Nate~ネイト~【2】
「〝レティ〟。今日からお前の担当になるDr.ナサニエル ブライト。お世話してくれる人だ」
「ナサ、ニエル先生……?」
「ネイト先生。で、いいかな?」
突然振られ、ネイトは反射的に頷いた。
「構わないそうだよ。だからこれからはネイト先生の言うことをよく聞きなさい」
「うん!」
喋っている。
マックスと普通に会話が成り立っている。『実験動物』が!
目の前で繰り広げられている光景は、ネイトにとっては大袈裟ではなくカルチャーショックだった。
先に見せられた〝R30〟は、ベッドの上でうつろな赤茶色の瞳で膝を抱えていた。
中途半端に伸びた癖だらけの赤い髪で、マックスが新担当を紹介する声にも大した反応を示すこともなく。
一般人から見れば明らかに異常な状態なのかもしれない。しかし、ネイトにはそちらこそが平常なのだ。
「ネイト先生の髪、わたしともマックス先生とも全然違うわ。メイサ先生の茶色とも。空間ディスプレイでしか観たことなかったけど、こういうのが金茶色って言うの? 瞳は空の色ね。空はよく知ってる!」
矢継ぎ早に発せられる声に圧倒される。
緩いウェーヴの掛かった長い金髪。興味津々といった調子で明るく問い掛けて来る、煌めく菫色の瞳の持ち主。
膝下丈の白いTシャツのような飾り気のない着衣でも、いやだからこそ素の顔立ちが引き立つ美しい『人形』。
「先生は何を教えてくれるの?」
「え、え……。何、って」
訊かれた内容に理解が即座に追いつかず、ネイトは口籠ってしまった。
「メイサ先生は字とか絵とか、あと歌も教えてくれた!」
口話だけではなく文字まで!?
その上絵だの歌だの、もう意味不明だ。いったい前任者は何を考えていたのだろう。
形だけは人間の、オリジナルの部品でしかないたかが実験体に。
「ねぇ、先生! 今日から勉強するの?」
くだらない、理解できない、と確かに考えていたのに。ネイトは結局請われるままに〝レティ〟に授業を行うことになった。
「ああ。算数をやろうか。数字は知ってるんだよな?」
「そんなのメイサ先生に最初のうちに習って全部覚えた。十個しかないもん、簡単。わたし、掛け算や割り算もできるんだよ!」
研究員は担当クローンの世話だけしているわけではない。
いくらそれがメインとはいえ、もちろん他にも業務があった。むしろ、物理的な時間では他の要件の方が多い。たとえ新たな培養に掛からなくても、細かい仕事はいくらでもあるからだ。
そして、専門職としては研鑽も怠れない。
常に最新の技術に対応できるよう、知識のアップデートは必須だった。研究者として熱心であればあるほど、そちらにも時間を取られてしまう。
もう出世も名誉も霞の向こうの遠い世界になったというのに、適当に手を抜く気はなかった。やはり研究が好きなのだ、とネイトは改めて考えている。
理屈ではなく、単なる「社会の名もない小さな歯車」として働く凡庸な生活が嫌だったわけでもなく。
結局「名が出ない」状況は同じでも、ただ研究を捨てたくなかっただけなのだ、と今更のように実感した。
「できた! ネイト先生、見て!」
問題が解けた、と〝レティ〟が両手を上げてアピールする。
〝レティ〟は生産されて十三年経つ。人間として言うなら十三歳か。
当然ながら一般人のように学校に行くことなどはない。あくまでもメイサが空き時間に教える程度でしかなかった。
そのため、同年齢の普通の人間と同じ知力・学力とは到底言えない状態ではある。
しかし実際に教えてみると、このクローンは非常に優秀な『生徒』だった。調べた結果IQが高い。
オリジナルはどうなのだろう。一卵性双生児でも、知能は完全に同一とは限らないのだ。
大学で研究の傍ら教鞭を執っていた経験からも、なんであれ吸収の早い相手に指導するのは楽しくさえあった。
「ん-? おお、ホントにできてる。凄いな、〝レティ〟」
「わたしすごいの!? 嬉しい! 先生大好き!」
身体ごと左腕にしがみつくようにして、満面の笑みで告げられて困惑する。
「……そういうことは言っちゃダメだ」
