42 始動(3)
緑玉とともに公爵家の双翼を担う『ヴォルクス騎士団』。その施設は、始まりの森の中、聖域を背に立つ緑の館の対面にある。
その中でもはずれに位置する第四訓練場で、一人の強面の騎士が待っていた。
「はっはっはっ、このひょろっこどもを鍛えるのに私を指名してくださるとは、大変光栄ですな、公女様」
「ひっ、なんでバルドール卿がここに」
広い肩幅、豊かな胸筋。
空気をも震わす声量で緑玉を青ざめさせたのは、三十代後半と思しき男性騎士——ヴォルクス騎士団が誇る小隊長の一人にして『緑影』の一人、バルドール・トーマである。
彼は騎士団の新兵たちの教育にあたる指導教官の任にあり、鍛錬のやり方も心得ているため、騎士団を統括するセレンにお願いして緑玉の指導役に抜擢してもらったのだ。
(体を鍛えるということは、単にがむしゃらに数をこなしたり、追い込めばいいというわけじゃない。故障しないよう一人一人の弱点を的確に見抜き、バランスよく鍛えていくことが何よりも重要だものね)
だから、騎士団の中でも特にそれを得意とするバルドールが適任——。
(とはいえ……)
「常々思っていたのです。この吹けば飛ぶ綿毛どもを、公爵家の名に恥じぬようしごいてやりたいと。その機会がこんなにも早くやってこようとは、当然腕が鳴りますなあ」
白い歯を見せて笑うバルドールは、実に愉しそうなうえに乗り気で助かる。が、ぼきぼきぼき、と。文字通り腕ではなく指を鳴らすその姿は、無数の傷が散った顔と相まって、どこか極悪人をも思わせた。
「…………」
自分で指導役にバルドールを指名しておいてなんだが、心の中ではちょっぴり不安がもたげたシアである。
「……おい、シア」
「はい」
「これ、死人は出ないよな?」
「たぶん」
一時間後——。
多少の不安を残して始まった訓練は、イリオスの懸念通り死相を見せていた。
ただし、バルドールのせいではない。
「く……っ」
「っ、は……」
ぜいぜいと荒い呼吸音と、うめき声。
それからバルドールのため息交じりの声が、訓練場に響いている。
「おいおい、お前たち。まだまだ訓練のくの字も始まってないぞ。ただの体力作りで音を上げてどうする。街を駆け回っている子供でも、もう少し頑張れるぞ」
「は、そ……こと、いっ……た、て」
「ま、ほう……魔法さえ、つかえたら……このくらい……っ」
「…………」
邪魔なローブを脱ぎ、シャツを泥だらけにしながら地面に伸びている緑玉は、全員満身創痍である。
荒い呼吸を繰り返している者はまだいい。中には魂が抜けたように、ピクリとも動かない者もいた。
いきさつを知らない者が見たら、いったいどれほどきつい訓練なのだろうと思ったことだろう。
だが実際は、バルドールが呆れたように、訓練どころか準備運動の段階でしかないのであった。
(……そ、予想以上に酷い)
その光景を目の当たりにしたシアは、緑玉の壊滅的な運動神経に思わずショックを受けた。
(まって。柔軟をして、軽く走り込みをしただけよね?)
いや、走り込みというよりもあれはただの早歩きに近かった。
年齢による運動強度を考慮して、イリオスとシアはラナイから個別に訓練を受けていたのだが、その間も、シアの意識はバルドールの行う訓練を捉えていたのだ。
だからそんな満身創痍になるほどの運動ではなかったと、断言できる。
(むしろ、ラナイの組んだメニューよりも軽く見えたけど……)
「やっぱり予想通りですね」
流れる汗を拭きながら休憩がてらシアがその様子を眺めていると、下半身の鍛錬を頑張るイリオスの姿勢を調整しながら、ラナイがぽつりと漏らした。
「あいつらは普段から魔法に頼りすぎなんですよ。歩くのが面倒だからって常にふわふわ漂ってたり、物を取るときも自分が動くよりも対象物を動かしたほうが早いって、手元に引き寄せるくらいですから」
——そのおかげで、緑玉が騎士団になんて呼ばれているか知ってますか?
