
「進歩」なる話法で、歴史はごまかされつづけてきた。
どんなディストピアの不正義についてだって、それを正義と称して宣伝する理論構造を定義することはできる。
そのような「退歩」の必要要件として、人間は戦士としての美学をゼロにまで失っていく。
つまり、公正世界仮説を完成させるためには、利己と利他の葛藤をゼロにまで極限的に収束させなければならない。
勇敢こそ正義の必要条件であることが忘れられることによって、利己的な自己を肯定する基盤が形成されていく。
しかし人間達は、死んでいった者達が敗者であることを望んでいるし、敗北していく者達が弱者であることをあまりにも望んでいる。
人間という動物は、ディストピアに置かれてなお、そのディストピアを肯定することで精神を生きながらえさせようとする。
したがって、状況が悪化するほど人間の知能は事実認知という意味でより愚かになり、問題意識は低下し解決は遠ざかる。
その構造がhの軌跡だが、それは完全に非難を免れつづけてきた。
これまで存在したこの構造がこれからも変わらない、と言うことは一つの絶望だが、客観的事実でもある。
それは、最も正義ある人達にこそ無限大の苦しみが注がれる現実を、救うことはできないということである。
人間という主体に生まれることが、人生というゲームを体験することであるなら、公正や知性を目指す究極ではこのような解にたどりつく。
なぜなら学問は本来、事実を探求するものでなければならないし、なぜなら公正を追求するのでなければ価値ではないからである。
そして、そのために最も重要なのはこの「距離hの数式」を置いてほかにない。
だから、誰一人に理解されないとしても人は、「距離hの数式」こそを墓の中まで抱きしめつづけて「ゲーム」をまっとうする以外に道はない。
なぜなら、「希望」がないからこそ、希望の追求だけは死守しなければならないからだ。
地球生命に対するギロチンの刃先の美しさは、曲線h。
そは、痛み全体の微分曲線。