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Nate~ネイト~【1】

 ──この世界は成熟して、停滞して、……とても歪だ。


 上下、優劣が基本的には固定された社会。


 生まれ持った身分に、そこに付随する金、そして頭脳、才能。

 身分はもちろん貧富の差も、知能の差も。表向きの「建前」はともかく、実質覆ることはほぼない。


 鮮やかな形勢逆転など、早々起こらない。


 そして身分や能力が尊ばれる社会だからこそ、「大義名分」は決して蔑ろにできないのだ。

 たとえ表面的なものであっても。


 人間は等しく公平だと謳われているのだから。


 人間(・・)は。


 だからこそ無秩序な弱肉強食とは程遠い、整えられた社会のかたちを維持するために希望は存在しなければならない。



 まるで壮大な、観客のいない舞台のように。




Nate~ネイト~【1】


「やあ、Dr.(ドクター)ナサニエル ブライト。ようこそ、この研究所(ラボ)へ」

 新生活に対する期待や高揚など欠片もなく、敷地内の宿舎から暗い気分で訪れた勤務先。

 初出勤としての形式を整えたに過ぎなかったが、自室に用意されていたスーツを身に着けて来た。こんなものが必要な場面などあるとは思えないのに。

 わざわざ「外」から持ち込むほどの、思い入れのある私物などありはしない。「生活に関してはすべて手配する」と聞かされてはいたが、ここまでだとは予想もしなかった。


 明るい声と笑顔で迎えてくれたのは、白髪交じりの黒髪の白衣を着た男だ。ただし、細いフレームの眼鏡の奥の灰色の目はまったく笑っていない。


「ネイトで結構です。え、っと」

「失礼、私はマクシミリアン グリーンヒル。ここでは八年目だから、君の『先輩』になる。ではネイト、どうぞ私のこともマックスと」

 名乗った彼は四十代も後半だろうか。二十八歳のネイトより二十近くは年長に思われた。

 痩せているので長身に見えるが、実際に対面で立つと明らかに目線が低い。


「で? 君は何をやった(・・・・・)の?」

「……!」

 軽く問われて咄嗟に声が出ないネイトに、マックスは苦笑する。


「ああ、すまない。詮索する気はないし、無理に打ち明ける必要なんてないんだ。──所詮ここに来るのは皆、何かやらかしたけど優秀だから飼い殺しにされている同じ穴の狢(同類)だよ。私も含めてね」

 どんな罪を犯しても、「優れた頭脳の持ち主」が真の意味で一般人同様に断罪されることはない。


 とはいえ、完全に無罪放免というわけでもなかった。彼の言う通りに。

 現実に、このラボの研究員はほぼ例外なく「法的な重罪を犯した人間」だ。

 具体的には殺人、──それも「猟奇的」がつくようなものも珍しくはない、のだろう。

 ただ、そういった犯罪者も「外の社会」では服役している、……あるいは処刑されたということになっているのかもしれない。

 社会秩序を保つために。

 ネイトの周囲にはそういう人間はいなかったので、実例としては知る由もなかった。


「別に構いません。大学に残って研究していたら、教授の娘にその、一方的に好かれたというか。研究室で告白されて断ったら、その場で手首を──」

 誰かを愛したことなどはない。特別な存在を持ったことも。

 突然「好きだ」と告げられ、まだ高校生だった彼女に「子ども相手にそういうことは考えられない」と口にした。

 すぐ傍らの机にケースごと放置されていたメスに手を伸ばした少女を、止める隙もなかった。

 いったいあの場でどう返すのが最適解だったのか、ネイトは今もわからないままだ。


 彼女は命に別状があったわけでもなく、(あと)は残るかもしれないが傷もさして深くはないという。

 それでも、引き立ててくれた教授が居たからこそ開けていた輝かしい将来は一瞬にして潰えたのだ。

 能力だけはあると惜しまれて、非合法の研究施設(このラボ)送りになったというだけの話だ。

 広いようで狭い研究者の世界では強大な力を持つ教授の手前、少なくとも専門では陽の当たる道は歩けない。


 優れた遺伝子を掛け合わせ、ディッシュ(シャーレ)の中で作られた自分。

 優秀な頭脳を持つ人間としての期待のみで生み出され、当然の如く研究者になった。

 そして文字通り研究しかして来ていないネイトがこの技術で生きるためには、他の選択肢など存在しなかった。

 後ろ盾になる、あるいは後ろ髪を引く存在としての『家族』もいない。


「その程度で? だったら何もここじゃなくても他にいくらでも、──まあ欠員が出たからか」

 少し呆れたように呟いて、彼は淡々と自分について話す。


「私は浮気した妻とその相手を殺めたんだ。裏切りだけは許せない質でね。妻を拘束して、目前で男を『分解(バラバラに)』した。末端から少しずつ、ただの部位(パーツ)にね。その後は正気を保っていたかも怪しい妻を同様に。……なかなかに骨の折れる作業だったよ」

 まるで世間話のような何気ない、気楽にも聞こえる口調だからこそ背筋に冷たいものが走った。

 この男はきっと後悔も反省もしていない。

 殺人よりも、マックスにとっては信頼に対する背信行為のほうが遥かに重罪なのだろう。


「とりあえず、私が君の案内役を仰せつかった。今後も疑問点や要望があれば私に。……所長は名ばかりで、技術者としてはともかく管理職としてはなんの役にも立たないからね。部下が全員『まとも』じゃないからそこは同情するよ」

 確かにこういう「部下」は扱いづらいことだろう、と表には出さないままにネイトはすんなり納得した。


「こちらが君のスペース。業務についてはどこまで聞いている?」

 先導されて辿り着いた個人ブースのロックを解除した彼は、まずドアにネイトの「網膜の静脈パターン」を登録させた。

 その後マックスに促され、中へ踏み込む。


「人間のクローン研究をしているとだけ。確かに僕はクローン(それ)が専門ですが、人間を作った(・・・)ことはなくて……」

「そりゃ禁止事項だから当然だよ」

 先輩研究員があっさりと返してくる。


「根本的にここでは、オリジナルが誕生するのとほぼ同時進行でクローンを作成する。臓器ではなく君の言った通り『一から人間を作る』。つまり倫理的には最もアウトな研究だってことさ」

 有り余る金と力の両方を持つ者が、己の跡を継ぐ子の『スペア』を望む。

 大切な後継者の、予備の臓器の生きた容れ物としての複製(レプリカ)を。

 彼らにとっては至極当然の思考だとしても、「表向きの姿勢」は繕わなければならないのだ。

 この、……あくまでも「外の」社会で、上の存在として居続けるために。


「最も重要なのは、複製(クローン)は『人間』じゃないってことだな」

「それは僕もわかっています」

 基礎の基礎だ。何を今更、とネイトは頷く。


「そうだね。でも教えれば、まるで人間みたいに(・・・・・・)自分の意思でも動くんだよ。組成は人間と変わらないからな。ペットもそうだろう? 動物だと理解していても、懐けば可愛いし家族同然と見做す層もいる。同様に、勘違いしても無理はないんだ。──若い人は特に引き摺られやすいからくれぐれも注意を」

 マックスはひとり淡々と続けた。


「ここのクローンはいずれオリジナルのために『解体』される存在として割り切るのがもっとも平和だ。最初からそのために作られた複製だから」

 息を呑むネイトにも、彼は表情一つ動かさない。

 マックスは常識を述べたに過ぎなかった。

 衝撃を受けるほうが未熟なのだ、と自戒する。


「人工的に培養はできても、『促成栽培』は今の技術ではまだ無理だからな。人間を、……子どもを作るってことは育てる必要があるんだ」

 それは当然理解していた。経験はないけれども。


「新たな『依頼』が入るまでは、今いるクローンの管理が重要度としてはメインになる。新規の依頼は滅多にないよ。莫大な費用と労力が掛かるからね。ここで最も新しいのは生産後七年だったかな」

