2 時を超えた『願い』(2)
すると何度目か、階下から吹き上げる風に薄らと目を開けた時だった。
彼が息を吐くように、ぽつりと言った。
「ほかに手はないのだろうな……」
どこか諦めたような呟きだ。
けれどそこには微かに笑みも混じっていて、シアはぱちぱちと目を瞬く。
「……」
(これは……ちょっとだけ、予想外です)
当然、『快く』とはいかないだろうと予想していたが、まさかこれほどまで優しい眼差しを向けられるなんて思いもしなかった。
(「なぜ、よく知りもしないそなたと結婚までしなくてはならないのだ」とか「役に立ちたいのなら臣下に下ればいい」くらいは仰るだろうと思っていたのですが……)
――こんなふうに許容されるのは予想外。
「ん? なんだ?」
思わずじっと見つめていれば、美麗な眉間に少しだけ皺が寄る。
「俺が断るだろうと思っていたのか?」
「あ、いえ。……ええ、正直を申せば、そのとおりです」
シアが素直に頷くと、クロヴィスはますます眉間に皺を寄せた。
不本意だ、とでも言いたいのだろう。
「……」
「ふふ、自分で提案しておきながら、と呆れていらっしゃいますね」
「あたりまえだ。そなたなら俺に『断る』という選択肢がないことまで、見越していただろうに。真の王位が欲しければ王后ひいてはルヴォン侯爵家の力を借りずに、自らの勢力を持たなければならない。これはそのための手段なのだろう」
手段、と問われて、シアは僅かに目を伏せる。
「……ええ、そうです。これはいわば、権威の繋がりを持つための結婚。最近社交界でも流行になりつつある、まさに契約結婚ですね」
そして、なるべく難しい話題にならないように、あえて軽い口調で続ける。
「そうですね……期間は殿下が王位を手にするまで。もしくは、脅威がなくなったと判断されるまででいかがでしょうか? そうすれば私は思う存分殿下の尊顔を眺められて、殿下は強力な護衛兼後ろ盾を得られます。もちろん愛する方が現れたなら、その時は遠慮なくおっしゃってください。もともと白い結婚であれば離婚にはなりません。私は潔く身を引きますので」
先ほどもクロヴィスへ言ったように、シアの目的は地位や名誉などではない。未来の王后など、柄ではないのだ。
(それに、私のようなものがクロヴィス様と添い遂げるなどおこがましい。契約結婚が成立した暁には、クロヴィス様の隣で、素敵なお妃候補を選別して差し上げます)
そうひそかに心の中で決意を新たにしながら、シアは誇らしげに腰に手を当て胸を張る。
「ですからどうぞ、この私におまかせください。無垢な婚約者から、無知なご令嬢。才色兼備、兼ね備えた高嶺の花から、狡猾な悪女まで。すべてを網羅しているこの私が、殿下お好みの婚約者、ひいては王太子妃役を演じてみせましょう」
「そなたはそれでいいのか」
「はい?」
唐突に問われ、シアはきょとんと首を傾げる。
「いいのか、とは……?」
その姿を、感情の窺えないアイスブルーの瞳がひたと見据えてくる。
「離婚にしろ婚姻の無効にしろ、俺と別れたあとは表舞台に立てなくなるだろう」
「ああ、そうですね」
うーんと考えるように唇に指をあて、ややあってからふわりと微笑む。
「それでもやはり、この方法は捨てられません。それに『国王から捨てられた女』と聞くと哀れな感じがいたしますが、『王座へ貢献した淑女』であれば箔が付くと思いませんか」
王族はよほどのことがない限り離婚しない。正妃や側妃に飽きた場合、別宮へ蟄居させるか、離宮を与え放任するか、はたまた、人知れず葬り去るか——のいずれかを選ぶ。
しかし、その三つではなく「離縁」を選んだ場合、たいてい、世論は離縁された女を非難した。
『素行に問題があった』とか『女神に貞節を誓った身で、不貞を働いた』とか。
『王国の財を骨の髄までむしゃぶりつこうとする、ウサギの皮を被った悪女であった』というのもあるが、その場合はどんとこいだ。
(一回目では底辺の人生を経験しているのですから、お上品な社交界の嘲りなど生ぬるいです。ですから――)