「どうして?」
見上げてくるきょとんとした表情と透き通った瞳に、ネイトの中の何かが揺らいだ。
「どうしても! ──えーと、『女の子』は慎みが必要だから!」
「……? なんか全然わかんない、けど先生が言うならやめる」
自分でも何を意味不明なことをと思いながらも、表面的な説教じみた言葉を並べる。
「〝レティ〟、そういえば前は『絵』も教わってたんだよな? 道具は何を持ってる?」
足りないものがあったら揃えてやらなければ、と軽い気持ちで尋ねたネイトに、〝レティ〟は首を傾げた。
「なに……、って? わたし、何も持ってないよ?」
屈託もなく答える目の前のクローン。
「あ、そ、そうか。じゃあ全部だな。またやってみるか?」
「お絵描きやりたい! いっぱい描いたら上手になるってメイサ先生が言ってた!」
嬉しそうな〝レティ〟に「お前がやりたいことは何でも」と、どうにか笑顔で返す。
〝レティ〟を部屋に戻し、自分のブースへ向かう途中でマックスと行き合った。
「マックス。〝レティ〟は私物を持っていないんですね」
「……君、自分が何を言っているか理解しているか?」
先輩の返答を聞く前に、ネイト自身が我が口から溢れた言葉に動揺してしまう。
実験体が、画材に限らず「自分のもの」を所有しているわけがない。それがネイトの常識で、──今も考え方自体は変わってはいないのに。
確かに、「外の世界を垣間見るデバイス」も個々に割り当てられた部屋にはなかった。
さっきのネイトと〝レティ〟のように、研究員立ち会いのもとでしか使えない。
それはそうだ。ここのクローンは「自由自在に情報に触れる」ことなど許される存在ではないのだから。
いや、そもそもそんな「待遇」を受けているのは、〝レティ〟を含めメイサが見ていた三体のみだ。
「あ、ああ。すみません。僕は〝レティ〟に絵を、絵──」
「画材でも楽器でも、何でも与えてやればいい。申請すれば支給されるさ。以前はメイサがあれこれ用意してやっていたが……。彼女に関わるものはすべて撤去されたから、そのときにまとめて処分されたか」
混乱を隠し切れないネイトを咎めるでもなく、彼はあっさり告げて来た。
〝レティ〟のものにはならないが、ラボのものとしてなら使わせることに制限はない、ということなのだ。
「ほら見て、これわかる? わたし、先生の顔を描いたの!」
届いた画材を見せられて歓声を上げた〝レティ〟は、早速夢中でなにか描いていた。
手を止め顔を上げて、上気した頬でネイトを呼ぶ。
「ああ、うん。わかる。上手だよ。……でも俺、こんな格好良くないけどな」
専門の美術教育など、〝レティ〟は当然受けたこともなかった。
そのため「子どものお絵描き」同然だとしても、空間認識能力が高いのか特徴をよく捉えている。
本格的に教えたら、きっと伸びるのではないか。
そんな詮無いことが頭を過り、ネイトは即打ち消した。
実験体に美術の素養など不要だ。また何を無益なことを考えている?
「え〜、先生は格好いいよ! わたしの絵よりずっと!」
「……そりゃどうも」
「じゃあ次はねえ──」
素っ気ない口調で返しつつも、ネイトは自分の心情が急激に「職務上、かくあるべき軌道」を外れていくのを感じていた。
──可愛い〝レティ〟。
ふと浮かんだ己の感情に困惑さえ覚える。どうしてこんな、愚にもつかない……。
殺傷する実験対象に名前を付けてはならない。
研究者の経験から来る鉄則だった。意識するかどうかに拘わらず、名前ひとつで情が移ってしまう。
科学者としても、どうしても笑い飛ばせない事実なのだ。
これは単なるオカルトとは違う。
一体自分は何をしているのか、とふと我に返ることはあった。
それでも、懐いてくれる素直で可愛い「生徒」との時間は確かに楽しかった。
周りのすべてから隔絶された異様な空間で揺蕩うかの如く。
ネイトはこの御伽噺のような、白昼夢のような優しい生活が何も変わらずこのまま続いて行くのではないか、と感じ始めていた。
──現実逃避、していた。そんな筈はないのに。