 我が子のスペア作成を考え、現実に実行できる人間はそう多くはない筈だ。

 そもそも純粋な「クローン作成とその管理」に掛かる費用なら、そこまで桁外れだとは思えない。

 何よりも「極秘遂行」が重視されるからこそだろう。

 本音では罪悪感など欠片も持っていなくとも、「社会的に」後ろ暗いことだ、という認識は見せつけなければならない。形だけでも。


「君の担当二体のデータも入っているから目を通して。パスもとりあえず私にしていたのを解除したから、自分の網膜で登録するように」

 卓上の専用端末を操作して彼が呼び出した、空間に映像として浮かぶデータを指しての言葉に頷く。

 しかし、文字列に走らせた視線が違和感で止まってしまった。


 《ID:F-176-2》

 識別番号はいい。問題は次の……。

 《NAME:Letty(レティ)


「あの、ここでは『研究対象(クローン)』に名前を付けるんですか?」

「君は大学で、例えば解剖目的で飼育していた実験動物に愛称なりを付けていたのかい?」

 あまりの驚きに思わず漏れた疑問に、マックスが逆に訊き返して来た。


「まさか!」

 そんな事は考えたこともない。


「そういうことだよ。まずあり得ない。識別ナンバーそのままでは呼びにくいから実際に使用する呼称は別に決めるけれど。無機質なものをね」

 やはりそうなのだ。それはそう、だろう。


「そのF-176-2の場合、本来なら〝V17(ヴイセブンティーン)〟になる。……君の前任者が『特別』だったんだ」

 前任者。

 彼も先ほど「欠員ができた」と言っていた。

 だから、通例ではここに来ることはないネイトが送られて来たのだろうと。


「……そういえば、僕の前任の方はどうして、その」

 このラボは比喩ではなく最後の地だ。先はない。

 研究者としてのみならず、単なる一個人としても一生監視下に置かれると決まっていた。『機密』を知る人間を野放しにはできないからだ。

 つまり、生きている間に自由は与えられない、筈。

 ここに来ることになる前も、半ば配属が決定してからも、詳細を知らせる前に、としつこいくらいに念を押された。

 それはネイトには(・・)『選択権』があるという証左でもある。


「担当していたクローンが『出荷』されて、彼女(メイサ)は病んだ。今は、……実質檻の中、だな」

 施錠された病室、か?

 もし何もわからない状態だとしたら、その方が本人にとってはいいのかもしれないと感じる。

 これも単に他人事だからだろうか。


「その『出荷』されたクローンは、用済みで処分されたんですか?」

「いや、戻って来ている。今は私が見ているよ。当時、必要なのは一部だけだったんだ。まだ使える(・・・)からね、他の臓器や何かは」

 ネイトの質問に答えた彼は、前任者の担当だった残り二体のうち一体は他の研究員に引き継がれた、と付け加える。


「メイサは愛情があまりにも強かった。執着と言い換えてもいい。──生まれたときから『育てた』クローンに、思い入れ過ぎてしまったんだろうな」

 そもそもここに来たのも、束縛に疲れて別れを切り出した恋人を殺害したかららしい、とついでのように教えてくれる。


「自宅で恋人の遺体のすぐ傍らで、『切り離した頭部』を抱えて蹲っていたところを発見されたそうだよ。姿を見せない彼女を心配して、家を訪ねた研究室の同僚に。……どのくらいそうしていたのかね」

 年齢はさほど変わらないが、彼女のラボでのキャリアはマックスよりずっと長かったのだという。

それだけ若い頃に事件を起こしたということか。突出して優秀だからこそ、多少視野も狭かったのかもしれない。


「担当クローンの呼び名を、メイサはオリジナルの名前のアレンジで付けていたようだ。〝レティ〟と〝エリー〟、私が受け持っている欠損した個体は〝リフ〟」

 改めてデータを確認すると、受け持ちのもう一体は《ID:M-307-4》 《NAME:R30(アールサーティ)》になっていた。


「〝R30〟はオリジナルの名の頭文字がRなんだ」

 呼称の付与にも、この研究所(ラボ)特有の法則があるようだと理解する。


 〝レティ〟ことF-176-2は生産後十三年、〝R30〟ことM-307-4は十一年。

 性別は識別番号でわかる。前者はF、つまりFemale(フィメール)で女。後者はM、Male(メール)で男だ。


「とりあえずはこれくらいかな。不明点はその都度確認してくれればいい」

「はい、ありがとうございます」

「君はきちんと理解していそうだけれど。──実質、ここから二度目の人生が始まると思ったほうがいい。『俗世』のナサニエル ブライトは死んだも同然だから。外での栄光は捨てた方が楽になる」

 もちろんわかっていた。

 だからこそ夢も希望もない、目を見開いても光の一筋も見いだせない現状を受け入れるべく、どうにか前を向こうとしているのだ。


 突然に己を襲った不幸な出来事を嘆き哀しみ、打開策を模索して藻掻いた日々は無駄に終わった。

 強制終了からの再起動、と例えるほどには割り切れていないものの、すべてを完全な過去として葬り去る覚悟を決めた。


 現実にもリセット(やり直し)ボタンがあったのだけが幸いだと、今は思うしかない。

 たとえ闇の中であろうとも、ネイトは唯一持つ能力を発揮できることだけに縋る道を望んだ。

 無理強いされたわけではなく、選択の結果として。

 市井の一人の人間としてよりも、研究者として生きることを自ら選んだのだ。マックスの言葉通り、ネイト程度の瑕疵なら人生が終わるレベルでもなんでもない。

 これまでの人生で、他のすべてを犠牲にする勢いで身につけた、──生まれて来た意味だった筈の能力を活かした技術を封印する勇気がなかった。

 ただそれだけのことだ。



Nate~ネイト~【2】


「〝レティ〟。今日からお前の担当になるDr.ナサニエル ブライト。お世話してくれる人だ」

「ナサ、ニエル先生……?」

「ネイト先生。で、いいかな?」

 突然振られ、ネイトは反射的に頷いた。


「構わないそうだよ。だからこれからはネイト先生の言うことをよく聞きなさい」

「うん!」

 喋っている。

 マックスと普通に会話が成り立っている。『実験動物』が!

 目の前で繰り広げられている光景は、ネイトにとっては大袈裟ではなくカルチャーショックだった。

 先に見せられた〝R30〟は、ベッドの上でうつろな赤茶色の瞳で膝を抱えていた。

 中途半端に伸びた癖だらけの赤い髪で、マックスが新担当を紹介する声にも大した反応を示すこともなく。

 一般人から見れば明らかに異常な状態なのかもしれない。しかし、ネイトにはそちらこそが平常なのだ。


「ネイト先生の髪、わたしともマックス先生とも全然違うわ。メイサ先生の茶色とも。空間ディスプレイ(画像)でしか観たことなかったけど、こういうのが金茶色って言うの? 瞳は空の色ね。空はよく知ってる!」

 矢継ぎ早に発せられる声に圧倒される。

 緩いウェーヴの掛かった長い金髪。興味津々といった調子で明るく問い掛けて来る、煌めく(すみれ)色の瞳の持ち主。

 膝下丈の白いTシャツのような飾り気のない着衣でも、いやだからこそ素の顔立ちが引き立つ美しい『人形(クローン)』。


「先生は何を教えてくれるの?」

「え、え……。何、って」

 訊かれた内容に理解が即座に追いつかず、ネイトは口籠ってしまった。


「メイサ先生は字とか絵とか、あと歌も教えてくれた!」

 口話だけではなく文字まで!?

