4 新庄亜美
4 新庄亜美
「……あと、今日は一番奥の渡り廊下が、天井の修繕作業で一日通行止めとなるそうです。あとは……今日の五時間目、私の研究授業がありますので、お時間が許せばぜひお越しいただきご講評をお願いします。以上です」
毎朝、職員室では生徒が登校してくる時間に合わせ、打ち合わせが行われる。各教師が連絡事項を共有し合うのだが、進路指導部の教師たちは進路指導室にいた方が都合が良い。授業前に進路相談をしたいと訪れる生徒も少なくないからだ。なので、俺が代表して職員室に出向き、打ち合わせで共有されたことを進路指導室に持ち帰ることになっていた。
デスクの上に置かれた書類の束を取り、進路指導部の教師たち一人一人に手渡しで配った。いわゆる「指導案」というもので、採用三年目までの教師は年に三回「研究授業」という、全教師に公開して講評をもらう授業をする必要があり、その授業の進め方や指導目的等を細かく記したものだ。
「わー大変だね、頑張って」「授業が被ってて見に行けなくて残念だわ」
励ましの言葉を背に、俺は研究授業の準備の仕上げとして、教科書を開いて英文を読み始めた。今日は昼休みを準備に使えないので、忙しい。こんな時にもバレー部に邪魔されるとは、皮肉なものだ。
「私、このままじゃ納得できませんから」……言葉通り、美鈴は諦めなかった。美鈴と俺とで、部員一人一人と三者面談をすることになった。
ひとまず、今日は、昼休みに新庄亜美、放課後に赤塚沙也香。大会までの残り日数を考えると、すぐにでも部員を説得しなければならない、というのが美鈴の考えだった。水曜日に二年生、木曜日に一年生三人と面談をする。なんとか説得して、金曜日から練習再開。体育館は他の部活と交代で使っており、女子バレー部に割り当てられた活動曜日は水曜日と金曜日、隔週で土曜日も。大会前ということもあり、その週は土曜日にも体育館を取れていた。部員の引き止めに成功した暁には、金曜日の練習で感覚を取り戻し、土曜日に実践的なメニューをこなして大会に間に合わせる、というプランを美鈴は組み立てていたらしいが、俺は「取らぬ狸の皮算用」という言葉を教えてやりたくてしょうがなかった。
そして迎えた昼休み。ここで亜美と話をして、放課後に沙也香と顔を合わせる。教室まで出向いて話し合いのことを告げた時、二人はそれぞれ同じ顔をしていた。
約束の時間まで、あと五分。例によって、進路指導室の問題集閲覧スペースのテーブルの片隅を陣取って、落ち着かない時を過ごしていた。
ドアが開いた。不信感のあまり、光が失われた目が二つ、少しも動くことなく俺を睨んでいた。
「あーごめんね、入って」
陰険な明るさを帯びた声で迎えた。だが、亜美は座るどころか入ろうとさえしなかった。
「あの……なんですか?」
「いや、バレー部のこと、もう一度考えてくれないかって思ってさ」
「えー……」
漆黒に満ちた闇の目が俺を容赦なく攻撃する。このようなことをされてまで美鈴に従う自分を積極的に恥じた。
「今日、塾の体験授業に行こうと思ってたんですけど」
口をとがらせていた亜美だが、背後の気配に気づいて小さく跳び上がった。二年間、共にボールを繋いだ「かけがえのない」仲間が立っていた。
「亜美じゃん」
黒に黒を混ぜてかえって白くなった亜美の目が行き場を失っていた。そんな亜美の背中を押す美鈴の目は、虹のように鮮やかだった。
美鈴と俺が並んで座り、二人の真正面に亜美が座った。ごく自然な流れで、この配置となった。
話の口火を切ったのは、意外にも亜美だった。前日以上の神妙さで身体を固くした彼女は、今にも椅子ごと倒れそうな弱々しい声で、こう切り出した。
「昨日のLINE……」
「いーよ、読むだけでも疲れるもんね、あんなの」
美鈴の軟らかい声が場の空気を解きほぐしていった。亜美の顔が、曇り空の夕焼けのように、少しだけ赤みを帯びた。
「ごめん……で、バレー部なんだけど」
「うん」
亜美の言葉がなかなか出てこなかったので、あとを継いだ。
「工藤さんに話した通り……新庄さんは、受験をしっかり頑張りたいって思ってて。チームとか、バレーが嫌いになったわけじゃないんだ……だから」
「あのさ、紗英が辞めた時、亜美が私に言ってくれたこと、覚えてる?」
俺に対して向けられた言葉なのかと思ったが、美鈴の優しげな顔は亜美に向いていた。つまり、俺の言葉は清々しく無視されたということだ。
「あー……」
「これから何があってもついていくから……そう言ってくれたよね?」
「うん……覚えてる」
「なんで、あの時、あんなこと言ってくれたの?」
「……あんなになっちゃった美鈴、見たことなかったから」
美鈴がクスッと笑った。
