6 『氷の王子』(1)
それと同時に仮面をかぶるようにすっと、クロヴィスの顔から一切の表情が消えていく。
「……」
「殿下? なにか木の上におりましたか?」
「そう言えば猫が宿舎を荒らしていると騎士たちから報告が。それでしょう……か、あ?」
クロヴィスを囲んでいた家臣たちもつられて木の上を見上げ、それからぎょっと目をむいた。
「だ、誰だ!?」
「魔法使い殿! そんな木の上で寝転ぶなど危ないではないか!」
「え、いや、ジュノー卿? そういう問題では……」
(おや、もっと敵意を向けられるかと思ったけれど、意外と友好的)
思いのほか愉快な反応に、シアは応じるようにひらりと手を振った。
第四王子の元で『得体のしれない魔法使い』扱いされている身とあっては、なおさらジュノーの優しさに微笑みが浮かぶ。
「ごきげんよう、青の騎士団の皆様。何かお困りごとですか? 今は気分がいいので特別価格でお受けして差し上げますよ」
だから柄にもなくこんなことを言ったし、侮辱も笑って水に流した。
そんなシアにジュノーはあからさまに眉を寄せ、頭の堅そうな中年の騎士はカッと目をむいた。
「なにを考えているのです……?」
「それ以前に貴様、殿下を見下ろすなど不敬ではないか!? 降りてこい!」
「ははは。降りたら平伏を求められそうな勢いなので、遠慮しておきます」
「な、なんだと! 分別のある大人なら――」
シアの軽口に乗せられた中年の騎士アイガスは、いまにも木によじ登りシアの首根っこを摑まえてやるという顔をしていた。
その隣で、クロヴィスはふいっと顔をそらすと、素っ気なく告げた。
「放っておけ、アイガス」
「え? ですが、殿下……」
「流れの魔法使いなど、首輪の無い獣も同然だ。金を積めばどんな首でも獲ってくるだろうが、そこに分別など存在しない」
氷のように冷ややかな一声を受けて、それまでざわついていた周囲がしんと静まり返る。
(ははん、ずいぶんなことを言ってくださる)
流石は『氷の王子様』というわけか。
シアは思わずひゅうと口笛を鳴らすと、軽やかな身のこなしでふわりと地上に着地した。まるで熟練の暗殺者のような無駄のない動きだ。
「――!」
そこに油断ならないものを感じ取ったのか、ジュノーを始めとする騎士たちは反射的に腰の剣へ手をかける。
しかしシアは、張り詰めた空気にもかまわず、すっと右足を引いて、淑女ではなく道化のようなお辞儀を披露した。
「これはこれは、お気に障ったのなら失礼。ですが首輪のない獣も、道理はわきまえているもの。狩る獲物とそうでないものの区別は、きちんと出来ているのでご安心を」
(つまりあなたの首はまだ、危険にさらされてはいないということ)
内心で皮肉ごかしながら、シアは睫毛の下からクロヴィスの反応を窺う。
(さて、この言葉を第一王子はどう受け取るか……)
戯言をと言って一笑に付すか、それともシアが完全に第四王子の味方ではないと気が付いて懐柔を図るか。
または言葉の裏に隠された意図に、気が付かない可能性もあるが……。
(このひとに限ってそれはなさそう)
クロヴィスは、冷めた目でシアのことを見下ろしている。が、興味かあるいは警戒心か――その瞳に、なんらかの関心を秘めていることは、間違いない。
「……」
束の間、無言で対峙するふたりの間を、新緑の香りを纏った風が吹き抜ける。
と、ふいに。
「そなたの狙いはなんだ」
クロヴィスが先に、その重い口を開いた。
「ジェフリーの護衛として雇われたとは聞いたが、そうは思えないほど野放しで、俺の隙を突くために周りをうろついいるのかと問えば、違うと言う。ここ数日、俺のことを探っているようだが、その目的はなんだ」
鋭い眼差しに、シアはああ、と心の中で微笑みを浮かべる。
(……気づいているのか)
シアが『何者』であるのか。
そして、王后が犯した『罪』に。
そのうえで、タリアの依頼に関わらず、シアが彼を利用し王后に報復しようと企んでいるのではないかと、警戒しているのだ。
(で、あれば……)
「目的がなければあなたのことを、知りたいと思ってはいけないのですか?」
とりあえず素直に、害意がないことを示そうと思った。そう、素直に……。
だが、クロヴィスは氷の王子の通り名にふさわしく、取りつく島もなかった。
「まさか。そなたのような人間が、純粋な感情で他者に関心を抱くわけがなかろう。目的はなんだ? 復讐か、報酬の対価か、俺の命か。それとも――別の見返りか」
「う~ん。……たとえば、あなたの笑顔とか?」
にこっと笑ってそう言うと、なぜだかとても奇妙な生き物でも見るような目を向けられた。
(なぜ?)
表情に変化はないのでかなり分かり辛いのだが、これは明らかに奇異なものへ向ける眼差しだ。
「…………」
クロヴィスの背後では、あまりにも極寒吹きすさぶような沈黙に、ジュノーたちですらも憐れむような表情を浮かべている。
「行くぞ」
やがて、クロヴィスは短くそう告げると踵を返して行ってしまった。
(ちぇ、笑うと思ったのに。残念)
去っていく後ろ姿を見送りながら、シアはそっと胸の内でため息を漏らす。
本当に嘘偽りなく、今度は正面から彼の笑う顔が見てみたかったのだが。鉄壁の守りはやはり手強い。
(お綺麗なのにもったいない)
シアは美しいものが好きだった。
醜く汚れた世界に身を置くシアにとって、美しさとは己を顧みさせてくれる光のような存在だ。
それは造形美だけを指すのではなく、汚れのない清廉さだったり、強い信念を前に感じる憧憬にも似たものであったり。
年齢を重ねて醸し出される威厳や尊厳であったりと、形は様々だ。
その基準から言っても、彼の笑顔は、いや。彼の存在そのものが、目を惹くほどに美しい。だからシアは彼に興味を抱いた。
――これだけ追い詰められていながらも、なにがこの人を高潔たらしめるのだろう。
己を疎んじる父。息子を政治の道具としか見なさない母。
幼少の頃から常に政争の中枢で育まれ、下された王命の果てに師と慕う人を失い。多くの犠牲のもとに築いた基盤さえも、流星のように現れた異母弟によって奪われて。
(すべてを投げ捨ててしまっても、許されるはずなのに)
冷酷で感情のない『氷の王子』と、そう呼ばれるほどになってもなお、凍えたような青い瞳の深淵から、確かな光は消えてはいない。
(氷のように冷ややかなのにどこか繊細で、報われないと知りながらも努力し続ける……その根源はいったいなに?)
第一王子としての矜持か、義務感か。
それとも、疎まれた息子として父に認められたいという欲求か。
(でも多分、そういうくだらないものじゃない)
もしも彼の根幹がプライドや利己的なものであれば、その瞳はシアの目を惹くほどに澄んではいない。
だからこそ、強い信念を宿したクロヴィスの姿は、シアの目に輝いて見えるのかもしれない。
そしてこうも思うのだ。
もしかしたら最初に視線を交わしたその瞬間から、自分は彼に魅せられてしまったのかもしれない——と。