 その上絵だの歌だの、もう意味不明だ。いったい前任者(メイサ)は何を考えていたのだろう。

 形だけは人間の、オリジナルの部品でしかないたかが実験体に。


「ねぇ、先生! 今日から勉強するの?」

 くだらない、理解できない、と確かに考えていたのに。ネイトは結局()われるままに〝レティ〟に授業を行うことになった。


「ああ。算数をやろうか。数字は知ってるんだよな?」

「そんなのメイサ先生に最初のうちに習って全部覚えた。十個しかないもん、簡単。わたし、掛け算や割り算もできるんだよ!」

 研究員は担当クローンの世話だけしているわけではない。

 いくらそれがメインとはいえ、もちろん他にも業務があった。むしろ、物理的な時間では他の要件の方が多い。たとえ新たな培養に掛からなくても、細かい仕事はいくらでもあるからだ。

 そして、専門職としては研鑽も怠れない。

 常に最新の技術に対応できるよう、知識のアップデートは必須だった。研究者として熱心であればあるほど、そちらにも時間を取られてしまう。

 もう出世も名誉も霞の向こうの遠い世界になったというのに、適当に手を抜く気はなかった。やはり研究が好きなのだ、とネイトは改めて考えている。

 理屈ではなく、単なる「社会の名もない小さな歯車」として働く凡庸な生活が嫌だったわけでもなく。

 結局「名が出ない」状況は同じでも、ただ研究を捨てたくなかっただけなのだ、と今更のように実感した。


「できた! ネイト先生、見て!」

 問題が解けた、と〝レティ〟が両手を上げてアピールする。

 〝レティ〟は生産されて十三年経つ。人間として言うなら十三歳か。

 当然ながら一般人のように学校に行くことなどはない。あくまでもメイサが空き時間に教える程度でしかなかった。

 そのため、同年齢の普通の人間と同じ知力・学力とは到底言えない状態ではある。

 しかし実際に教えてみると、このクローンは非常に優秀な『生徒』だった。調べた結果IQが高い。

 オリジナルはどうなのだろう。一卵性双生児でも、知能は完全に同一とは限らないのだ。

 大学で研究の傍ら教鞭を執っていた経験からも、なんであれ吸収の早い相手に指導するのは楽しくさえあった。


「ん-? おお、ホントにできてる。凄いな、〝レティ〟」

「わたしすごいの!? 嬉しい! 先生大好き!」

 身体ごと左腕にしがみつくようにして、満面の笑みで告げられて困惑する。


「……そういうことは言っちゃダメだ」

「どうして?」

 見上げてくるきょとんとした表情と透き通った瞳に、ネイトの中の何かが揺らいだ。


「どうしても! ──えーと、『女の子』は慎みが必要だから!」

「……? なんか全然わかんない、けど先生が言うならやめる」

 自分でも何を意味不明なことをと思いながらも、表面的な説教じみた言葉を並べる。


「〝レティ〟、そういえば前は『絵』も教わってたんだよな? 道具は何を持ってる?」

 足りないものがあったら揃えてやらなければ、と軽い気持ちで尋ねたネイトに、〝レティ〟は首を傾げた。


「なに……、って? わたし、何も持ってないよ?」

 屈託もなく答える目の前のクローン。


「あ、そ、そうか。じゃあ全部だな。またやってみるか?」

「お絵描きやりたい! いっぱい描いたら上手になるってメイサ先生が言ってた!」

 嬉しそうな〝レティ〟に「お前がやりたいことは何でも」と、どうにか笑顔で返す。


 〝レティ〟を部屋に戻し、自分のブースへ向かう途中でマックスと行き合った。


「マックス。〝レティ〟は私物を持っていないんですね」

「……君、自分が何を言っているか理解しているか?」

 先輩の返答を聞く前に、ネイト自身が我が口から溢れた言葉に動揺してしまう。

 実験体が、画材に限らず「自分のもの」を所有しているわけがない。それがネイトの常識で、──今も考え方自体は変わってはいないのに。


 確かに、「外の世界を垣間見るデバイス」も個々に割り当てられた部屋にはなかった。

 さっきのネイトと〝レティ〟のように、研究員立ち会いのもとでしか使えない。

 それはそうだ。ここのクローンは「自由自在に情報に触れる」ことなど許される存在ではないのだから。

 いや、そもそもそんな「待遇」を受けているのは、〝レティ〟を含めメイサが見ていた三体のみだ。


「あ、ああ。すみません。僕は〝レティ〟に絵を、絵──」

「画材でも楽器でも、何でも与えてやればいい。申請すれば支給されるさ。以前はメイサがあれこれ用意してやっていたが……。彼女に関わるものはすべて撤去されたから、そのときにまとめて処分されたか」

 混乱を隠し切れないネイトを咎めるでもなく、彼はあっさり告げて来た。

 〝レティ〟のものにはならないが、ラボのものとしてなら使わせることに制限はない、ということなのだ。


「ほら見て、これわかる? わたし、先生の顔を描いたの!」

 届いた画材を見せられて歓声を上げた〝レティ〟は、早速夢中でなにか描いていた。

 手を止め顔を上げて、上気した頬でネイトを呼ぶ。


「ああ、うん。わかる。上手だよ。……でも俺、こんな格好良くないけどな」

 専門の美術教育など、〝レティ〟は当然受けたこともなかった。

 そのため「子どものお絵描き」同然だとしても、空間認識能力が高いのか特徴をよく捉えている。


 本格的に教えたら、きっと伸びるのではないか。

 そんな詮無いことが頭を過り、ネイトは即打ち消した。

 実験体に美術の素養など不要だ。また何を無益なことを考えている?