「そかそか、ありがとね」
黄色いハンカチのような色味が宙に漂った。
「だからこそ、うち、うーん、あの時以上に悲しいなぁって思っちゃってるかな、今」
紗英は二年生で、夏休み前までバレー部にいた生徒だ。亜美に誘われて入部したらしく、運動神経は皆無に等しかった。この学校でなければ体育館に入ることさえ許されない生徒だろう。だが、他のどの部員よりも優しくて、小さな身体で必死にボールを受け止めていた。美鈴とは相性が合わなさそうな子だった。
「ちょっとバレーはもういいかなぁって。あ、先生は悪くないですから」
紗英がそう言い残して辞めた次の日、美鈴は何事もなかったかのようのスパイクを打っていた。悲しみを、俺の前ではおくびにも出していなかった。
「ごめん……」
不規則に身体を縮こまらせる亜美に美鈴は悪戯っ子のような目を向けた。
「ほら、リラックスしよう、リラックス」
亜美が試合中に頻繁に使う言葉を、美鈴が真似たのだ。
「懐かしい」
顔をほころばせた亜美と上目遣いで笑う美鈴。もし、何も知らない生徒が入ってきたとしたら、二人は、仲睦まじく勉強する友人同士にしか見えないだろう。端から美鈴は亜美をバレー部に引き戻そうとなど考えていないのかもしれない。そう思わせるくらい、二人の周りには安穏とした空気が流れていた。
「もう戻ってこないの?」
「……うーん」
煮え切らない態度にいらついた。はっきりと「戻らない」と言ってくれ。こうなれば、禁じ手を使うしかない。
「亜美は早稲田を目指してるんだよな」
エアコンの風で一本一本丁寧に揺れる前髪の下で、亜美の顔の動きが止まった。無音を許さないかのような、美鈴の驚嘆の声。
「え、早稲田!?そんなに頭良かったっけ」
亜美の顔が崩れたかと思いきや、優しい照れ笑いに変わった。
「うん……いや、ううん、良くないけど、一年生の時にオープンキャンパスに行ってから、ずっと憧れてて」
「えー早稲田とかやば!」
「うん、だから」ここぞとばかり、声に力を入れた。
「勉強の時間が欲しくて……不安なんだよな、本当はこの時間だって惜しいんだよな」
「はい……今まで、土日もずっと部活で、疲れて勉強なんかできなくて……でも、小テストだけでも点は取るようにしてて、そしたら担任の先生も、もっとしっかり頑張れば早稲田に行けるって……」
「いいな、うちもそういう風に言われたい」
「うん、そう、すごく嬉しくて……一分一秒でも早く、受験モードに入りたくて……塾も、今からでも入って大学受験用の講座を受けたくて……でも、良さそうな先生の授業、土曜日にあるんだよね……映像授業は日曜日の方がたくさん受けられるし」
亜美の不安は物悲しくなるほど身に沁みた。今度の決勝リーグで勝ち進んだとしたら、その次の週に全都立高校の中での一位を決める「真の決勝」に出ることになり、オフはお預けとなる。負けたとしても、忙しい日々に変わりはない。三月に行われる旧学区主催のローカル大会、四月の春季大会に向けて、美鈴のパッションは取り返しのつかないところまで加熱されていくのだろう。まるで、蟻地獄に巻き込まれていくかのような絶望感を、亜美は味わってきたのだろう。地獄から這い上がる者を蹴落とすのは、性に合わない。一気に畳み掛けよう。
「あのさ、新庄さんは何で早稲田に行きたいの?」あくまで、明るく。
「……ネームバリューに惹かれて」
「本当?そんな理由で、わざわざバレー部を辞めてまで勉強しようと思うか?」
目のふちの筋肉にありったけの力を込めた。俺のまなざしの強さに気圧された様子で、亜美が何かを言おうと唇をわずかに開き空間を作った。しかし、すぐにその空間は塞がれ、亜美の視線は俺の隣に注がれた。こうまでも曖昧な態度をされるとは。
「新庄さん、実はさ、俺早稲田だったんだ」
「え、そうだったんですか?学部は?」
「教育」
「おー」
この時の亜美の食いつきは、体育館における俺に対する態度と相対するものであり、「信頼を勝ち取った」と感じるには充分すぎるほどの従順さと素直さが醸し出されていた。当然、俺は調子づいた。
「突拍子もない話かもしれないけどね、俺にとって、早稲田は生きる希望だったんだ」
「はぁ」
「俺、高校の時に……まぁ、ちょっと取り返しがつかないことがあって。悪いことをしたわけじゃないんだけどね。とにかく、高校生活で、大きな後悔が残ってしまって。それがきっかけで教師になったんだけど」
何の話をしているんだろう、と言わんばかりの不信感が亜美の顔に浮かんだ。
「関係ある話だから」
と、亜美を引きつけ、一呼吸置き、語った。
