宵闇の翼
エドワードたちが馬で出発した後、街の人たちの間にはなんとも言えない空気が流れていた。
それも当然だ。
つい最近まで魔族なんて本当にいるのかと笑って話していたくらい平和だった街が、一夜にして混乱と恐怖に陥れられたんだ。
まだ現実を受け入れられない人がいてもおかしくない。
戦争になったらこの街はどうなるのだろう。
魔族の軍隊が押し寄せてくる?
もちろん、お父様はそんなことしないと信じている。
でも、私は知っている。
戦争がどれほど悲惨なものかということを。
ほんのわずかなボタンの掛け違いから始まって、争いが続くほどに人は理性を手放していく。
怒りと憎しみに囚われ同じ人間相手に信じられないほどひどいことをすることもある。
戦争が終わっても勝った方は負けた側を奴隷のように扱い、仮にそうならなかったとしても両者の間には何十年と遺恨が残る。
そういう歴史が、私がかつて生きていた世界にはたくさんあるのだ。
「本当に戦争が始まっちまうのかねぇ……」
私の隣でマトゥーカさんがポツリと呟いた。
ああ……そうだ。
そうだった。
大切な人たちがいる。
壊れてほしくないものがある。
だからこそ私は、自分の手で勇者を倒そうと思ったのだ。
今はそれが本当に正しい方法だったのかわからなくなってるけど、それでも“何もしない”っていう選択肢だけは選びたくない。
「アリス! どこへ行くんだい!?」
「やらなきゃいけないこと思い出したの!」
マトゥーカさんが驚いた様子で呼びかける。
私は答えて駆け出した。
そうして、ひとけのない路地裏に入るとりっくんに呼びかけた。
「りっくん! その辺にいるんでしょ! 力を貸してほしいの!」
「なんじゃ、唐突に……」
案の定、りっくんは屋根の上からひょっこり顔を出してくる。
「橋まで連れてって」
「妾に本来の姿になれと言うておるのか?」
「うん」
私が開発中の魔法で吹き飛ばした遺跡の下で、りっくんは眠っていた。
初めて見た時はさすがにビックリした。
だって、滅びたと教わっていた巨大な『龍』がそこにいたのだから。
「りっくんなら間に合うかもしれない」
「確かに、妾の翼であればあっという間じゃ。そなたを振り落とさぬよう飛んだとしても朝には彼の地まで到着しておるじゃろう。じゃが、行ってどうする?」
「戦争を止めるの」
「そなたにできるのかや?」
「できるかできないかじゃない。やるって決めたのよ。だったら行動あるのみでしょ?」
りっくんのつぶらな瞳……らしきものが私を見据える。
次の瞬間、強い風が巻き上がった。
「きゃっ!」
私は思わず目をつむっていた。
次ぎに目を開けた時、巨大な影が私の上に降りていた。
身体は夜空よりも深く艶やかな黒。
月明かりに照らされ金属のような光沢を放っている。
広げた翼は天を覆い隠すほどに大きい。
竜人族の祖にして今や伝承にのみ語られる幻獣。
黒龍の姿がそこにあった。
「よかろう。死の翼と呼ばれた妾がそなたを戦場へと運んでやる」
「りっくん……!」
よかった! これでなんとか間に合う。
あとは私がなんとかすれば……ん?
「いや、それだと私、死んじゃうことにならない?」
「細かいことを気にするでない。さっさと乗るのじゃ」
なんだか釈然としないが、今は時間がない。
私はりっくんの大きな背中によじ登った。
それを確認すると、りっくんは漆黒の翼を羽ばたかせる。
すると龍の巨体が軽々と宙に浮かび上がった。
「では、ゆくぞ……!」
一声吠えて、りっくんは一気に上昇していった。
* * *
「よいしょっと……ああ、ありがとね。もう大丈夫だよ」
アンたちの手を借りて寝台に腰を下ろしたマトゥーカは、やっとひと息ついたとばかりに笑みを浮かべた。
「ダメよ、マトゥーカさん。ケガは魔法で治ったけど、体力は落ちてるから安静にってルエイム様もおっしゃってたでしょ」
「あたしらが店の片付けをしておくからさ。マトゥーカさんはゆっくり休んでてよ」
「ごはんも作っておくから〜」
「そうかい……すまないねぇ」
やはり、相当疲れていたのかマトゥーカは横になるとすっと目を閉じて眠ってしまう。
三人は起こさないようにそっと部屋を出た。
「しかし、こんな時にアリス、いったいどこに行ったんだろうね」
「きっとお腹が空いたから食べ物を探しに行ったのよぉ」
「いや、あんたじゃないんだから」
「なんにしても、朝までに片付きそうもないね……」
聖袋騎士たちに荒らされめちゃくちゃになった店の中を見回してアンたちは溜息をついたその時だった。恐ろしい雄叫びが街を震わせた。
オォォォォオオン!
思わず耳を塞ぎその場にうずくまった三人は、しばらくしてから恐る恐る店の外に出た。
まだ日の昇りきらない時刻にも関わらず、同じように雄叫びを聞いたであろう街の人たちが次々と外に顔を出した。
そうして空を見上げた人々は遥か上空を何か大きなものが昇っていくのが見えたような気がした。
「何か見えたよね……?」
「き、気のせいだって……たぶん」
「あ……!」
突然、メイが声を上げた。
「なになに! どうしたのよメイ!」
「何か見えたのか!?」
「今、あそこにアリスちゃんがいたような……」
そんなことあるわけがない。そう思いつつもなぜか三人は空を見上げたまましばらく動けなかった。
* * *
「<伝文>の魔導具を使いました! しかし、向こうに届いたとしても間に合うかどうか……」
「なんでもいい。打てる手はすべて打て!」
エドワードとルエイムは橋に向かって馬を走らせていた。
馬を潰す覚悟で手綱を握っているが、それでも間に合うことはないだろう。
わかっていても、万に一つの可能性に賭ける他なかった。
同盟軍が橋を渡りきってしまえば、魔族側も剣を抜かざるをえない。
いかに今代の魔王が平和を望んでいたとしてもだ。
そして五大国家が集結した同盟軍と魔族軍が矛を交えたとあれば、大陸中を巻き込む大戦へと至るかもしれない。
おそらく、それこそがリンデンの狙いであり、エドワードたちがどうしても避けたい未来だった。
「早まるなよ、ジェイムソン……!」
オォォォォオオン!
その時、エドワードたちの耳にもあの雄叫びが届いた。
世界を震わせるようなその声は、馬たちをすくませ立ち止まらせる。
遅れて、激しい風が二人の上を駆け抜けていった。
「なんだ!? 今のは!」
「わかりません……見えない何かが空を飛んでいったような……」
「空を飛んだだと……?」
驚きながらエドワードたちは風の通り抜けて行った方角──今まさに、自分たちが向かう先を見つめた。