「え〜、先生は格好いいよ! わたしの絵よりずっと!」

「……そりゃどうも」

「じゃあ次はねえ──」

 素っ気ない口調で返しつつも、ネイトは自分の心情が急激に「職務上、かくあるべき軌道」を外れていくのを感じていた。


 ──可愛い〝レティ〟。

 ふと浮かんだ己の感情に困惑さえ覚える。どうしてこんな、愚にもつかない……。


 殺傷する実験対象に名前を付けてはならない。

 研究者の経験から来る鉄則だった。意識するかどうかに拘わらず、名前ひとつで情が移ってしまう。

 科学者としても、どうしても笑い飛ばせない事実なのだ。

 これは単なるオカルトとは違う。


 一体自分は何をしているのか、とふと我に返ることはあった。

 それでも、懐いてくれる素直で可愛い「生徒」との時間は確かに楽しかった。

 周りのすべてから隔絶された異様な空間で揺蕩(たゆた)うかの如く。

 ネイトはこの御伽噺のような、白昼夢のような優しい生活が何も変わらずこのまま続いて行くのではないか、と感じ始めていた。


 ──現実逃避、していた。そんな筈はないのに。



Nate~ネイト~【3】


「……う、ん?」

 真夜中、ベッドの中で惰眠を貪っていたところを耳障りな呼び出し音に起こされた。


『ネイト! いま部屋か?』

 マックスの声だ。

 常に低温を保っているかのような彼が、いつになく慌てているのが伝わって来る。問い掛けの内容からも。


「そうです。寝てました。他にどこに行けと?」

 研究所(ラボ)のスタッフは全員この宿舎での居住を義務付けられている。この生活も、もう二年が過ぎた。

 相当広いとはいえ、敷地内から出ること自体がまず許可されない。


 しかし必要なものは申請すれば、審査は経るが「立場上、明らかに非常識」なものでなければ大抵は支給された。

 ネイトは申請したものを却下されたことは一度もない。

 殊に研究に関しては、「金に糸目をつけない」という意味をここに来て初めて知った気さえする。望めばどんな機材や資材も、理由も問わず揃えてくれるのだ。

 むしろ『外』の、ネイトが足元にも及ばない名のある教授(プロフェッサー)より恵まれた環境かもしれない。

 彼らの多くは、大学側と研究予算を巡り常に苦労を重ねているのを知っているからこそ。


 食事もすべて供されるし、希望すれば身の回りの雑事、──掃除や洗濯も任せきりにできるので、自由がないことに目を瞑れば特段の不便はない。

 ネイトは居室内のことは自分で賄ってはいたけれど。 

 まるで囚人のようなと忸怩たる思いを持っていたのは最初だけだ。馴染んでみれば、意外なほどに過ごしやすかった。

 だからと言って、何もかも好き勝手にはいかないし、家庭を持つのは無理だ。それも含めて、人生を売ったと思っている。

 しかし内情については、言うまでもなくマックスの方が熟知している筈なのにどうしたというのか。

 半ば寝ぼけていて(いささ)か失礼な返答になってしまったが、彼は気にする余裕もなさそうだった。


『〝レティ〟の「出荷」要請が入った! オリジナルが事故で重体だそうだ。すぐ来てくれ!』

「は、はい!」

 あまりにも衝撃的な知らせに、眠気など瞬時に吹き飛んでしまう。

 着替える暇さえ惜しく、パジャマ代わりの部屋着の上に丸めて放り出してあった白衣だけ羽織って、ネイトはドアを開け自室を飛び出した。

 研究所は宿舎のすぐ目の前だ。


 ──〝レティ〟、お前は。……俺、は?


「ネイト、とにかく早急にデータを揃えろ! あとは連絡が来たら引き渡すだけだ」

 〝レティ〟を、データと共にオリジナルの治療に当たっている医療機関へと。移送される対象はもう「眠らせて」あると、ここに着いてすぐ知らされていた。


 ──〝レティ〟、俺は、……俺はこれから、お前を「解体」する準備をするんだ。どうして、俺は、どうして。


 最初からわかっていたことだ。〝レティ〟を知る前、初めてこのラボに顔を出した日にマックスに忠告されていた。

 彼は当然の如く承知していたのだ。「実験体(クローン)」に思い入れると、苦痛が待っているだけだと。


 それでも、これがネイトの「仕事」だった。

 意識と身体を強引に切り離すように、無心でデータにアクセスする。考えたらその時点で止まってしまう。

 このデータを呼び出して整えたら、即座に〝レティ〟の出荷票になるとわかっているからこそ。

 所詮、駒なのだ。

 〝レティ〟を想うなどと耳障りの良いお題目を唱えながらも、現実にはオーダーに従って動く己はただの矮小な卑怯者に過ぎない。

 内心の葛藤を必死で抑えつけていたネイトは、マックスが誰かと通話し始めたのにも気づかなかった。

 無意識に止まる手を、何故叱責されないのかも。


「もういい。助からなかったってさ」

 背後から肩に手を置いたマックスの静かな声に、自分の周りだけ時間が止まった気がする。


「オリジナルが、……死んだ?」

「そう」

「じゃあ、──あの子は? どうなるんですか!?」

 すべてが同じ(・・)だとしても、見も知らないオリジナルの生死よりネイトにとって重要なのは〝レティ〟だった。


「さあな。こういうケースは私も未体験だし、聞いたこともない」

 先輩がお手上げだとでも言いたげに、両掌を上に向けた芝居がかったポーズを取る。それさえもまるで計算された演技のようだった。

 すべてが舞台の上で行われているかのようで、どこか現実味がない。紛れもなく今現在、我が身に起こっている事象なのに。

 棒立ちのまま何もできずにいるネイトを放置して、マックスが「これから先」に向けて慌ただしく動き出した。



Nate~ネイト~【4】


「カーライル家の当主様が〝レティ〟を引き取りたいそうだ。亡くなったオリジナル()の代わりとして。これぞ『スペア』本来の使い方かもしれないな!」

 皮肉たっぷりに吐き捨てるようなマックス。彼がここまで感情を(あら)わにするのは珍しい。


「……そんな、こと」

 いったい何を言っている?

 握り締めた拳の震えが止まらない。

 目の前の先輩ではなくカーライル、……オリジナルの父親に対しての名称の付けられない感情が今にも溢れそうで制御できなかった。


「私の、ここに来てから八年間の経験では無論のこと、記録で見た限りでも例がない。前代未聞だよ。高貴な方々にとっては、何よりも『血』が大事ってことなんじゃないか? 遺伝的にはまったく同一なんだからな、間違いなく」

 ネイトの様子を見て内心を察したのか、マックスが述べる。

 おそらく間違ってはいないのだろう推論を。


カーライル家(あの家)の子どもは死んだ娘しかいなかった。やはり名のある家の出だった当主の妻は早くに亡くなっていて、両方の家系の血を受け継ぐ人間は存在しないし、もう『作れ』ないんだ。〝レティ〟以外には」

 血。遺伝子。

 何故そういう話になる!? 『娘』の代替という発想自体が理解不能だ。


 ネイトの感情は脇に置くとして。

 当主にとってはスペアであり複製(レプリカ)でしかない〝レティ〟はまだしも、生まれたときから慈しんで育てた『筈』の実の娘(オリジナル)さえ、単に血を途切れず繋ぐための道具でしかないということか?

 こんな風に思うのは、ネイトが過去から未来へ延々と継いで行かねばならぬものなど何も持たない身だからなのか。


「結果的にはメイサが言葉や文字や、……『人間』として必要なあれこれを教えたのが正解だったんだな」

 ああ、そうか。

 これが他の、例えば〝R30〟ならば?


 遺伝情報が一致する以外には知性も何もない彼を渡すことができるのだろうか。


    ◇  ◇  ◇

 もうすぐ、カーライル家からの迎えが来る。

 その前にどうしても、〝レティ〟と二人(・・)きりで別れの挨拶だけでも交わしたかった。

 本人は口を噤んだままだがマックスが裏で動いてくれたらしく、短時間でもどうにか面談が叶ったのは僥倖だ。

 一般的とは表現し難くとも、彼には彼なりの『人間味』はあるのだと先輩研究員に感謝した。


 前もって届いた衣装に着替えさせられた〝レティ〟は、初めて袖を通した鮮やかな色の服に喜色満面だったという。

 情報を完全に遮断されていたわけではない。当然ながら検閲の結果ではあるにしろ、〝レティ〟は「一般社会」の姿も画像や動画を通して多少は知っていた。

 生まれてこの方、実験体用の無粋な白い服しか着たことがなかったのだから、さぞや嬉しかったことだろう。

 詳しい事情を聞かされるまでの、束の間の歓喜でしかなかったようだが。

 瞳の色に合わせたのか綺麗な青紫のドレスに、垂らしたままの金髪が映えて眩しいほどだ。


「〝レティ〟、俺から最後に伝えたいことがある。しっかり聞いてくれ」

「先生。わたし、──ここにいられないって本当?」

 否定して欲しがっているのが手に取るようにわかる〝レティ〟の質問にも、首を横に振ってはやれない。

 ネイト如きには関与できない部分で既に決定したことなのだ。


「……もう会うことはないけど、万が一俺やここの名前を聞くような機会があっても絶対に知らない振りをしろ。名家のご令嬢と、この胡散臭い研究所(ラボ)が繋がってるなんてあってはならないんだ」

 こんな根本的なことは、間違いなく最初に事情説明がなされた際に念押しされているだろう。

 ネイトもその程度のことに気付かなかったわけがない。

 ──ただの、口実だ。最後に〝レティ〟と共有する時間を捻出するための。

「ネイト先生──」

 〝レティ〟が何か言い掛けるのに、言葉を被せて止める。


「おま、……貴女は今から『レディ ヴァイオレット カーライル』。説明されたでしょう? だからラボのことも僕のことも全部忘れて、どうかお幸せに。貴女のこれからが順調なものであるよう、陰ながら祈っています」

