39 約束の意味(2)
質問の形をとれば、うまく躱されてしまうとわかっていた。
だからあえて、シアは断定的な口調でそう言った。
「……ノアから聞いたのかな?」
セレンの口調は穏やかなまま変わらなかったが、一瞬だけ彼が反応したのを、シアの目は見逃さない。
「彼の気のせいっていう言い逃れはききませんよ。相手のことを知っているのは、兄様だけではありませんから」
得意げに胸を張ってそう言えは、セレンがきょとんと瞬いた後で、ははっと笑みこぼす。
「一本取られたな。でもそんなに大したことじゃないんだよ。ただ少し、夢見が悪いだけで」
「夢見が?」
言われてみればうっすらと、目の下に隈が刻まれている。
「どう悪いんですか?」
「う~ん……」
この期に及んで、兄はまだ言葉を濁そうとしているらしい。
「兄様。仰って下さらなければ、魔力を取り戻して初めに、兄様の記憶をのぞき見しますよ」
なかなか強情で往生際の悪い兄に、シアはじとりと半眼になりながら脅しをかける。すると、セレンは困ったように眉を下げて彼女の髪を優しく撫でた。
「それはやめた方がいいかな」
「え」
「たぶん、シアにも辛いことだから」
「それは……」
「俺が見る悪夢は、君が経験した未来とほとんど同じだと思う。だから記憶を覗くのはやめなさい」
柔らかな声でそう忠告され、どくんと心臓が嫌な鼓動を刻む。
——君が経験した未来とほとんど同じ。
「それって……」
(まさか)
物悲し気な眼差しはとても冗談とは思えない。そもそも、セレンはこんな冗談を言う人ではない。
……だから、導き出される答えは一つ。
「兄様はもしかして、『オクルス』なのですか?」
「たぶんね」
迷いなく返された肯定に、シアはぎゅっとシーツを握った。
「でも……」
(その力は長い歴史の中で、失われたはず)
オクルスとは、シアたち直系に強く受け継がれる魔力と同じエタムの血の証であり、創世時代の言葉で『目』という意味がある。文字通り、エタムとその瞳を共有している者という意味だ。
未来を見たり、過去を読み解き、物事の真実を見抜く——まさに神の権能と呼ぶに相応しい力である。
「……オクルスはダンカンを最後に五百年間姿を現していません。その原因は千年前にエタムが消滅したからだって。研究者たちも、オクルスの力は血に残された権能がもとになっているから、時代とともに薄れて、発現する確率はないって」
「そう、研究の上ではね。でも、もともと稀有なオクルスについての情報は文献にもほとんど残っていないから、その理論は不確かだとも言われている」
兄曰く、力が発現したのは半月ほど前で、それがオクルスのものであると確信したのは、シアが回帰してはじめて、顔を会わせたあの日のことだったという。
「最初は理解できなかったよ。力自体も弱くて映像も不明瞭だったから。はっきりと読み取ることができなくて、そもそも……一門が滅ぶだなんて、思ってもいなかったから」
でも、とセレンは言う。
「眠る君に触れた瞬間、はじめて、夢よりも鮮明でそれでいて同じ光景を見ることができた。魔法を使えない俺がだ。そして未来に起こることを聞いて、すべてがつながった」
「そ、れは……」
それは本当に、シアの経験したすべてを、オクルスの権能を通して、兄が「視て」しまったと言うことなのだろうか。
(たぶん、そう)
セレンは過去を見通す権能によって、自分の最後も視てしまったのだ。シアの中に刻まれた記憶を通して、彼女でさえも心の中に封じ込めた、悲惨な光景を。
苦悩に揺れる灰緑色の瞳が、如実にそれを物語っている。
次々と魂を乗っ取られ、操り人形となる緑玉の魔法使い。それに対抗する仲間や家族、騎士団たち。
消えない炎が燃え広がり始めた城の中、セレンはシアの手を引き、文字通り同族を切り捨てて、『始まりの森』まで逃げ延びた。
最も神聖で、すべてが生まれた始まりの森。家門の守護者である神が消えた後も、変わらずマナがあふれたフエゴ・ベルデの聖域で、兄は最期を迎えた——その一連の出来事を、彼はまるで実際に経験しているように視せられたのだろう。
(……っ、なんなのよ!)
シアはオクルスの権能を恨まずにはいられなかった。
(以前は兄様を守ってくれなかったのに。今になってその力で苦しめるなんて、なんて嫌な力なの!)