そう問われ、シアは首を傾げて答える。
「えーと、ひょろっこですか?」
さっきバルドールが言っていた。
しかし、ラナイはふっと遠い目をしてこう答えたのである。
「吹けば飛ぶ『綿毛』」
「……」
なるほど。
たしかに瘦身といい、ふわふわしている所といい、そこら中に散らばって厄介の種をまき散らす性格といい。タンポポの綿毛のようである。
「無精で横着なおかげで生活魔法は発展した、とはいえ、人間としての体力は壊滅的。だから魔法を禁止したらこうなるっていうのは明らかですよね」
緑玉やイリオスの手首に結ばれた、カラフルな組み紐を視線で示して、ラナイが告げる。
色彩鮮やかな糸を編み込んで作るフィタは、本来、願掛けをしたり装身具として手首に巻くものだ。しかし、これはちょっと用途が違う。
シア考案の特別製。
魔法発動を感知すると電流が流れるのである。
(魔法に依存した緑玉のこと。魔法を使えたら絶対こっそり身体強化とか、回復魔法とかをかけて、ずるをするに決まってる。そう思って、魔法の発動を感知すると罰則を与えるちょっとした装身具を、アルシェに頼んで急いで用意してもらったのだけれど……)
「うーん。やっぱり、体力を回復させるくらいの魔法は、使えるようにしておいたほうがよかったでしょうか?」
こんな調子ではラナイくらいどころか人並みな体力に並ぶまで、かなりの時間がかかりそうだ。
そんなことを考えながら、シアは自身の記憶を探る。
(昔、アッシュからしごかれたときはどうだったっけ?)
『この馬鹿! なんで阿呆みたいに突っ立ってるんだ! よけるとか、防ぐとかしろ!』
あれはたしか、アッシュが放ったナイフに反応できなくて、危うく死にかけた後のことだ。
『はぁ? 見えなかったから避けられなかった?』
いくら優れた技量の魔法使いでも、存在を認知できなければ防ぎようがない。
ある程度の攻撃は探知魔法で拾えるが、オーラの使い手が相手では、脳が反応する前に攻撃が届いてしまって効果がない。魔法使い自身が対応できないからだ。
そう説明するシアに、アッシュは呆気にとられた後で頭を抱えたものだった。
『……くそ! そのけったいな魔法も器が貧弱じゃ形無しだな。いいか、感謝しろよ。これからこの俺が、みっちり鍛えてやるんだからな』
そうして始まった鍛錬は、想像を絶するほどに過酷だった。
(ひたすらに急所を狙ってくる組み手。容赦ない殺し合いに、依頼も兼ねた実戦。魔法は禁止で、武器はナイフがたったの一本……いつか殺してやるって思ったっけ)
我ながらよく生きていたものだ。
アッシュの辞書に手加減なんてものはない。『生きるか死ぬか。体で学べ』——それが闇社会で生まれた彼のモットーである。
『ふふ。あの坊やは暗殺者としては超一流でも、物事を教えるのには向いていないのよ』
そう言ったのは「月狼」の中でもアッシュよりも年上の、ある仲間だった。
ともあれ、アッシュのおかげで様々な意味で死にそうになったシアだったが、いま思えばいい経験であったともいえる。
(おかげでアッシュと渡り合える技術も身に着けられたし、魔法使いとしても成長できた。肉体や反応速度を高める鍛錬の重要性だって、身に染みたもの)
だから命をとるのは保留にしてやったのだけれど。
しかしそのときと今では、状況が違いすぎて経験があてにならない。
そう思って、成長を速めるために回復魔法を使わせるべきかラナイに聞いてみたところ、彼の意見は違うようだった。
「回復魔法に頼った鍛錬はお勧めしません。許容以上の負荷は筋肉に負担をかけすぎることになるでしょうし、体と心が追い込まれることで忍耐力や精神力も鍛えられるのですから。回復魔法を使用するとしても、一日一回。翌日に疲労が残らないようにする程度ですかね」
