5 赤塚沙也香
5 赤塚沙也香
チャイムが、放課後の始まりを告げた。俺は進路相談エリアの相談用ブースにいた。ため息を何度も繰り返し、真っ赤な字で染められた指導案を片手に、広げたノートにペンを走らせていた。
全然ダメだったな。遅刻は遅刻で仕方がない、そう開き直って挽回すれば良かったのに。亜美と美鈴の顔が何度も思い出され、目の前の生徒が全員亜美に見えてしまった。せっかく準備したゲームも、構文解説も、全てが中途半端……俺は何をやっているんだろう……指導教官による手厳しい講評会から解放されたあとも俺は相談用ブースから立ち上がることができなかった。ただ一点を見つめ、膨らんではしぼんでを繰り返す風船のように身体をもぞもぞ動かしていた。
すでにホームルームが終わったクラスがあるのか、昇降口の方から生徒の声が聞こえてきた。二酸化炭素が、風船内にゆっくりとたまっていった。俺は身体を起こして、進路指導室の入り口を凝視した。
しばらくして、扉が開いて、美鈴が入ってきた。俺を一瞥し、昼休みと同じように隣に腰掛けた
「赤塚さん、もうちょっとで来ると思うから」
「はーい」
美鈴は英単語のテキストを取り出して読み始めた。さっきの亜美の話の影響だろうか。俺は腫れ物にさわるように声をかけた。
「……新庄さん、残ってくれそうで良かったね」
美鈴は鼻を鳴らした。
「勝てるチームを目指すなら、亜美のレベルじゃダメなんです」
「でも、さっきはあんなに褒めてたじゃない。エースアタッカー任せるとか」
「そりゃ任せるしかないじゃないですか、私以外にまともなスパイク打てるのは亜美しかいないんだから」
不機嫌な顔を俺に向け、そのあとは単語帳から目を離そうとしなくなった。「まぁ、亜美はスパイクをただ打つだけだけで点にはならないけど」「ちょっと褒めればすぐに心が動くんですよね、あの子」とボソボソつぶやいていたが、俺に対してではなく英単語に向かって言っているようだった。
そして、沙也香がやってきた。砂嵐が混ざったかのように不鮮明でかつ音声が途切れ途切れに聞こえるような映像を見ている気持ちにさせる、なんともおぼつかない足取りをしていた。正面に座らせ、亜美と同じように話を切り出そうとしたが、美鈴が一歩早かった。
「自律神経失調症?」
「……え?」
「沙也香がかかってるやつ。あ、事情は先生から聞いてるから」
「う、うん、それ。よくわかったね」
「嘘、適当に言ったんだけど、当たっちゃった」
美鈴は口に手を当てて笑ったが、沙也香は笑っていなかった。
「大丈夫だよ、沙也香。バレー辞めなくてもいいって」
「でも……ドクターストップかかってるんだよ」
「医者なんて大げさに言ってるだけだから、ね?」
俺は自律神経失調症のことはよく知らなかったが、「ドクターストップ」がどれほど恐ろしいものかは充分理解していた。このまま、沙也香が美鈴の口車に乗せられ試合に出たとして、沙也香の身に何かあったらどうなる?俺が責任を問われる。せっかく手に入れた今の立場を追われることにもなりかねない。自分の身は自分で守らなければ。
「赤塚さん、診断書はないの?」
「診断書……ですか?」
「そう、まぁ、赤塚さんの……持病?の程度を知っておきたくて、他の部員にも説明しやすいじゃない?俺も心配だし……って言っても、今の状況で俺が心配してどうなる?みたいな感じかもしれないけどさ」
診断書があればさすがに美鈴も納得するだろう。沙也香を助け、自らをも助けたつもりだったが、
「診断書はちょっと……」
という言葉が返ってきたので、どうやら助けたことにはならなかったらしい。
「ん、何か持ってこれない事情があるの?」
「はい……診断書は……多分出してもらえないと……」
思わず頭を抱えそうになった。診断書を出してくれない病院など聞いたことがなかった。こちらで交渉してしまおうか……病院名を聞き出そうとしたら、美鈴がパチンと手を合わせて頭を下げた。
「お願い!何もしなくて良いから、今度の試合には出て!本当、バックでただ立ってればいいから!レシーブも何もしなくていいし、サーブも、ポンって適当に打つだけでいい!許す!」
「ごめん、本当に嫌……というか難しいよ」