神の権能ならば、もっと早く未来を教えて、警告してくれたらよかったのに。
(こんなふうに、兄様が自分を責めるようなことが起こる前に)
「以前の俺は、この力を発現させられずに、未来を防ぐことができなかった。あれは、本当に起こったことなんだね」
シアは身を乗り出して、きつく組まれた兄の手に自分の手を添えた。
「……でも、私が生き延びられたのは、兄様が守ってくださったからです。繋いでくださった命があるから、こうして二度目のチャンスを手にできた」
「うん」
「それに守ってくださったから素晴らしい人たちにも出会えたんです」
「うん。そうだね」
今なら思う。
セレンがシアに向けた約束の意味を。
『すべてを忘れて生きなさい』
『復讐も一門のことも、今日の日のことも。全部忘れて、生きるんだ』
『それが……の道だから……。復讐は何も生み出さない。約束だ、シア。幸せに……』
(おぼろげながらも、兄様は未来を予感していた。だから私のために約束しろって言ったんだ)
シアはぎゅっとセレンに抱き着くと、顔を見られないように俯いたまま告げた。
「約束を守れなくて、ごめんなさい。でもやっぱり、私はこの方法を取ったと思うんです」
「うん」
たとえ平和に暮らせたのだとしても、クロヴィスとの出会いはなかったことにはできない。それがわかっているからこそ、セレンも頷き、ゆっくりとシアの頭を撫でる。
そのあまりにも優しい仕草に背を押され、シアは回帰してから尋ねてたくてもできなかった問いを口にした。
「いまでも、私が復讐をしたいと言ったら、セレン兄様はとめますか?」
「たぶん、とめるだろうね。……でも」
「でも?」
続く言葉に興味を惹かれ、シアはセレンの端正な顔を見上げる。
「でも、シアの話を聞いて少しだけ、考えが変わったかな」
「どういうふうにですか?」
「もしかしたらあの夢は、今のために存在したのかもしれないと思って。この先で選択を間違えないように。君の力になれるように。復讐をするのなら一人ではだめだ。それに感情にまかせた復讐よりも、理性的な報復のほうがずっとフエゴベルデらしいと思わないかい?」
冷静に策を立て、最も相手に痛手を与える方法で追い詰める——そう告げた兄の瞳はフエゴ・ベルデらしく、好戦的に煌めく。
それと同時に、彼らしく柔和な笑みがこぼれる。
「シア、一つだけ忘れないで。君はもう一人じゃない。その手ですべてを救おうとしなくていいんだ」
朝日を浴びて輝くモミの木のように、美しい灰緑色の瞳が告げていた。
この先の未来には君を支える、家族や仲間がいるから、と。
「それに止めても聞かないのがシアだし、どのみち可愛い顔で『お願い』されたら、聞かざるをえないだろう?」
そう言ってはにかむ兄は、どう見ても妹に甘すぎると、誰もが声を揃えて言うだろう。
だがそんな彼だからこそ、シアも素直に甘えられるのだ。
「ふふ、兄様。今日は一緒に寝てくれませんか?」
例のおねだり顔で『お願い』すれば、セレンが虚を突かれたように目を瞬き、それからあーと両手で顔を覆う。
「余計なことを教えてしまったかな」
「そんなことはありません。こんなお願いは今日だけ、ね?」
「う~ん……」
両腕を組み、葛藤するセレンはためらう理由をぶつぶつと呟く。
「もう添い寝をする年齢は超えているし、使用人にも示しがつかない気が——」
「でもまだまだ病み上がりですよ? 悪い夢にもうなされて、心細く思う妹の様子を心配して、傍に付き添っていたと言えば非難する人はいるでしょうか」
「……いや、そうだけれど。俺は起きるのが早いし、起こしてしまうかも——」
「でも兄様が一緒に寝て下さらなければ一睡もできないかもしれません。ほんとうに、悪い夢を見そうで心細くて」
「…………。シア……」
「はい」
「わかって言っているだろう」
「なんのことでしょう」
(セレン兄様が、お願いを断れないのは百も承知です)
内心でにんまり得意げな顔になりつつも、シアは絶対にあきらめない。
(だってあと少し押せば、兄様は折れて下さるもの)
それがわかっているからこそ、涙目で懇願を繰り出そうとした、そのときだった。
「おい、病み上がりがなに夜更かしして……と、兄貴?」
いきなりパンッ——と扉が開け放たれて、シアは不覚にも飛び上がった。
いま、すごくいいところだったのに。
おかげで出かかった涙も引っ込んでしまった。
「イリオ兄様、ノックくらいしてください」
どきどきと早鐘をうつ心臓を宥めながら、シアはじとっと乱入者を見据える。
だがあいにくと、イリオスの視線はシアに向けられてはいなかった。
「そ、それ……!?」
目ざとくも、シーツの上に転がった紅結晶を見つけてしまったのだ。
「だめです! これは私がセレン兄様からいただいたんですから」
花の蜜に引き寄せられる蝶のように、ふらふらと近づいてくるイリオスに、シアは素早く結晶石を拾うと手の中に隠す。
「う、くれとはいわない。せめて見せて! いや、触らせてくれないか?」
「……」
(ふうん?)
