7 保健室
7 保健室
体育科準備室の入り口の横にもう一つ、扉が置かれており、そこをくぐり抜けると別世界の保健室に足を踏み入れることになる。入った瞬間、保健室の中央にセットされた応接室宛らの小机とソファが出迎えてくれる。そして、右手には養護教諭の机が置かれており、立花に歓迎されることとなる。立花の机の後ろ側にはもう一つ入り口が……体育科準備室を介さなくても入ることができるドアが設置されている。そのドアから入ったとして、左手に立花の机、右手に流し台と、鼠色のパーテーションが見える。パーテーションの奥にはもう一つドアがあり、その向こう側ではベッドが五つ、白いカーテンを仕切りとして暖かく置かれていた。朝昼晩、授業中授業後を問わず、保健室には生徒がいた。
体育科準備室を経由して入ると、ちょうど、パーテーションの影から立花が姿を現した。右手に湯たんぽを、左手にバインダーを持っていた。俺に気づくとバインダーを持っている方の手を重そうに振った。
「珍しいわね。お怪我でもされたの?」
「いえ……あの、工藤美鈴はいますか?」
立花が動きを止めた。パーテーションを……パーテーションの向こう側を、かかとをチョーク半分くらい上げ首をキリンのように伸ばした。カーテンでベッドの様子までわかるはずもないが、立花は首を振った。
「ダメね、寝ちゃってる」
「そうですか……」
立花は湯たんぽとバインダーを自分の机の上に置くと、ソファの上に無造作に置かれているクッションを整理してスペースを作った。そして、流し台の横でひっくり返されていたマグカップを二つ取り、流し台の上の戸棚からインスタントコーヒーの粉入れを取り出した。座れ、ということらしい。俺はおとなしくソファに腰を下ろした。
コーヒーがなみなみと注がれたマグカップと、小さなチョコレートの袋を俺の前に起き、立花は俺の向かいのソファに座った。その時の立花の視線は俺の手元に注がれていた。俺が紙袋を持っていたからだろう。
「さっき工藤さんから聞いたんだけどね、瀬川先生って社会人やってから教師になったの?」
「そうです。ちょっと遠回りしちゃって。工藤がそんなことを?」
「そうなの、あの子……落ち込んじゃってて」
「尾口先生からだいたい聞きました。ご迷惑をおかけしたようで」
「いえいえとんでもない!それで、私が話を聞いてあげてたんだけど、最初はもう大変で、なんでみんな辞めるって言ったの!私は頑張ってたのに!ってもうめちゃくちゃ。でも、だんだん落ち着いてきて、私みたいに部活で苦しむ子を生み出したくないから先生になる!とか言い出したの。私が、じゃあ大学でしっかり勉強しなきゃね、って言ったら、瀬川先生の話を出したの。一回社会人の経験を積んでからでもいいとか、仰々しく言ってたわ」
美鈴がそんなことを……。俺は照れ臭さかった。俺のことなど教師として認めておらず、眼中にすらないのだと思っていた。俺が会社員から転職したことを美鈴に話した覚えはない。一年生の授業では言ったことがあるから、そこから話が巡って美鈴の耳にたどり着いたのだろう。その話を覚えていて、立花との話で出した。たったそれだけのことが、何とも嬉しかった。ただ、同時に抵抗もあった。美鈴は俺を苦しめた。たくさんたくさん、嫌なことをしてきた。簡単に、気を許すわけにはいくまい。今日ここに来たのだって、あの子に気を許したからではない。
「でもすごいわねぇ」
「え、なにがですか?」
「会社を辞めて、教師になったことが。今のご時世、なかなか無いでしょう?ブラックだ何だって言われてて。親御さん心配しなかった?」
「いえ、全然……なりたくてなったんですから」
「そう……」
立花が俺のマグカップを持って立ち上がり、後ろの流し台まで行ったかと思うと、今度は違うマグカップに紅茶を入れて持ってきてくれた。いつの間にかコーヒーを飲み干していたのか……自分でも全然気がつかなかった。
「瀬川先生が思ってることって、多分間違ってはいないのよ」
話が急に真剣味を帯びて来たような気がして、思わず姿勢を正した。立花がクスクス笑い出した。
「そんなにかしこまらないで。とにかく、瀬川先生は、きっと、間違ってはいません。だから、それを自信を持って伝えればいいの。相手は瀬川先生とは違う人間なんだもの、衝突するのは仕方ないじゃない。でも、自分が信じることが確かにあって、それが一般的に見て正しいことだったら、相手にぶつけてみればいいじゃない。結果は二の次。きっと相手もわかってくれます……教師になった理由をもう一度思い出して」
立花は俺の肩をポンと叩き、机へ移動して書類をペラペラめくり始めた。
黄色と茶色を心地よい比率で混ぜたような淡い色をした紅茶に映った自分の顔が、水面から抜き出て問いかけてくるようだった。なぜ教師になった。その答えを、ぶつける時は、今しかない。勇気を振り絞って……
「立花先生、工藤と話をさせてください」
「今?ダメよ、寝てるんだから」
「でも……今、今話しておきたいんです。いや、今じゃないと話せない……お願いします。今こそ、バレー部のことで先生が力になれることです」
書類をめくっては何か書く、の動作を繰り返した立花が動きを止めた。俺を一瞥し、パーテーションの裏へ歩いていった。そして、パーテーションの横からひょいと顔を出し、手招きした。