沙也香がここぞとばかりに俺を見た。「先生、助けてください」という切実さと「先生、なんで助けてくれないんですか」という痛烈さが混ざった複雑な表情をしていた。
「工藤さん、俺は……正直、無理はさせられない」
「先生、ちゃんと調べたんですか?」
俺の抵抗をいなし、美鈴はたくましく話し続けた。
「あのね、自律神経失調症を患いながら、スポーツを続けている人はたくさんいるんだよ。病は気から、って言葉知ってる?あんた気持ちで負けてるだけなの、こんなところで終わって悔しくないの?」
「うーん……」
「あんた、バレー部入ってくれた時言ってたよね、いくら辛くても逃げない、紗英ありえねーって。だから、あんたが一番ありえないよ」
沙也香の身体が停止した。目が切れ長に変形して、まっすぐ、美鈴に向けられたまま動かなくなった。白銀のような冷淡さに満ちた沙也香のまなざしを、美鈴はレシーブして殺していた。俺は息を殺して見守るだけだった。この状況を一種のチャンスであると考えた。美鈴と沙也香が喧嘩でもして、それが殴り合いにでも発展すれば、有無を言わさず活動停止、尾口が黙ってはいないだろう。いっそのこと喧嘩を煽ってしまおうか、投げやりにそう思い始めた時、沙也香が静寂に割って入った。
「本当に、動くと苦しくなるから、リベロくらいしかできないよ」
「そう、それ」
待ってました!と叫ぶような威勢の良さで返事をした美鈴は、ポケットからスマホを取り出し、画面を上にして沙也香の前に置いた。
「見て、次の大会のポジション。スパイカーを私と亜美の二枚にして、美鈴にはバックでひたすら守ってもらって……そうすればさ、攻めのバレーはあんまできないかもだけど、守りのバレーをしていけば、いけるよ、うちら」
冗談かと思ったが、美鈴の目は本気だった。獲物を狩る猛獣のような細長い目。拒む者に噛みつきそうなオーラを放っていた。
怖い、情けないけど、美鈴がすごく怖い。でも、やるしかないんだ。ここで沙也香がバレー部に戻ったりしたら、バレー部廃部へのシナリオがまた一つ、狂ってしまう。何としてでも阻止しなきゃ。
「工藤さん……それは、ちょっと、難しいんじゃないかな。赤塚さんに無理に試合に出てもらっても、途中で体調が悪くなったら棄権ってことになるし……顧問として、それは許せない」
「顧問なら大会に出るように何とかするべきなんじゃないですか?」
ダメだ、暖簾に腕押しだ。タイミング悪く、進路指導室の他の教師は出払っていた。尾口にも電話をしなきゃ。
「ちょっと待ってて」
美鈴たちから離れ、隣の進路部エリアへ向かった。デスクに備え付けられた電話の受話器を取った。内線番号表を指でたどる。体育科準備室の番号に行き当たると、そこの下を指で押さえながら、プッシュ式の電話機に番号を正しく打ち込んだ。
プルルルル。プルルルル。出てくれ、頼む。俺は額に汗がにじむのを感じた。虚しいコール音が俺を煽るかのようだった。
諦めて電話を切った。職員室にいるのかもしれない。藁をも掴む思いで職員室の生徒指導部のエリアに電話をかけるや否や、隣で扉が開く音がした。男の、生徒のものではなさそうな声が、美鈴と沙也香に絡むのが壁越しに伝わってきた。
電話が繋がった。受話器を持つ手に力が加わった。
「はい、生徒指導部です」
尾口ではなかった。嘆息が、通話口にほのかに広がった。
「あ、瀬川ですけど、尾口先生はいらっしゃいますか?」
「いや、こちらにはいらっしゃらないですね……あ、そうだ、もらった電話で悪いんですけど、新庄さんと何かありました?」
隣で、美鈴が声をあげたのわかった。何を言っているのか全くわからなかったが、非難の声のようだった。続いて、男の声。まるで美鈴を慰めるかのように、優しい声色だった。俺の耳は完全に隣に奪われてしまった。
「瀬川先生?」
「え?」
「ほら、二年G組の新庄さん。さっき瀬川先生、家庭科室の前にいらっしゃったでしょ?あの後授業で新庄さん、バレー部が何とかって友達とコソコソ話してて、注意しても聞かなくて」
電話に出たのは、あの時、家庭科室の前で出くわした立花だった。俺の学校では、養護教諭は通常生徒指導部の保健担当という分掌に籍を置くことになっており、職員室の生徒指導部のエリアにデスクを置いていた。