「やはりそうですか」
これはラナイの経験談でもあるのだろう。
「それに緑玉の場合は魔法に対する依存から矯正しないと。魔法を禁止して追い込まれるような環境を整えない限り、彼らの怠け癖は治りません。と、言うことでイリオス様——」
「え?」
「負荷を足して、あと十回追加です」
「う、え! なんでだよ!?」
指定の回数をこなした、と倒れかけたイリオスに、さりげなくラナイが回数を追加する。
「どうやら話を聞く余力がありそうなので」
「…………。もう無理、おきあがれない」
「それだけ喋れるのなら大丈夫。さあ五秒以内に開始しないと、一秒ごとに一回ずつ増えていきますよ。一、二——」
「! く、そ~~っ」
ラナイは、アッシュとは違う意味でスパルタだ。半泣きなイリオスを哀れに思いつつ、でも、とシアは思う。
(やっぱり、ラナイとバルドール卿に、イリオ兄様と緑玉をそれぞれ任せたのは正解ね)
それぞれの鍛錬法を見たからわかる。
(ふたりとも、体内のマナの流れをよく見てる)
そのうえで弱い部分から重点的に鍛えさせているのだ。
魔法使いも、神聖力の使い手も、オーラマスターも。放出する形が違うだけで自然界からマナを取り込み、体内に循環させている点は変わらない。
シアも以前、アッシュから『マナは肉体の弱い部分に滞る傾向にある。だからまずそこを強化するのが鍛錬の基本だ』と教わった。
(あとは緑玉のモチベーションが、結果に影響してくるけれど……)
その点は大丈夫だろうとシアは思っている。
緑玉は根性と負けん気だけは鬼のように強いし、なによりも、ラナイが訓練前に発した一言があるのだ。
『公女様やイリオス様がこれから成人なされて王都へ行くようになれば、当然、護衛は体力のあるやつが選ばれるだろうね』
しかも、眠たげな瑠璃色の瞳に意地の悪い笑みを浮かべて、こうも言ったのだ。
『まあ、いまの君たちの様子じゃ無理だろうけど。王都では必要以上の魔法は禁止されているし、君たちの体力は人並以下。緑玉で候補がいないとなれば……騎士か、緑影あたりが適任かな?』
(まったく、いい性格してるわね)
これまで、シアが緑玉を避けて騎士団や緑影のところにばかり顔を出していたものだから、彼らは騎士たち——特に緑影——に対抗意識を燃やしているのだ。
(ああ言えば、オルタなんかは意地でも訓練に取り組むはず。しかもバルドール卿が煽っているし)
「おいおい、おまえたち。普段は大きな顔しているくせに、これじゃあ生まれたての小鹿か赤ん坊だなあ、おい」
「うっさい! つつくな!」
「あー!? 足! 足攣った!?」
「……くそ、この筋肉。あとで絶対後悔させてやる」
「ほう? そうか、そうか。おまえさんも緑影に公女様の護衛の座を盗られて、後悔しないといいなあ、オルタ?」
「は? ——このっ」
恨みのたっぷりこもったオルタの悪態が響き渡ったとき、ラナイがぼやきながらその手を伸ばしてシアの耳を塞いだ。
「口が悪いなぁ、もう」
だがオルタの悪態も、地面でぐったりしているイリオスに向かって「真似しちゃだめですよ」と忠告するラナイの声も、聴覚がいいのでばっちり聞こえている。
そう、イリオスの口調が乱れるのは絶対、緑玉の悪影響である。
(……あー。アッシュや暗黒街で飛び交う罵詈雑言ほどじゃないけど、礼儀に煩いお母様が聞いたら全員しこたま絞られるわ、これ)
今後はオルタの口調をさりげなく矯正しようと思いつつ、体力作りを終えていざ「魔法が解禁!」となったとき、怪我人が出ないことをシアは祈るばかりだった。