 言わせたくないよりも聞きたくなかった。これ以上心残りを増やしたくない、ネイトの勝手な感情の発露だ。

 大きく見開かれた菫色の宝石(アイオライト)のような目が、みるみる潤んで行く。

 〝レティ〟の立場からすれば、信じていた者にいきなり突き放されたも同然か。

 まったく知らない環境で、知らない人間になれと言われて。


「──ネイト。終わりだ」

 ドアをノックすると同時に開けたマックスが、色のない声で告げて来た。

 無言で顎を引き、二人を見送ることなく目を逸らす。

 彼に連れられて部屋を出るために背を向けた〝レティ〟が振り向く気配がした。

 戸惑いか、哀しみか。何かが滲んでいるのだろうその瞳を、ネイトはどうしても見返すことができなかった。

 今なら少しは、……ごく僅かではあるが理解できる気がする。

 ネイトをこの地下(アンダーグラウンド)に追いやった例の教授の娘、前任研究員であるメイサ。

 己を相手を傷つけるほどに誰かを愛して、狂気に走った彼女たちの心情が。


 あの娘がもっと狡猾なら、父親に頼めばそれでよかった。

 教授からの話ならネイトは断らなかっただろう。突然の感情の押し付けに困惑しただけで、愛など無縁な当時のネイトにとって『誰でも同じ』だったのだから。

 それにより、教授の女婿(じょせい)という身分が手に入るとしたらメリットしかない。

 彼女がその手段を取らなかったのは、純粋にネイトが好きだったからに他ならないと考えられるようになった。

 当然、まだ十七だったのも影響している筈だ。若さゆえの潔癖さかもしれない。

 単に権力の絡まない、好きな相手(ネイト)との心からの関係を欲した。

 結果的な行動は間違っていたとしても。


 けれど、理性を捨て去ることだけは無理だった。

 掌の上で何もかもネイトの思い通りに動く、意思を持たない『操り人形(マリオネット)』が欲しいわけではないのだ。我が物にするために命を奪うなどあり得ない。

 〝レティ〟の姿をした抜け殻になど、いったい何の意味がある?

 手放したくない。可愛い。

 本心からそう思いつつも、それ以上にあの子には生きて幸せを掴んで欲しいと願う。

 決して手の届かない、目にすることさえ叶わない別世界においてではあっても。

 このまま研究所で飼われているより悪くはならない、と信じる以外ネイトにできることなど存在しない。


 彼女に性愛を感じたことはなかった。

 揺らぎそうになったことがないとは言わない。しかし、あくまでも本能による瞬間的なものに過ぎなかった。ただ、可愛くて大切だった。

 ネイトが最初から持ったこともない『家族』の幻想を具現化したような、そういう存在だったのかもしれない。

 ……知らないからわからない、けれど、おそらくは。


 この闇から抜け出せる、降って湧いた奇跡のようなリセットチャンス。

 いや、それ以前に実験体としては『未来(あす)』が存在するのかさえ疑問視される〝レティ〟の命を繋ぐ方法は、おそらく他にはあり得ない。

 彼女が掴んだのは、今にも切れそうな細い糸。それに縋る以外に希望などありはしないという事実を、〝レティ〟は知らない。

 だからこそ、ネイトが誘導してやらなければならなかった。それがあの子のために、最後にできることだと信じて。

 オリジナルが消滅した以上、すでに「部品」としての価値を失った複製品に金や労力を掛ける意味はないのだ。

 たったひとつ、オリジナルに取って代わる場合を除いては。


 さようなら、レティ(・・・)

 もうこの世には存在しない、『人間』になってしまった人形。

 告げる気は到底ないけれど、最後だからこそ心だけは誤魔化したくなかった。


 ──「女」としてではなくとも愛していたよ。俺は、お前を確かに。



Letty~レティ~


「ウィリアム、あとは頼むぞ。『ヴァイオレット』には少しでも早くパーティに出せる程度にはなってもらわないと」

  父親(・・)であるアンドリューは、連れて来られたレティに対してちらりと視線を寄越しただけで声を掛けてもくれない。


「はい、旦那様」

 主人の指示に、実直そうな執事(ウィリアム)が腰を折って承諾を返した。

 アンドリューを見送った後。


「──ヴァイオレット様、(わたくし)は当家の執事のウィリアム ハワードと申します。どうかウィリアムとお呼びくださいませ。お嬢様には今後覚えていただくことが多々ございます。マナー等はこのメイド頭のキャロラインがお教えいたします」

 執事が、気配も感じさせずに部屋の隅に控えていたメイド頭に合図し、近づいて来た彼女を紹介してくれる。


 執事の斜め後ろで深々と一礼したキャロラインは、多少ふくよかな体型に似合わない冷淡な雰囲気を醸し出していた。

 きっちりと結い上げた淡い金髪にもお仕着せ(メイド服)にも、一分の隙も見受けられない。

 続いて、隣室で待たせていたらしい小柄で纏めた髪も瞳も栗色の少女が呼ばれて来た。


「お嬢様の身の回りのお世話はこちらのジュリアが受け持ちとなりますので、ご要望などがあればなんでもお申し付けください。そのための『お嬢様付き』でございます」

 まだ若い、とはいえレティよりはいくつか年上だろう。

 緊張は隠しきれていないものの、素直で純朴そうな印象の少女だ。


「……お世話。じゃあジュリア先生?」

「いえ──」

「お嬢様、ジュリアはメイドです。『先生』ではございません。呼び名は『ジュリア』と。病院(・・)でのことは、一刻も早くお忘れくださいますよう」

 レティの常識は、答えようとするメイドを制して割って入った執事に否定された。態度や口調だけは丁寧な、しかしどこか冷ややかな彼に。

 そう、『ヴァイオレット』はずっと入院していたことになっている、と言い含められているのだ。


「ジュリア、お嬢様をお部屋へご案内しなさい。お召し替えと御髪(おぐし)も結って差し上げるように」

「すべてのお身支度が済んだら、わたくしを呼びにおいでなさい」

 執事の指示に続いて、先程は無言で頭を下げただけだったメイド頭が初めて口を開いた。


「はい、執事さん、キャロラインさん。かしこまりました」

 背筋を伸ばし二人に承諾を返したジュリアが、こちらに向き直る。


「ではお嬢様、参りましょう」

 促すメイドを困らせてはいけない、とレティは黙って顎を引いた。


 ジュリアに先導されて辿り着いた長い廊下の先。


「どうぞ、お嬢様。このお部屋です」

 研究所で見慣れた機能を追求しただけの平坦なものとはまるで違う、何やら飾り彫りの施された焦げ茶の背の高いドア。

 開いたその先は、今までの生活の場とはもちろん、映像で垣間見て来たような色の溢れる空間ともまた別物だった。


 正面には、レースのカーテンが躍る出窓。広い室内の調度品は落ち着いた色調で纏められている。

 鏡のついた机、椅子。艶やかな飴色の低いテーブル。ベッドは見当たらなかったが、細かい模様のある布張りの大きな長椅子(ソファ)

