6 1年生
6 1年生
じゃあ次回は小テストをやるから勉強しておいてねー。はい、号令。
教室に自由の風が吹き荒れた。机に突っ伏して眠り始める生徒。ハンカチを片手に、仲良く数人でトイレへ走っていく女子生徒。こっそりスマートフォンを取り出して、SNSをチェックする物静かな生徒。
教卓の前に立つ俺の周りには生徒が群がっていた。授業に関する質問や、英検の英作文の添削の依頼や放課後の進路相談のアポなど。前職で英語を使いこなし、さらに多数の業界と取引をしていた俺の力を借りようと、早朝の市場のように賑わっていた。囲いから少し離れたところ、出口付近に櫻子、ほのか、柚月が揃って立っていた。
生徒対応が終わり、俺は教具を一式抱えて三人に近づいた。
「ごめん遅くなって!廊下で話そうか」
廊下に出た四人は、窓側に小さくまとまった。窓に背中をつけて立つ俺を中心に、三人が弧を描くように向き合った。
「今日の放課後の件だけど」
三人の視線の先が俺の鼻と脛の間をウロウロした。
「もう一回呼び出すことになって、ごめん。それで……」
言いたいことはわかっていて、それを言ったところで自分の身がどうにかなるわけでもない、覚悟を決めていたはずだったが、踏み出すのに時間がかかった。三人の目は泳ぐのをやめて、俺の口元で小休止していた。
「無理して残る必要はない」
三人の目は、俺の口の動きを確認して満足したかのように、俺の口元と袂を分かち、白く黒くぬるぬるした目を見つめていた。
「でも……工藤さんにはしっかり会ってやって欲しい」
美鈴との関係を完全に断ち切るのにはまだ程遠いことがわかっていたように、三人の目は揺らぎもせず、何かが滴り落ちることもなかった。
廊下を歩く生徒たちが、俺たちを避けるため、河川の小島の周りの流れのように大きく迂回していた。説教中だと勘違いしたのか、三人を心配そうに見る生徒もいた。俺は構わず続けた。
「会いたくない気持ちはわかるけど、今ここで逃げて後々学校内でばったり会ったりしたら、その方がよっぽど気まずくなる」
三人を守るという意味では、無理をして顧問権限を使ってこの場で退部を認めてやるのが一番いいのだろう。だが、その後も一年間、彼女らは美鈴と同じ屋根の下で過ごすことになる。一悶着ゆえ顔を合わせたくない人間と偶然出くわすことの辛さを俺は痛感してきた。
そう、冷静になってみれば、亜美と沙也香が残ったところで、一年生が残らなければ大会に出られなくなる、だからまだ負けではなかったのだ。無理して残る必要はない、それは、俺より優れた顧問でも普通に言うセリフだろう。
正門側の廊下の端から「通して」という切迫した声が聞こえてきた。三人が若干俺に近づいて、廊下を少しだけ広くした。俺の視界の左から右を、立花が全速力で駆けていった。体育の授業中に誰かが怪我でもしたのだろう。
「それに……みんな、あの子にはお世話になったんだ。お世話になった人には、どんなに憎たらしくたって、最後にはちゃんと挨拶しなくちゃダメなんだ」
いつも練習後のミーティングで俺の素人感丸出しの話にこまめに頷いてくれていた三人だったが、今日は無反応だった。ほのかが乾いた目を向けた。
「……私たちは、いつになったら解放してもらえるんですか」
「工藤さんに会って話し合ったら、もう、終わりになる。だから、最後、力を振り絞ってくれないか」
ほのかと柚月の顔が曇った。一方、櫻子の表情は一切変わらなかった。迷いの色も見られたが、一方で、強く険しい道へ進む覚悟ができたような顔もしていた。
「もちろん、工藤さんと話した上で、バレー部に残るなら残るで構わない」
今度は、特に、櫻子に向けて言った。
教材を片手に持ち、俺のちょうど斜め前に位置する出入り口から、隣の教室へと入っていく教師の姿が視界の隅に入った。時計を見たら、授業開始まで一分もなかった。
「前も言ったかもしれないけどさ。何もしてやれなくて、本当にごめん」
俺は頭を深々と下げた。声にならない戸惑いと恥じらいが、三人から聞こえてきた。
「俺は三人がいたからここまでやってこられた。ありがとう」
俺は顔を上げ、もう一度、三人の顔を順番に見た。脳がまたもや濡れてしまいそうになっていた。
じゃあ、放課後に進路指導室ね。そのまま、片手を挙げ、三人に背を向け、その場を離れた。俺が一人になるのを見計らっていたかのように、チャイムの音が鳴り始めた。その場の全てを統制する電子音に、生徒の喧騒が吸い込まれていった。渡り廊下を一人で歩く俺を包み込む白い静寂が、柚月とほのか、そして櫻子を、眼前に映し出した。そして、浜辺で潮が引いていくように、俺を囲む風景が、緑色の廊下から、茶色い体育館へと変わった。寒い廊下には不似合いな、無数の蝉の鳴き声が聞こえてきた。九月、文化祭の代休の練習の風景だ。
