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轟け無垢な羨望  作者: バーグ
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9 第1講義室

9  第1講義室


 進路指導室の隣に位置する第一講義室に並ぶ四十個の椅子の、真ん中の一番前に俺は腰掛けていた。

 ミーティングでよく使ったな、ここ。色々と思い出しているうちに、ドアが開いた。顔色に影がさしたように暗さを帯びた顔と、その上部に付いた、今にも泣き出しそうに潤んだ六つの瞳を見た瞬間、なぜかホッとした。

「おー、入って!まだ先輩たちは来てないんだけど」

 ほのか、柚月、櫻子が忍び足で入った。俺が座った椅子から二つ分、斜め左下に下がった位置にある椅子に座った。三人とも、言葉を交わすことはなかった。きっと、ここに来るまでの道中もずっと無言だったのだろう。緊張をほぐしてやりたくなったが、話しかけるとかえって緊張が増すかもしれない。今日、この場に呼んだ目的は伝えてあった。

 五分後、再びドアが開き今度は亜美と沙也香が姿を見せた。一年生の表情に似て、伏し目がちに入って来た亜美と沙也香だったが、俺の後ろに目をやった瞬間、両手を振りながら教室の後方へ歩いていった。

「久しぶりー元気だった?」

 ただ数日会ってなかっただけなのに久しぶり、か。確かに、それまでは毎日会ってたんだもんな。

 だが、久しぶり、以外に一言か二言言葉を交わしたあとは、何の言葉もかわされなかった。一年生が座った椅子の隣、廊下と教室を隔てる壁にくっつくように置かれた椅子に座り、スマホを見始めた。手を膝の上に乗せ微動だにせず座った一年生のグループと、壁に寄りかかってスマホをいじる二年生のグループが横並びに位置する様子が、街の一角でひっそり開かれた展覧会の作品を見たときと同じような感情を想起させた。

 そして、後ろの扉が開かれ、美鈴が入ってきた。全員、条件反射のように一斉に美鈴の方に顔を向けた。「お疲れ様ー」 真顔を変えずに声を出し、ほとんど動かず後ろのドアにほど近い椅子に座った。一年生はまばらにお辞儀をして、二年生はスマホから目を離し、カバンにしまった。

 俺は立ち上がり、教卓と黒板の間に立った。

「今日は集まってくれてありがとう。まだ……」

 俺の真横のドアが開き、尾口が顔を見せた。

「悪いね」

 歯を見せ、生徒たちには片手を振って見せた。そして、生徒たちの間を、あたかも花道を歩くかのように闊歩し、一番後ろの席……美鈴が座る席の二つ隣の席に腰を下ろした。ちょうど、一年生の後ろに座る形だった。俺のちょうど目の前の列の、前からほのか、柚月、櫻子、尾口が座り、一つ列を飛ばした二つ隣の列、一番廊下側の列には、真ん中の席を起点として亜美、沙也香、美鈴が座っていた。

 俺は尾口に向かって目配せした。尾口が頷くのを見て俺も頷き、生徒たちを見た。

「言ったと思うけど、今日はみんなの気持ちをざっくばらんに伝え合う会にします……結局、昨日の大会に出ることはできませんでした。今後みんながどうしたいか、ここで伝え合おう。じゃあ……順番通りに、岸本さん」

 身体を一ミリほど上下させ、ほのかが慌ただしく立ち上がった。身体を俺に向けて垂直に、廊下に対して平行に向け、窓側へ一歩下がった。

「私は……知ってると思いますけど、中学の時はずっとバスケをやってて、でもずっと走り回るから好きになれなくて。部活体験でたまたまサーブがネットを越えた時、美鈴先輩にものすごく褒めてもらって、嬉しくて、バレーならあまり走り回る必要がないから良いかなって思って入ったんです」