「どんな未来が待っていようと、私の願いは変わりません」
「あなたを幸せにすること、か……」
「ええ」
以前、クロヴィスにはシアの『願い』を伝えたことがある。
なぜならシアにとって『クロヴィスの幸せ』は王位よりも復讐よりも、なによりも優先されることだから。
「そなたは……」
僅かにためらった後で、クロヴィスの唇が言葉を紡いだ。
「同じように、そなたの幸せを願う者がいるとは思っていないのだな――……」
だがそれと同時にヒュオっと、ひときわ強い風が巻きあがり、小さな囁きはシアの耳まで届かない。
「殿下?」
シアが問いかけるように首を傾げると、彼はただ瞼を伏せ、こう言っただけだった。
「いや、そなたに私生活の隅々を覗かれるのか、と言っただけだ。並の刺客よりも身の危険を感じる」
「あら、さすがにプライベートは尊重しますわ」
心外だとばかりにぷくっと頬を膨らませた後で、シアは悪戯っぽく瞳をきらめかせる。
「それに、たとえ私が邪な誘惑に駆られても、殿下にはジュノー卿という頼もしい盾がいらっしゃるではありませんか。殿下の貞操はジュノー卿が全力で守ってくださるので、心配は無用かと」
シアが初対面で、溢れる思い余ってクロヴィスに抱き着く、という失態を犯してからというもの、クロヴィスの護衛騎士であるジュノーは、親の仇のようにシアの行動に目を光らせている。
たとえば、目の前に供された美味しい料理……ではなく、クロヴィスの美味しい尊顔でお腹を満たそうとしたあの晩餐会。
たとえば、偶然目にしたクロヴィスの尊さがにじみ出るその後ろ姿に、うふふと脳内で妄想をはかどらせた、あの昼下がり。
はたまた、公の場でのエスコートにかこつけて、お触りをゲットしようとしようとしたあの瞬間――ジュノーにかかれば一切禁止。
姫のように守られる主(男性)と不埒な輩を一掃する渋面騎士(もちろん男性)という構図は、それはそれでときめくものがあるが。
一方で「食事はしっかりと取らなければ大きくなれませんよ」と手が止まっていることを指摘したり。「背後から殺気を飛ばされると剣を抜きそうになるので、こちらへどうぞ」とわざわざ近くに寄るよう誘ってくれたり。
はては「年頃のレディたるもの、むやみに男性と接触してはいけません。無用な憶測を生んでしまいます」と、心配しているのか窘めているのか。
鬱陶しそうにしながらも小言を繰り出す姿は、まるで年頃の娘の所作にやきもきと気をもむ母親のようだ、と思っていることは本人には内緒である。
(最近では小言のレパートリーが面白くて、わざと揶揄ったりしてしまうのですが……)
そんなシアの考えを読み取ったかのように、クロヴィスがくぎを刺す。
「あまりあれを揶揄ってやるなよ。変なところで初心なのだから」
「ふふ」
できない約束はしない主義なので、シアは笑ってそれを受け流す。
そして代わりに、瞬きの一瞬で雰囲気を切り替え、出来る約束を口にした。
「王国の貴き星、私の愛するクロヴィス殿下――」
スッと背筋をただし、まっすぐにアイスブルーの瞳を見上げ、シアは右足を引いて優雅に最上級の礼をとる。
「わたくしアーテミシア・フエゴ・ベルデは火の川に誓います。これから先どのような困難が待ち受けようとも、わたくしはあなたの盾であり剣」
かつて自分の甘さによって守り切れなかった主を見上げ、シアは告げる。
「私を利用できるのはあなただけ。あなたが望むなら、どんなことでも私が叶えてさしあげます」
(だってそのために私は、ここへ、戻ってきたのですから)
「たとえそれが王位でも、別の人生を歩むことでも。あなたが幸せになれる道であれば、いくらでも」
「……」
「ですから、どうか許すと。そうおっしゃってください。そうすれば、すべてはあなたの御心のままに」
束の間、雪の混じった風が二人の間に横たわった沈黙を埋める。
やがて風が通り過ぎたのと同時に固く結ばれた唇が震え、低い声で「許す」と、そう紡がれたのをシアはたしかに聞いのだった。