必死な様子のイリオスが少しだけおかしくて、シアはついつい、悪戯心を刺激されてしまう。
「だめです、減ります」
「いや、減らないだろ!?」
「そんなこと言って、魔力を味見したら減っちゃいますよ」
「たしかに。……はっ、いや、それはたしかにな、って意味だ! そこは我慢するって」
ぷいっと素っ気なくあしらうシアに対し、イリオスは今にも迫る勢いだ。ベッドに両手を突き「お願いだから!」と身を乗り出す。
そんな彼の首根っこを押さえ遠ざけたのは、あきれ顔のセレンだった。
「ほら、ふたりともそこまでにしなさい」
「うあっ、だって兄貴! シアが——」
(ふふん。甘いですね、イリオ兄様。セレン兄様はいつだって私の味方よ)
だが。
「——シアも。それだけ元気なら、もう悪い夢も見ないだろう」
(あ……)
内心でほくそ笑んでいたら、思わぬ反撃にあった。
「さあ。怒られたくなかったら、ふたりとも大人しく寝る時間だ」
「……」
その瞬間、シアは咄嗟にイリオスと視線を交わす。
『触らせてあげるから、ここに寝て』
『オーケー』
普段から悪さをしているふたりである。たとえシアに何年のブランクがあろうと、言葉なくともその息はぴったりだ。
「あ~……おれ、急に眠くなっちゃった。部屋に戻るのも面倒くさいし、ここで寝てもいいよな?」
わざとらしくそう告げて、イリオスはセレンの手から逃れると反対側に回り込む。
一方のシアは、
「そうしてくださいイリオ兄様。ベッドは広いので、三人寝ても大丈夫」
もぞもぞとベッドに入るイリオスのためにシーツを持ち上げながら、ちらっとセレンを見つめる。
「セレン兄様? もう寝る時間ですよ?」
「……」
「兄貴がいなかったらおれ、紅結晶を奪っちゃうかも」
「……ふたりとも」
「ん?」
「なんですか?」
キラキラと悪戯っぽく輝く、二組の緑柱石の瞳に見つめられ、セレンはかつてないほどに深いため息を零した。
「ああ、もう……」
片手は腰にあて、もう片手で顔を覆い。がっくりと俯いたその姿は、厄介なのが二人に増えた、と全身で語っている。
だが二人がもう一度、無邪気さを装った瞳で「はやく、はやく」と訴えると、セレンはとうとう折れたのだった。
* * *
薄闇に浮かび上がる天蓋の装飾。春の野花を模した様子を眺めながら、隣からすやすやと聞こえてくる寝息に、セレンは微笑みを漏らした。
起きているときは小悪魔かと思うほど手を焼かせるのに、こうして行儀よく寝ている姿は二人とも愛らしい天使のようだ。
(まったく。悪い夢を見そうで心細い、だなんてどの口が言うのか)
シアがそう言って添い寝を強請った理由は、もちろん彼もわかっている。
自分のためだ。
セレンが悪夢を見ても、すぐに『現実』を確かめられるようにそばにいる。まっすぐで意志の強い瞳からは、そんな決意が伝わった。
(あんな過去を経ても、シアはシアなんだな)
どれほど叩かれようとも折れることはなく、たとえ汚れて濁った水の中に揺蕩っていても、その瞳からフエゴ・ベルデらしさを失わない。
セレンが視たシアの過去は、想像を絶するものだった。
(昼間、シアが語った過去は、ほんの一部に過ぎなかった)
あれは両親が耳にしても差しさわりのない、ほんの一部分。悲しみと孤独に満ちた人生は、世間から彼女を『白い悪魔』と呼ばせ、恐れ慄かせた。
だが、セレンは知っている。
そこには妹なりの正義もあったことを。
——お願いです! 女神アウラコデリスよ!
あのとき流された涙を知っている。
——このひとを連れて行かないで! 復讐なんてしないから、忘れるって約束するから……っ。だからお願いです、助けて、このひとを助けて……っ。
胸を引き裂くようなあの慟哭を知っている。
(あのときのように、もう二度とシアを悲しませることはできない)
「……うかうかしていられないな。もっと力をつけないと」
小さく零し、セレンは二人を起こさないように、そっと右に寝返りを打つ。
そのまま行儀よく寝入っているシアを見つめながら、彼はぼんやりと思考を整理する。
(シアの記憶によれば、黒魔法使いは魔物のように狡猾で臆病者。正面からでは渡り合えないとわかっているから、不意を突く)
眠る前にその日のことを反芻し、整理するのはセレンの癖だった。
(それに中央貴族は、厳しい自然と向き合う実直な北部貴族とは違って、かなりの曲者ぞろいだ。社交界に姿を現したのが俺と母上だけだとわかれば、腹を探り、付け込み、あるいは追い落としにかかるだろう)
「……それでも、負ける気はしないけれど」
負ければ何が待ち受けているのか理解しているからこそ、絶対に負けられない。
これは戦いなのだ。黒魔法使いと対峙するのとは別の、自分にできる戦い。
そのとき、「ううん」と寝返りを打ってくっついてきた小さな体に、セレンは思わずくすりと笑う。
顔にかかった髪を優しく撫でつければ、ピンク色の唇がむにゃむにゃとなにか言葉を紡ぐ。
幼い頃からセレンがその腕で抱いてあやしてきた妹は、いくつになっても幼いものだと思っていた。
「それが……すべてをかけてでも救いたい主を見つけたなんてね」
嬉しいようなどこか寂しいような、そんな思いを抱きながら、セレンが眠りに落ちたのはもう少し後のことだった。