柚月とほのか、櫻子は汗を流して必死にボールを追っていた。柚月がオーバーハンドで宙に浮かせたボールが、ほのかの頭上に向かった。ぎこちない手さばきで、ほのかがボールに触れた。そのままボールは、ネットの前で氷の目で待ち構えた……美鈴のところへふわりふわりと不安定な回転で落ちていった。美鈴が、中途半端な挙手のように、右手をだらりと挙げた。緩慢な手の動きとは対照的に、目は鋭敏に動き、やがて櫻子にロックオンされた。一見、力が入っていなさそうに見える右手が、ボールを強烈に叩いた。櫻子に向けて放たれた剛球は、レシーブの体勢を作った櫻子の腕をかすめて、体育館の果てへ転がった。
「全然腰が落ちてないじゃん!」
美鈴がテーピングを施した指を櫻子に向ける。悔しさに顔を歪めた櫻子は、為す術なしといった表情で直立不動になった。
「ねぇ、あんたさ、何回言ったらわかってくれるの?あんたがこうだから柚月もほのかもちっとも上手くならないんじゃん!」
その時、俺は、櫻子に代わってボールを拾いに走っていた。体育館のステージの下にもたれかかったボールを拾い、また走り、美鈴の横に置かれたカゴに、そっと入れた。そして、定位置……一年生三人が守るコートの後ろ、体育館の壁に背中が触れるか触れないかのところに立った。美鈴の怒りは鎮まっていなかった。
「やる気がないなら辞めろよ!」
怒鳴り声で、俺は我に返った。いつの間にか、進路指導室のすぐ近くまで歩いてきていた。怒鳴り声は、俺の左側……北校舎と南校舎の間に位置する中庭から聞こえてきた。
見ると、尾口が、シャツをだらりと出してうなだれる生徒二人に対して怒っていた。
「もう金輪際学校に来なくてもいい!隠れてゲームをやっても許されるような学校に転校しろ!」
尾口は身振り手振り交え、鬼のような形相で生徒二人に怒鳴っていた。両手にはスマートフォンとポータブル型のゲーム機が握られていた。
尾口から目を逸らそうとした瞬間、タイミング悪く尾口に気づかれた。尾口が何かを言おうとしたが、俺はお辞儀をして、そそくさと目と鼻の先にある進路指導室の入り口へ向かった。とても、尾口と話す気分にはなれなかった。
進路指導室には誰もいなかった。「島型」に配置された教員デスクの後ろに用意された冷蔵庫を開け、二リットルのペットボトルを取り出す。キャップを開けお茶を喉に流し込みながら、隣の部屋の相談ブースに腰を下ろした。
ボール拾いに邁進し、涼しく平和な汗を流す自らの姿を思い出しながら、俺は自問した。ボール拾いをしている場合だったのか、俺は。いじめを苦に自殺した生徒の報道が思い返された。教育委員会や学校、担任だった教師の見苦しい言い訳。生徒に何一つ寄り添わない大人たちの姿に、はらわたが煮え繰り返るような思いを俺は抱いてきた。
しかし……自分も、見苦しかった。なぜ、ほのかと柚月と櫻子、三人を守ってやれなかったのか。美鈴に言い返されるのが怖い?いや、それはむしろ本望じゃないか。すでに相手にされなくなっていたのにこれ以上何を求めた?ほのかと柚月は、本来は軽音楽部に入ろうとしていた。それを、櫻子と俺とで説得して、バレー部に入ってもらったのだ。いや、櫻子だって、本当は、バレーから足を洗いたかったのかもしれない。わからない。俺はあの三人の青春を壊した。傷つけた。一生、十字架を背負う。だから、償う。
今日の話し合いは、とにかく、イニシアチブを取ろう。一年生に、思っていることは全て言ってもらう。その上で、もちろん、美鈴にも本音を出させよう。お互いが傷つかないよう、俺も口を挟む。あとは、自由だ。バレー部に残ってもいいし、残らなくてもいい。残らないように誘導するのは、やめよう。かえって、ややこしくなる。バレー部に関わるのは、もううんざりだけど、それでも。
隣から扉が開く音がした。失礼します、という声は、ほんの数分前に怒鳴り声をあげていたとは思えないほどの紳士的な落ち着きを含んでいた。
俺は返事をしてブースを立った。
「お疲れ様です」
尾口は片手をあげて応えた。
「さっきは変なところを見られちゃったな」
照れ臭そうに、しかし実は心の中では舌を出しているようにも見える表情を見せる尾口に、俺の心は幾分か柔らかくなった。
「で……ちょっと時間いい?」
「はぁ……」
「さっき、工藤が倒れたんだ」
「え!?」
「まぁ、バタンって急に意識を失うほどじゃなかったのが幸いだったよ」
「……さっきっていつのことですか?」
「つい三十分くらい前だよ。体育の授業中に、急に」
