とある男の幸福
本日2話目の投稿です。
「ん、この匂い……?」
男は嗅いだことも無い薫りに思わず足を止めた。
それは路地の奥から流れてきているようだった。
不思議な、それでいて抗いがたいほどに心惹かれるその薫りに誘われるように、男は普段は足を踏み入れるこのとのない下町へと向かった。
「な、なんだこりゃ!?」
そこで男が目の当たりにしたのは下町の狭い道にできた長蛇の列だった。
列は下町の小さな食堂から伸びているようだった。そして、あの“薫り”もまたこの食堂から漂ってきている。
「な、なあ、こりゃいったいなんの行列なんだ?」
男は列に並んでいた労働者に尋ねる。
「なんだ、あんた知らねぇで来たのか。みんな“マトゥーカの店”に並んでんだよ」
「“マトゥーカの店”?」
「そうさ。この街……いいやこの国で一番の料理を出す店だ」
我がことのように自慢する労働者に、男は思わず眉を寄せる。
こんな下町の小さな食堂がイルランドで一番だとは思えない。
だが、この薫りはなんだ。
商人としてそれなりに大きな商会に務める男は王都の一流と言われる料理も口にしたことがある。
あの時は至福の時間を過ごしたと思っていたが、そんな記憶すら霞むほどの芳しい“薫り”だった。
男はふらふらと誘われるように列の最後尾に並んだ。
それから、どれくらい待っただろうか。
腹は鳴り続け、口の中は唾液でいっぱい。
待っている間は何度も唾を飲み込んだ。
「いらっしゃいませ! ご注文は?」
若い娘が男に注文を聞いてくる。
こんな食堂には似つかわしくない若く美しい娘だった。
だが、男にはそんなことは気にもならなかった。
「こ、この匂いのもとはなんだ? なんの料理だ?」
「ああ、これね。パスタやサラダにも使ってるけど、私のオススメは豆の煮物かな。黒パンをつけて食べると最高なんだから」
「ならそれを全部くれ!」
「はーい、かしこまりましたー!」
男の注文に娘は明るく答えた。
そこからの時間はひどく長く感じられた。
なにせ、店の中は“例の薫り”でいっぱいだった。
おまけに周囲の客たちは男が待ち望んでいる料理に一足先に舌鼓を打っているのだ。
彼らの至福の表情にえもいわれぬ妬ましさをおぼえた。
「おまちどーさま! マトゥーカさん特製パスタにサラダ、それから豆煮ね」
男の前に料理が並ぶ。
見たところなんの変哲もない田舎料理だった。
いてもたってもいられず、男は豆の煮物を口に運んだ。
なんだこれは!?
男は目をむいた。
ただのありふれた豆料理にも関わらず、口に入れた途端に強烈な旨みと薫りが迸る。
慌てて黒パンを千切ると煮物にくぐらせ、ふたたび口に入れる。
ちょうど良い塩気と旨みが小麦の薫りと相まって絶妙な味わいを醸し出していた。
これならいくつでもパンが食えてしまいそうだ。
他の料理も同様だった。
簡素な塩とニンニクのパスタ。
下町らしい量を重視した大雑把な盛り付けだ。
だが、ひと口食べてみればそれが普通のパスタでないとわかる。
ニンニクの強い香りにも負けない別の何かがそこにはあった。
サラダはさらにそれが強く感じられた。
酢の酸味と油のコクをまとめ上げるその“ひと味”。
ただの生の野菜が至高の料理にも思えた。
王都で食べたどんな料理も、これらの料理の前では霞んでしまう。
「ふぅ……」
あっという間に料理を平らげて、放心状態の男に給仕の娘が声をかけてくる。
「どう? マトゥーカさんの料理は美味しかったでしょ」
男はその言葉にどう返事をしようか悩んだ。
なぜなら「美味しかった」なんていう言葉では言い表せないほどの幸福を感じていたからだ。
だから男はこう答えた。
「煮物とパンをもう一皿追加で」
後に、『ガルム』と呼ばれる調味料はフィディール地方の特産品となる。
ギヨッド河の豊かな漁場が生んだこの味を求めて多くの商人たちが訪れた。
彼らの荷車に積まれたガルムの樽には必ず同じ紋章が刻まれていたという。