 レティが暮らしていた白い部屋とはなにかもが違う。『普通の人たち』はこういった美しい椅子で寝るのだろうか。そんなことは考えたこともなかった。

 確かにあの四角い寝台よりずっと柔らかそうではあるが、シーツも掛けるものもないのにどうするのだろう。


「わたし、この椅子で寝るの?」

「いいえ! あの、寝室はあちらのドアの続き部屋です」

 尋ねたレティに、メイドは驚いたように首を振って壁を指す。


「寝室……?」

「はい。こちらは普段過ごしていただくお部屋で、夜お休みになるときは寝室のベッドで……」

 説明しながら、ジュリアは部屋の奥に進んだ。

 その後を追って、彼女が開けてくれたドアの向こうを覗き込む。

 なぜだか、上に屋根とカーテンのようなものが付いた巨大なベッド。レティひとりにはいくらなんでも広すぎる、と戸惑う。


 それでも、とりあえず寝る場所は確認できた。

 訊きたいことは他にもあれど、何でも丁寧に誠実に返してくれるメイドには逆に余計な手間を掛けたくないと躊躇してしまう。


「お嬢様、こちらをお召しになるようにとのことです」

 いまレティが着ているものは外出用なのだろう。

 ジュリアが手にしたのは装飾の控えめな、けれどレティには十分豪奢に映る青いワンピースだった。


「うん、わかった」

「お手伝いいたします」

 背中にずらりと並んだ小さなボタンと、編み上げの細いリボン。たしかに優美なデザインではある。

 最初から「自ら着用すること」を想定していない服。「身の回りの世話を手伝う使用人(メイド)」の存在を前提とした、故意に階層を強調するかのような小道具なのだろうか。


「あの、すみません。あたしお屋敷勤めは初めてで、まだ慣れなくて」

「わたしは平気。じゃあ、えっと、ジュリアはここに来たばっかりなの?」

 衣装の扱いに四苦八苦しながら、着替えに手間取ることを詫びるメイドに頷き、問い掛ける。


「はい。執事さんとキャロラインさん以外の人は、皆さんお暇を取られたそうです」

 ほとんどの使用人が新参で、自分も含め田舎から出て来たばかりの者も多いと話す彼女。


 ──秘密を守るため。『ヴァイオレット』が入れ替わったことを隠すため、だ。


 だからこそ、経験の浅い若いジュリアがレティの担当になったのだろう。

 もし何らかの不信感を持つことがあったとしても、人との繋がりも力もない彼女では情報を漏らす先もない。

 また『長患い』のため、多少おかしな言動があっても病気のせいだと誤魔化せるという算段もあったのか。


「お嬢様がお優しい方でよかったです。ご病気で何ヶ月も入院されてるって伺ってて、どんな方なんだろうっていろいろ、あ、失礼しました!」

 気難しい『お嬢様』にお仕えするのかと心配していたのだろうか。


「大丈夫」

 焦って謝罪するメイドは、レティの声にほっとしたように息を吐いた。


「ではお嬢様。次は髪、あ、いえ、お、御髪(おぐし)を結いますので。痛かったら仰ってください」

「……髪もやってくれるの?」

 服もそうだったが、レティは髪を飾った経験など皆無だった。今も、髪には一切手を加えてはいないのだ。


「はい。あの、まだ編んでまとめるしかできないんですけど、練習しましたから! お嬢様のご希望があれば、これから少しでも上手くできるように頑張ります!」

 ヘアスタイルの知識などあるわけもないレティは、ブラシを片手に張り切る彼女にすべてを委ねることにした。


「お嬢様もですが、このお屋敷は本当に皆さんいい方ばかりなんですよ。怒鳴ったり殴ったりされることもないですから」

「……え!?」

 レティの金髪を慎重に梳かしながらの、メイドの台詞に衝撃を受ける。


「田舎のお屋敷では、近所の子達もひどい目に合ったって聞いてました。あたしも高校出たら奉公に上がることになるって親に言われてて、諦めてたんです。他にろくな働き口もないし」

 辛い目に合うとわかっていても行かなければならない? よく、わからない。

 しかしその疑問を口にする間もなく、彼女がぱっと顔を輝かせた。


「でもこのお屋敷からお話が来て! だからあたし、すごく恵まれてると思うんです。ずっとこちらにいたいです!」

 無邪気に喜びを表すジュリア。


 怒鳴られたり、殴られたり。そんな現実もあるのか。

 ああ、そうか。「お嬢様とメイド」の関係もきっと同じなのだろう。

 共に同年代の少女なのに明らかに分断されているのも、この世が「そういう社会」だからなのだ。

 レティはともかく、『ヴァイオレット』とジュリアの立場が反転する日は来ない。そしてジュリアはその現実を、至極当然の常識と捉えて生きて来たのか。


 ネイトは、研究所の生活が不幸だと言いた気だった。だからこそ、外に出て幸せになって欲しいと。

 他を見たこともないのでそういうものかと思っていたのだが、レティが知っていたのは本当に狭い限られた「世界」なのだろう。


──どうかお幸せに。


 この家の娘(・・・・・)として暮らすことが『ネイト先生』の希望ならば。

 レティは過去のすべてをなかったことにして、『ヴァイオレット』として新たな人生を歩む。


 先程ジュリアの話を聞いて初めて気付かされたように、あのラボで殴られることもなく「丁重に」扱われたのは、己が傷などつけることを許されない「部品」だったからだ。

 大切だったのはレティ(クローン)ではなく、ヴァイオレット(オリジナル)と同じこの身体。


 それでもレティは、この生活に全力で馴染むよう努力してみせる。たとえ真の意味で、「娘」として認められる日は来なくとも。

 彼のためならどんなことにでも耐えられる。

 二度と逢えなくても、他のことは全部忘れるよう強要されても。『先生』が教えてくれた大切なことだけはレティの中から消せない。消えない。

 己以上に想う誰かがいる。この思慕の名は単なる信頼ではない気がした。これが愛というものではないのか。


 レティにとっては親代わり同然だった『メイサ先生』より、遥かに特別で好き(・・)なネイト。

 無味乾燥な暮らしに、色と温度を運んでくれた彼。

 メイサと勉強するのは楽しかった。彼女のことが好きだった。

 けれどレティに幸せという感情を教えてくれたのは、間違いなくネイトだ。


 アンドリューも、オリジナルのヴァイオレットも、遺伝子のつながりは確かにあるものの、決して『家族』ではない。

 レティに『家族』などいない。

 しかしもし父や兄がいたら、きっとあんな風に可愛がってくれたのではないか。愛してくれたのではないか。

 家族としてでも、そうではなくても、ネイトはレティの中で特別な存在だった。


 ヴァイオレット カーライル。


 今日になって、初めて聞かされた名前。存在。

 今は、自分のものになった。レティは彼女の影ではなくなったのだ。


 ──先生、これがわたしの幸せなの?