 何人かの笑い声に心が温まった。美鈴も「しょうがないなぁ」という顔を浮かべて笑っていたので、俺は安心した。

「でも、思ってたよりもバレーって難しくて……全然上達しなくて、求められるものも大きくなっていって、私には大きな負担になっていて……何も成し遂げられていないけど、もうこれまで十分頑張ってきたから、いいかなって。熱心に指導してくださる先輩たちや、いつも部活のあと一緒に帰って話を聞いてくれた柚月と櫻子、バレーをよく知らないのに一生懸命やってくださる瀬川先生、フォローしてくださる尾口先生には本当に申し訳ないです……あと、せっかく高校生になったのに、バレーに時間を取られてばかりで……私の思った高校生活と違うなっていう気持ちが大きくなっちゃって。だから、これで退部します。ありがとうございました」

 ほのかが教室に点在する者たちをぐるりと見回したあと、俺を見た。俺は美鈴を見た。ほのかを見つめる目からは、気持ちを読み取ることはできなかった。俺は座るようほのかに促した。

「じゃあ次、渡辺さん」

「はい……」

 立ち上がる柚月の目には光るものがあった。それが滑り落ちることを俺は決して期待していなかったが、柚月の眼球の器は案外狭いらしい。話し始める前にそれは柚月の頰を静かに滑り落ちた。

「ごめんなさい……初心者で入ったから最初から下手なのはしょうがないんですけど、それでも全然上達しなくて、練習もすごく厳しくなっていって……それで……」

 柚月の言葉が止まった。自分の足元ただ一点を見つめる柚月の表情から真意を読み取ることはできなかったが、美鈴を意識している、というのが俺にはなんとなくわかった。

 柚月の頰が何重にも渡って輝き始めた。

「この前の大会前のアップで、スリーメンで明らかに取れないボールを打たれて、取れなくて、それを厳しく責められて……それで、限界がきてしまいました。自分のプレーを全否定されて、悲しくなって……バレーを、もう、楽しめなくなりました」

 限界がもう一度訪れたらしい。柚月は嗚咽を漏らし始め、手で顔を覆ってその場に立ち尽くした。ほのかと櫻子が立ち上がり、柚月の背中に手を置いた。その手と肉体的に繋がった瞳も輝きを放っていた。

「わかった。今までありがとう。次、田中さん……いけるかな?」

 櫻子が立ち上がった。

「私は本当はスパイカーをやりたくてバレー部に入りました……セッターをやって、それはそれで良い経験にもなったけど……それであまり楽しめなっちゃって……自分のためのバレーができていないなーって。もう、一日たりとも、厳しい練習に出たくない、大会前のアップでさえも行きたくないって……」

 俺はヒヤッとした。櫻子が身体を美鈴へ向けたからだ。

「美鈴先輩に一矢報いてやろうって気持ちがありました。大会に出られなくなれば、美鈴先輩が困るだろうって思って……本当にごめんなさい。もう、バレーはできません」

 櫻子が深々と頭を下げた。美鈴はというと……笑っていた。笑って頷いていた。

「じゃあ、次は二年生。新庄さん」

 亜美がビクッと身体を震わせた。ゆっくり、周囲を見回しながら立ち上がった。

「私も……いや、私は……正直、勉強が追いついてなくて……一般受験するって嘘をついてしまっていたのは申し訳なかったけど……推薦だって、次の中間と期末の成績が考慮されるし、遅刻の数だって選考の対象になるし……バレーをやっていたら勉強する時間はないし疲れて寝坊もしやすくなるし、もう今までのようにできないなって……それで、一年生からバレーを辞めたいって言われた時、沙也香と相談して……美鈴、ごめんね」

 亜美も美鈴に頭を下げた。

「わかった。じゃあ、赤塚さん」

「はい……私は途中から入って、でもみんな仲良くしてくれてすごく嬉しくて……でも、期待されるのがこんなに苦しいんだってことがわからなくて……美鈴に怒られるたびに、なんで私はここにいるんだろうっていう疑問が大きくなっていって……亜美と相談して、引き返せなくなる前に辞めようって話になって……あの時……福原先生が来なければ、私は嘘をついたままだったんだと思います」