俺は教員用デスク、冷蔵庫、流し台を除いたスペースに置かれた来客用の椅子を尾口に勧めた。
「持久走をしてたら、急に腹を押さえて……そのまま動けなくなって、グラウンドで横になってな。汗びっしょりで、息も荒くて」
廊下を走る立花の姿が心に浮かんだ。
「とりあえず、今は保健室で寝かせているんだけど……あいつ、保健室に運んでいる間、ずーっと、泣いてたんだ」
「泣いてたって……」
尾口が深いため息と共に身体を椅子の背もたれに預けた。
「途中から立花先生に代わってもらったんだけど……帰りたい、帰りたいって泣くばかりだったんだと」
「もう帰ったってことですか?」
「あぁ、早退していった」
「そんな……だって、新庄さんと赤塚さんがバレー部に残ることになって……今日、一年生を説得してって……」
「うん……新庄と、赤塚な」
尾口は腕を組んで斜め上を見上げた。俺は息を呑んで続きを待った。
「……それは、いいや」
組んだ腕を解いて、尾口は俺をまっすぐ見つめた。
あいつには口止めされてたんだけどな、実はずっと、バレー部を辞めたがってたんだよ。そう、工藤。俺のところによく相談に来ててな、もうバレー部を辞めたい、自分には限界だって。もともと、あの子は腰痛がひどくて、中学でも相当苦しんでいたみたいで、でも、うちに来て、体験入部でスパイクを打ったら本人も嬉しいわ、先輩には猛勧誘を受けるわで、結局入部して……俺は去年授業を受け持ってたからか、よく愚痴を聞いたよ。腰が痛いのにレシーブなんかできない!あーたらこーたらができない!ってな、でも、あいつの他にも何人か入って、やっぱりバレーを頑張るって喜んで言ってたんだよ。
でも、最近また、腰の痛みがひどくなって、冬の公立高校大会で引退したいって俺に言って来た。もう、立ってるのも限界で。あいつ、俺の前で何度も泣くんだ。今の仲間と一緒にバレーを最後までやりたい、ここで辞めるのは悔いが残る、それでも公立高校大会を最後までやり切ることが出来れば、自分はそれで十分だ。四月から一年生も入るだろうからって。瀬川さんにも申し訳ないって、あいつははっきり言っていたよ……新庄と赤塚?もちろんあいつらは知ってたよ。知ってて、このタイミングで、退部したいって言って来たんだ。
瀬川さん、工藤と一昨日話したんだろ?その前にも、あいつ、授業中に泣き出したんだ。腹が痛いってわめいて、よくよく話を聞いてみたんだけど……瀬川さん、五人が退部したいって言ってきたこと部活の連絡網のLINE?俺はそういうことはよくわかんねぇんだがが……まぁいいや、そのLINEで軽く伝えたんだって?工藤に。まぁ瀬川さんは工藤に早く伝えたいって思ってそうしたのかもしれないけど、大事なことやびっくりするようなことは直接目を見て伝えなきゃダメだ。工藤はメッセージでそれを知って、一人でそれを抱え込んで、ショックでショックでたまらなくて……うん?今日泣いた理由?それはわからない。あいつは何も言ってない。でも、多分……そう、新庄と赤塚のことなんだけどな……
茶色の床を基調に、黄色と白と緑のテープで幾何学的に描かれた図形の上にユニフォーム姿で叫ぶ美鈴と、生暖かく、そしていじらしく流れて頰を赤くする涙とが、俺の脳内ではリンクしなかった。
公共の場で涙を流すことほど恥ずかしいものはない、と考えてきた。高校球児が土の上にひざまづき、涙に咽びながら、自らの膝を遠慮がちに汚す土そのものをかき集める姿に何度も違和感を抱いた。彼らの感情の源はどこから来ている、涙を他人に見られる羞恥心は何に消されている……「泣く」という儀式から逃れて今まで生きた。学校内で、授業中に、衆人環視の状況で、クラスメートからの好奇と憐憫と悪意と善意の勢揃いの目を全身に受け止めて、美鈴は涙を流した。涙を。そして涙の使いとなったのは俺……美鈴の心臓のポンプをひたすら押し、血を顔に流し込み、それを涙に変えた。美鈴の、悔しさ。俺の、悔しさ。
なぜ俺は教師になった。なぜ。なぜ。俺を動かしたものは何だった?九時出社十八時退勤、職場から寮まで歩いて五分、社食は一食二百六十円、朝昼晩と三色出る。分相応な立場を捨てて教師になった、その原動力は何だった?俺は何のためにここにいる。尾口先生、何ででしょうか。
無人となった向かい側の椅子に対して俺はすがるような目を向けた。バツの悪さにワイシャツの小さなシワを摘まれ引っ張られているかのように、椅子からなかなか立ち上がることはなかった。それでも、眼球だけはとりとめもない方向へと右往左往していた。チャイムが重く厚く鳴り、俺の眼球は動きを止めた。チャイムが鳴り止む頃には、俺の姿は消えていた。