 わからない。

 けれどネイトが言うのなら、レティもそう考えるようにする。頑張る姿を、遠くで見ていて欲しい。心の目でいいから。

 絶対に、彼を忘れない。


 名前も習慣も、レティが持っている何もかもを変えるよう強いられて、最初からなかったことになる。

 別人として生きるというのは、きっとそういうこと。


 けれどもこの心の中だけは、決して誰にも弄れない。



Regeneration【V】


「ごきげんよう、お父様」

「ああ、ヴァイオレット。……お前、いくつになった?」

「二十一歳です」

 数日ぶりに顔を合わせた父に問われ、答える。


「もう二十一、か」

 この家に来て、──『ヴァイオレット』になって六年が過ぎた。

 その間レティは、ほとんどこの屋敷から出たことはなかった。学校にも通っていない。


 学業も良家の娘としての嗜みの習い事も、それぞれ専門の家庭教師がついていた。

 外出するのは、どうしても避けられない社交の場のみ。家としての付き合いで必須なパーティに出席しても、ぴったりと張り付いた侍女に何もかも任せておけばいい。


「ヴァイオレット様は毅然となさって、決して隙など見せられませんようただ微笑んでいらしてくださいませ。上流のお嬢様は、軽薄にお話しになる必要はございません」

 執事やメイド頭に言い含められたとおり、パーティでは侍女が取り仕切ってくれた。

 促されたときだけ、名を名乗り簡単な挨拶をする。威厳は崩さないよう、レティには無縁だが尊大にはなりすぎないよう。


 自分がこの家を存続させるための部品(ピース)でしかないと、この六年で十分すぎるくらいに学んだ。

 父の決めた、この家に似つかわしい相手と結婚して、子を為す。レティの役目はただそれだけ。

 人間になった今も変わらず、所詮『人形』なのだ。


 それなのに未だ縁談の話さえ出ないのは、やはり後ろ暗い『出自』のせいだろうか。


    ◇  ◇  ◇

「ヴァイオレット。今日は客が来る。研究所の、……この家にとって非常に重要な方々だから挨拶するように。お前も我が家の一員として知っておくべきことだ」

「はい、お父様」

 相も変わらず淡々とした父の言葉に、逆らう気もなく従順に答える。この家では、レティに自我など必要とされなかった。


「お嬢様。もうすぐお客様がお出でになると、旦那様がお呼びでいらっしゃいます」

「わかったわ、ありがとう」

 準備を整えて待っていた自室で、呼びに来たメイドのジュリアに頷き彼女に伴われ客間に向かう。

 ここで唯一、レティの腹心と言って差し支えない存在。

 秘密を明かすことはできるわけもないが、年齢も近く人柄もいい彼女がいたから耐えてやって来られた部分は確かにあった。


 執事に案内されて部屋に入って来た客人を父と並んで迎える。


「娘のヴァイオレットです。ヴァイオレット、こちらはお世話になっている研究所の方でいらっしゃる」

 言葉は丁寧だが決してへりくだってはいないのが伝わる父の紹介に、レティはなんの感情も湧かないままマナーとして相手と視線を合わせた。


 (あらすじ)

突然の理不尽な事件のために将来を閉ざされた男は、辿り着いた非合法研究所ラボで美しい『人形』に出逢う。 


ネイトが研究者として生きるためにやって来たラボ。

二度と戻れない覚悟で訪れた場所で彼を待っていたのは、癖の強い先輩と生産後13年のクローン・レティだった。

前任者に人間のような教育を施されたらしい「実験体」にネイトは戸惑う。

所詮ここのクローンはオリジナルの予備部品でしかない存在で、『人間』ではないのに。


喋る、笑う、──無邪気に慕ってくる感情豊かな美少女。

人間の形をした「実験体」にネイトの研究者としての常識が揺らいだ。


可愛い、愛しい、レプリカドール。


お前にこの先待ち受けているのは……。



 *「R15」にしていますが、「性描写」は一切ありません。多少残虐表現があるためです。



*****

【Prologue】


 ──この世界は成熟して、停滞して、……とても歪だ。


 上下、優劣が基本的には固定された社会。


 生まれ持った身分に、そこに付随する金、そして頭脳、才能。

 身分はもちろん貧富の差も、知能の差も。表向きの「建前」はともかく、実質覆ることはほぼない。


 鮮やかな形勢逆転など、早々起こらない。


 そして身分や能力が尊ばれる社会だからこそ、「大義名分」は決して蔑ろにできないのだ。

 たとえ表面的なものであっても。


 人間は等しく公平だと謳われているのだから。


 人間(・・)は。


 だからこそ無秩序な弱肉強食とは程遠い、整えられた社会のかたちを維持するために希望は存在しなければならない。



 まるで壮大な、観客のいない舞台のように。




Nate~ネイト~【1】


「やあ、Dr.(ドクター)ナサニエル ブライト。ようこそ、この研究所(ラボ)へ」

 新生活に対する期待や高揚など欠片もなく、敷地内の宿舎から暗い気分で訪れた勤務先。

 初出勤としての形式を整えたに過ぎなかったが、自室に用意されていたスーツを身に着けて来た。こんなものが必要な場面などあるとは思えないのに。

 わざわざ「外」から持ち込むほどの、思い入れのある私物などありはしない。「生活に関してはすべて手配する」と聞かされてはいたが、ここまでだとは予想もしなかった。


 明るい声と笑顔で迎えてくれたのは、白髪交じりの黒髪の白衣を着た男だ。ただし、細いフレームの眼鏡の奥の灰色の目はまったく笑っていない。


「ネイトで結構です。え、っと」

「失礼、私はマクシミリアン グリーンヒル。ここでは八年目だから、君の『先輩』になる。ではネイト、どうぞ私のこともマックスと」

 名乗った彼は四十代も後半だろうか。二十八歳のネイトより二十近くは年長に思われた。

 痩せているので長身に見えるが、実際に対面で立つと明らかに目線が低い。


「で? 君は何をやった(・・・・・)の?」

「……!」

 軽く問われて咄嗟に声が出ないネイトに、マックスは苦笑する。


「ああ、すまない。詮索する気はないし、無理に打ち明ける必要なんてないんだ。──所詮ここに来るのは皆、何かやらかしたけど優秀だから飼い殺しにされている同じ穴の狢(同類)だよ。私も含めてね」

 どんな罪を犯しても、「優れた頭脳の持ち主」が真の意味で一般人同様に断罪されることはない。


 とはいえ、完全に無罪放免というわけでもなかった。彼の言う通りに。

 現実に、このラボの研究員はほぼ例外なく「法的な重罪を犯した人間」だ。

 具体的には殺人、──それも「猟奇的」がつくようなものも珍しくはない、のだろう。

 ただ、そういった犯罪者も「外の社会」では服役している、……あるいは処刑されたということになっているのかもしれない。

 社会秩序を保つために。

 ネイトの周囲にはそういう人間はいなかったので、実例としては知る由もなかった。


「別に構いません。大学に残って研究していたら、教授の娘にその、一方的に好かれたというか。研究室で告白されて断ったら、その場で手首を──」

 誰かを愛したことなどはない。特別な存在を持ったことも。

 突然「好きだ」と告げられ、まだ高校生だった彼女に「子ども相手にそういうことは考えられない」と口にした。

 すぐ傍らの机にケースごと放置されていたメスに手を伸ばした少女を、止める隙もなかった。

 いったいあの場でどう返すのが最適解だったのか、ネイトは今もわからないままだ。


 彼女は命に別状があったわけでもなく、(あと)は残るかもしれないが傷もさして深くはないという。

 それでも、引き立ててくれた教授が居たからこそ開けていた輝かしい将来は一瞬にして潰えたのだ。

 能力だけはあると惜しまれて、非合法の研究施設(このラボ)送りになったというだけの話だ。

 広いようで狭い研究者の世界では強大な力を持つ教授の手前、少なくとも専門では陽の当たる道は歩けない。


 優れた遺伝子を掛け合わせ、ディッシュ(シャーレ)の中で作られた自分。

 優秀な頭脳を持つ人間としての期待のみで生み出され、当然の如く研究者になった。

 そして文字通り研究しかして来ていないネイトがこの技術で生きるためには、他の選択肢など存在しなかった。

 後ろ盾になる、あるいは後ろ髪を引く存在としての『家族』もいない。


「その程度で? だったら何もここじゃなくても他にいくらでも、──まあ欠員が出たからか」

 少し呆れたように呟いて、彼は淡々と自分について話す。


「私は浮気した妻とその相手を殺めたんだ。裏切りだけは許せない質でね。妻を拘束して、目前で男を『分解(バラバラに)』した。末端から少しずつ、ただの部位(パーツ)にね。その後は正気を保っていたかも怪しい妻を同様に。……なかなかに骨の折れる作業だったよ」

 まるで世間話のような何気ない、気楽にも聞こえる口調だからこそ背筋に冷たいものが走った。

 この男はきっと後悔も反省もしていない。

 殺人よりも、マックスにとっては信頼に対する背信行為のほうが遥かに重罪なのだろう。


「とりあえず、私が君の案内役を仰せつかった。今後も疑問点や要望があれば私に。……所長は名ばかりで、技術者としてはともかく管理職としてはなんの役にも立たないからね。部下が全員『まとも』じゃないからそこは同情するよ」