 進路部エリアで俺が電話してた時の話だな……あの時、沙也香の持久走の記録について福原が確認に来ることがなければ、状況はもう少し変わっていたのかもしれない。

「だから、美鈴にも申し訳ないし、他のみんなにも申し訳ない……ごめんなさい」

 沙也香が座ったのを合図に、俺は再度確認をすることにした。

「新庄さんと赤塚さんはバレーを辞めるということでいいんだね?」

 二人が頷いたのを確認し、俺は美鈴を見た、

「じゃあ工藤さん……お願い」

 美鈴が立ち上がった。

「まぁこうなることは予想できてました。もうこのチームはバラバラになっちゃってて、私にもみんなにも居場所はないんだなって。私はバレーが大好きだから、どこか別の場所で続けていきます。別にこのチームにこだわりはありません……でも、正直、大会前にばっくれられたのは腹立たしいので、最後に一言ずつ、言いたいことを言わせてもらいます」

 まずい……とっさに尾口を見たが、腕組みをして床を見つめるだけだ。美鈴の言う「一言」がよからぬ方向へ飛んだら止めに入ろう……足に力が入った。

「じゃあ、まず、ほのか」

 赤みを帯びたほのかの目が美鈴に向いた。

「あのね、正直言うと、一年生の中で一番上達が早かったの、あんただからね?私はあんたと一緒に前に立つのがすごく楽しかったし、気づいてないかもしれないけど、ほのかのスパイクで試合の流れが変わったことが何度もあったから」

 ほのかがわずかに下を見た。唇が少し動いた。涙を必死にこらえている……俺の目にはそう見えた。

「あんたの明るいキャラクターをこの学校で存分に生かしてね。ありがとう。次、柚月。」

 美鈴が目線を、ほのかの後ろの柚月に移した。俺の足にこもった力もだんだんと床に移っていくのを感じた。

「お前はミスした時に顔を下に向けすぎ。アップで私の打ったボールを捕れなくても落ち込んで下向く必要ないじゃんか。バレーを何にも知らなくて入ってきて、よくここまで伸びたなって思うよ、だからあれだな、自分をもっと好きになって欲しいな。柚月が軽音部と迷った挙句うちに来てくれたの知ってるから、試合に出るたび、私はまず一番にあんたに感謝してたな。ありがとね」

 美鈴の言葉は届いていたのだろうか……すっかり緊張が解けた一年生に苦笑いされるくらい泣いていた柚月は、美鈴の言葉に相槌を打つことはしなかった。

「次、櫻子。スパイカーやりたかったっていう気持ちを無視……いや、まぁ無視はしてなかったんだけど、叶えてやれなかったのは本当に申し訳なかった。ごめんね」

 苦虫を噛み潰したような顔で美鈴が顔の前に手を置いた。櫻子も顔の前に手を置き、流れては流れる涙をすくいながら、首をしきりに振った。

「でも、セッターってチームの要だからね。あんたはチームの柱だったんだ……それを自信にして欲しいな。ありがとう。次、亜美」

 美鈴に呼ばれても、亜美は顔を上げようとしなかった。単に気まずさからそうせざるを得ないことは俺の目には明らかだった。

「亜美と……あと沙也香もか、やっぱり嘘をつかれたことは悲しかったな。さっき謝ってもらって心に整理つくかなーって思ってたけど……やっぱり、まだ時間はかかる」

 亜美と沙也香が美鈴を見上げた。こちらからは二人の表情を見ることは叶わなかったが、それ相応の顔をしていることは想像できた。

「でも……亜美と沙也香がいたから、私はここでもバレーを楽しくできたよ。サンキュ」

 美鈴が笑った。それは俺が見てきた中では最高の笑顔だ。俗に言う「クシャっとした」笑顔で……そんな風にして笑えるんじゃん、と拍子抜けしてしまった。

 美鈴の背筋が伸びた。顔は尾口に向けられていた。

「尾口先生には、野球部で忙しいのに色々話を聞いてくださったり、バレー部の練習がある日も体育館のそばでこっそり私たちを見守ってくれたりして、本当に感謝しています。ありがとうございました」

 美鈴の笑顔につられたかのように、尾口も笑顔を見せた。

 目線の先に、細く鋭かった目が二つ並んでいた。雲に隠れた三日月のようだった。

「瀬川先生には……」

 漆の香ばしい匂いを嗅ぎながら何度も聞いた粘り強い声が、優しく俺を包み込んだ。意外性を含んだ音色は、もはや嘘でも良いと思わせるような魔術を持っていた。


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