「あぁ……申し訳ありません、指導が行き届いてなくて」
「いいのよ謝らなくて、でも、先生、もしかしたら、新庄さんと言い争いでもしたのかしらって……バレー部で苦労されてるものね……って、ごめんなさい、つい話しすぎちゃった。尾口先生、体育科準備室にいらっしゃるんじゃないかしら?」
「それが、さっき電話してみたんですけど、誰も出なくて」
「あらぁ、本当に?どこにいらっしゃるんだろう……」
「あぁ、いいです、探しに行きます」
扉が開き、足音がしたかと思えば、すぐに扉が閉じる音がした。男が出て行ったのだろう。それなりの時間話していたようだ。美鈴の強烈な声が続いた。
「そう、ごめんなさいね」
隣の様子が気になって気が気ではなかった。慇懃に礼を言って一刻も早く受話器を置こうとしたが、慌てて引き止める声がした。
「あぁ、待ってください。先生、もしバレー部のことで力になれることがあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます」
曖昧に礼を述べ、ようやく受話器を置いた。同時に、もう一度、隣の扉が音を立てた。慌てて進路相談エリアへ戻ると、美鈴が帰り支度をしていた。沙也香はいなかった。
「沙也香、辞めないって言ってました」
「え……?本当に?」
「嘘つく暇なんかないですよ。じゃあ、今日はもう帰るんで。さようなら」
どことなく不機嫌な表情をぶら下げた美鈴が、扉を開けて出て行った。事情を飲み込めず立ち尽くす中、亜美の顔が頭に浮かんだ。すぐに話せば、心変わりを止められるかもしれない。そう思うや否や、足に火をつけられたように、進路指導室を飛び出した。左右を見渡したが、陽が差し込まず冷え冷えとした薄緑色の廊下が無機質に伸びているだけだった。
左だ。直感を頼りに、俺は左へ向けて走り出した。右へ行けば職員用玄関にぶつかるが、そこを出て、そのまま向かいの生徒用昇降口に渡ることは可能だ。つまり、沙也香がすぐに帰宅するというのなら、右に向かった可能性が高い。だが、沙也香が「辞めない」と言った理由……おそらく、本心から出た言葉ではなかったのだろう。ともすれば、沙也香のストレスは蓄積したはずだ。女子生徒のストレスのはけ口は、一におしゃべり、二におしゃべり。
南校舎の中央に位置する階段を一段飛ばしで登り、渡り廊下を走って北校舎へ移動した。渡り廊下と北校舎の廊下で形作られたT字路に辿り着いた。カバンを背中にぶら下げて群れた生徒や、ジャージ姿でテニスラケットを背負った生徒が教室から吐き出されていた。頭の中で部員名簿を開いた。赤塚沙也香……二年A組。正門から一番近いA組教室へ足を向けた。生徒とすれ違いざまに「さようなら」と挨拶をしていると、俺の視界が、教室のドアの上部に、廊下に対して垂直に取り付けられた「A組」のプレートをとらえた。ドアは開いていた。
「さぁ、どうだ」
独り言で口を潤し、中を覗いた。
いた。
予想に反して、残っているのは沙也香一人だけだった。細心の注意を払った様子で、俺は、全開になったドアの縁をコンコンと叩いた。こちらを向いた沙也香の目が固まった。
「ごめんごめん。ちょっとこっち出てくれる?ちょっと」
沙也香が荷物をまとめる手を止めたので、俺は返事を待たずに廊下に退いた。すぐに沙也香が出てきた。
「赤塚さん……バレー部、残るの?」
「……なんか、そうなっちゃいました」
「いや、でもさ、医者から止められてるんでしょ?」
沙也香は一瞬言葉に詰まった。
「医者と美鈴じゃ比べものにならないですよ」
単語を精一杯絞り出したかのように、沙也香の顔に疲労の色が浮かんだ。そのような表情を見せた自分に少し驚いたような顔をして、無理をするようにして笑みを作った。
「今度の大会は立ってるだけにします。ユニフォーム着て、ずっと」
そう言って、沙也香は教室へ戻っていった。間髪を入れずに、正門側の廊下から走ってきた女子生徒が、俺とドアの淵との間をくぐり抜けるようにして教室に身をねじ込んだ。
「あ、沙也香じゃん!もう帰り?」
沙也香の視線がチラチラと俺に向けられているのに気づいた女子生徒は、あたかもそこに誰もいないかのように冷徹に、ガラガラと音を響かせてドアを閉めた。