 確かにこういう「部下」は扱いづらいことだろう、と表には出さないままにネイトはすんなり納得した。


「こちらが君のスペース。業務についてはどこまで聞いている?」

 先導されて辿り着いた個人ブースのロックを解除した彼は、まずドアにネイトの「網膜の静脈パターン」を登録させた。

 その後マックスに促され、中へ踏み込む。


「人間のクローン研究をしているとだけ。確かに僕はクローン(それ)が専門ですが、人間を作った(・・・)ことはなくて……」

「そりゃ禁止事項だから当然だよ」

 先輩研究員があっさりと返してくる。


「根本的にここでは、オリジナルが誕生するのとほぼ同時進行でクローンを作成する。臓器ではなく君の言った通り『一から人間を作る』。つまり倫理的には最もアウトな研究だってことさ」

 有り余る金と力の両方を持つ者が、己の跡を継ぐ子の『スペア』を望む。

 大切な後継者の、予備の臓器の生きた容れ物としての複製(レプリカ)を。

 彼らにとっては至極当然の思考だとしても、「表向きの姿勢」は繕わなければならないのだ。

 この、……あくまでも「外の」社会で、上の存在として居続けるために。


「最も重要なのは、複製(クローン)は『人間』じゃないってことだな」

「それは僕もわかっています」

 基礎の基礎だ。何を今更、とネイトは頷く。


「そうだね。でも教えれば、まるで人間みたいに(・・・・・・)自分の意思でも動くんだよ。組成は人間と変わらないからな。ペットもそうだろう? 動物だと理解していても、懐けば可愛いし家族同然と見做す層もいる。同様に、勘違いしても無理はないんだ。──若い人は特に引き摺られやすいからくれぐれも注意を」

 マックスはひとり淡々と続けた。


「ここのクローンはいずれオリジナルのために『解体』される存在として割り切るのがもっとも平和だ。最初からそのために作られた複製だから」

 息を呑むネイトにも、彼は表情一つ動かさない。

 マックスは常識を述べたに過ぎなかった。

 衝撃を受けるほうが未熟なのだ、と自戒する。


「人工的に培養はできても、『促成栽培』は今の技術ではまだ無理だからな。人間を、……子どもを作るってことは育てる必要があるんだ」

 それは当然理解していた。経験はないけれども。


「新たな『依頼』が入るまでは、今いるクローンの管理が重要度としてはメインになる。新規の依頼は滅多にないよ。莫大な費用と労力が掛かるからね。ここで最も新しいのは生産後七年だったかな」

 我が子のスペア作成を考え、現実に実行できる人間はそう多くはない筈だ。

 そもそも純粋な「クローン作成とその管理」に掛かる費用なら、そこまで桁外れだとは思えない。

 何よりも「極秘遂行」が重視されるからこそだろう。

 本音では罪悪感など欠片も持っていなくとも、「社会的に」後ろ暗いことだ、という認識は見せつけなければならない。形だけでも。


「君の担当二体のデータも入っているから目を通して。パスもとりあえず私にしていたのを解除したから、自分の網膜で登録するように」

 卓上の専用端末を操作して彼が呼び出した、空間に映像として浮かぶデータを指しての言葉に頷く。

 しかし、文字列に走らせた視線が違和感で止まってしまった。


 《ID:F-176-2》

 識別番号はいい。問題は次の……。

 《NAME:Letty(レティ)


「あの、ここでは『研究対象(クローン)』に名前を付けるんですか?」

「君は大学で、例えば解剖目的で飼育していた実験動物に愛称なりを付けていたのかい?」

 あまりの驚きに思わず漏れた疑問に、マックスが逆に訊き返して来た。


「まさか!」

 そんな事は考えたこともない。


「そういうことだよ。まずあり得ない。識別ナンバーそのままでは呼びにくいから実際に使用する呼称は別に決めるけれど。無機質なものをね」

 やはりそうなのだ。それはそう、だろう。


「そのF-176-2の場合、本来なら〝V17(ヴイセブンティーン)〟になる。……君の前任者が『特別』だったんだ」

 前任者。

 彼も先ほど「欠員ができた」と言っていた。

 だから、通例ではここに来ることはないネイトが送られて来たのだろうと。


「……そういえば、僕の前任の方はどうして、その」

 このラボは比喩ではなく最後の地だ。先はない。

 研究者としてのみならず、単なる一個人としても一生監視下に置かれると決まっていた。『機密』を知る人間を野放しにはできないからだ。

 つまり、生きている間に自由は与えられない、筈。

 ここに来ることになる前も、半ば配属が決定してからも、詳細を知らせる前に、としつこいくらいに念を押された。

 それはネイトには(・・)『選択権』があるという証左でもある。


「担当していたクローンが『出荷』されて、彼女(メイサ)は病んだ。今は、……実質檻の中、だな」

 施錠された病室、か?

 もし何もわからない状態だとしたら、その方が本人にとってはいいのかもしれないと感じる。

 これも単に他人事だからだろうか。


「その『出荷』されたクローンは、用済みで処分されたんですか?」

「いや、戻って来ている。今は私が見ているよ。当時、必要なのは一部だけだったんだ。まだ使える(・・・)からね、他の臓器や何かは」

 ネイトの質問に答えた彼は、前任者の担当だった残り二体のうち一体は他の研究員に引き継がれた、と付け加える。


「メイサは愛情があまりにも強かった。執着と言い換えてもいい。──生まれたときから『育てた』クローンに、思い入れ過ぎてしまったんだろうな」

 そもそもここに来たのも、束縛に疲れて別れを切り出した恋人を殺害したかららしい、とついでのように教えてくれる。


「自宅で恋人の遺体のすぐ傍らで、『切り離した頭部』を抱えて蹲っていたところを発見されたそうだよ。姿を見せない彼女を心配して、家を訪ねた研究室の同僚に。……どのくらいそうしていたのかね」

 年齢はさほど変わらないが、彼女のラボでのキャリアはマックスよりずっと長かったのだという。

それだけ若い頃に事件を起こしたということか。突出して優秀だからこそ、多少視野も狭かったのかもしれない。


「担当クローンの呼び名を、メイサはオリジナルの名前のアレンジで付けていたようだ。〝レティ〟と〝エリー〟、私が受け持っている欠損した個体は〝リフ〟」

 改めてデータを確認すると、受け持ちのもう一体は《ID:M-307-4》 《NAME:R30(アールサーティ)》になっていた。


「〝R30〟はオリジナルの名の頭文字がRなんだ」

 呼称の付与にも、この研究所(ラボ)特有の法則があるようだと理解する。


 〝レティ〟ことF-176-2は生産後十三年、〝R30〟ことM-307-4は十一年。

 性別は識別番号でわかる。前者はF、つまりFemale(フィメール)で女。後者はM、Male(メール)で男だ。


「とりあえずはこれくらいかな。不明点はその都度確認してくれればいい」

「はい、ありがとうございます」

「君はきちんと理解していそうだけれど。──実質、ここから二度目の人生が始まると思ったほうがいい。『俗世』のナサニエル ブライトは死んだも同然だから。外での栄光は捨てた方が楽になる」

 もちろんわかっていた。

 だからこそ夢も希望もない、目を見開いても光の一筋も見いだせない現状を受け入れるべく、どうにか前を向こうとしているのだ。


 突然に己を襲った不幸な出来事を嘆き哀しみ、打開策を模索して藻掻いた日々は無駄に終わった。

 強制終了からの再起動、と例えるほどには割り切れていないものの、すべてを完全な過去として葬り去る覚悟を決めた。


 現実にもリセット(やり直し)ボタンがあったのだけが幸いだと、今は思うしかない。

 たとえ闇の中であろうとも、ネイトは唯一持つ能力を発揮できることだけに縋る道を望んだ。

 無理強いされたわけではなく、選択の結果として。

 市井の一人の人間としてよりも、研究者として生きることを自ら選んだのだ。マックスの言葉通り、ネイト程度の瑕疵なら人生が終わるレベルでもなんでもない。

 これまでの人生で、他のすべてを犠牲にする勢いで身につけた、──生まれて来た意味だった筈の能力を活かした技術を封印する勇気がなかった。

 ただそれだけのことだ。




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