「残り一年の高校生活で挽回したい。自分がこの高校にいた意味を残したい……そう思った時に、頭に浮かんだのが早稲田だったんだ。早稲田に受かれば挽回できる。自分が高校生活を全うしたと、胸を張って言えるってね。それまで成績は中の下だったけど、死ぬ気で勉強した。休みの日は十時間、平日も五時間。で、現役で何とか滑り込めたんだ」
亜美が再び、そしてゆっくりと、尻尾を振り始めた。
「えーすごい……十時間かぁ」
「だから、今の新庄さんは、あの時の俺と、重なるような気がして。早稲田を目指すのも、何か特別な理由があるんじゃない?」
俺の話が後ろ盾となったのか、さっきまで美鈴の様子を気にしていた亜美が、訥々と、話し始めた。
「私……中学の時はエースアタッカーで……試合でも、私がスパイクを決めまくって勝つっていうのが、主流になってたんです」
「でも、それは今でも変わらないじゃん」
「そんなことないです……やっぱり高校ってレベル高いんだなーって。一年生の時から落ち込むことが多くて、美鈴とか沙也香の影で、サーブミスを恐れながらコートに立つことに疲れちゃってて」
「そうか……気づいてあげられなくて、ごめん」
本当に申し訳なく思った。副キャプテンという立場が色眼鏡となっていたのかもしれないが、俺にとって、亜美は、美鈴や沙也香と遜色のない力を持つ選手という印象があった。むしろ、俺を顧問であると微塵も思わない態度も散見されたことで、美鈴と同じ穴のムジナであると思っていた。
「いえ……だから、ここ一年くらい、ずーっと、バレー部以外で、何か輝けることはないかなぁって悩んでて……それで出会ったのが、早稲田大学で。バレーで輝けなかったから、せめて受験で輝きたいんです」
勝負あり。亜美がバレー部に残る理由は何一つ見当たらなかった。
「気持ちはよくわかった、ありがとう」
「話を戻すけど……バレー部の件ね。新庄さんが抜けるのは、正直痛いし、俺は悲しい」
バレー部のことを考えているふりをするのは忘れない。この場での俺の態度が職員室にどう伝わるか分からない。
「でも、新庄さんの人生に関わることだし。安易に「残れ」と言うことはできない」
熱心に述べながら、美鈴が口を挟まないことを疑問に思った。人間の不可思議な性で、忌まわしく思う何かが存在を消した途端、微量の恋しさを感じる。亜美に語りかけながら美鈴の存在を横目で確認した。美鈴が俺の話を聞いている様子は見られず、スマホを熱心にいじっていた。話をしたいと自分で言っておいて、何だその態度は。産声を上げた怒りはすぐに萎み、二度と引き上げられないところまで落ちた。利己主義のかつらを被ったような美鈴に慣れてしまった自分がいて、俺は激しい恐怖を抱いた。その時だった。
「亜美さー」
傍で聞けば可愛らしい声なのかもしれないが、俺にとっては耳障りでしかない、アヒルの鳴き声と可憐なエレクトーンの音色を混ぜたような声が響く。美鈴がスマホの画面を亜美に見せた。
「見てこれ」
美鈴が赤ん坊を撫でるような手つきで画面をこする。俺には、ただの文字の羅列にしか見えなかった。亜美が戸惑ったように画面を見つめた。
「うちらの先輩の合格体験談。チョコ先輩に集めてもらった」
「わ、懐かしい」
「限定公開だよ」
チョコ先輩というのは、美鈴の二個上で、これまたバレー部のキャプテンだった生徒のあだ名。上級生がいない後輩たちを心配して、時折練習を見に来てくれていた。美鈴も懐いていたし、俺にもしっかり挨拶をしてくれる、頼もしいOGだった。
「へー……みんな、部活を夏まで続けてても現役合格してるんだ」
「そう、そこ」
美鈴は用済みと言いたげな手つきでスマホをしまい、亜美を上目遣いで見た。
「部活辞めたらさ、土日は時間ができるよね?どうやって過ごすつもり?」
「いや……勉強するに決まってんじゃん」
美鈴のトーンが若干挑発的になったことで、亜美も警戒心へのストッパーが壊れてしまったようだった。
「本当?彼氏と会わないの?」
「あ、あわ」
「あわ?会っちゃう?ラブラブだから?」
「あ……会わないよ。勉強するもん」
「亜美さ」
美鈴の口元の右側が妙な歪みを見せた。折れ線グラフの変化。一秒の間が数分に感じた。
「あんた、サーブする時……てか、サーブミスするだろうなーってうちらが思っちゃう時、かな、似てるよ、同じ目してるよ、今」
これまで何百、何千という仲間のミスを捕らえて逃さなかった切れ長の目が、言葉を失う亜美の目を、すくい上げるように鷲掴みにした。
「これじゃ落ちるよ」
ここで美鈴にキレるべきなんだよ、わかるか、なぁ。俺は自らを叱咤した。この場において、美鈴を止められるのは俺だけだった。だが、美鈴の存在そのものが、俺を抑制した。この場にいる理由がますますわからなくなった。
だけどよ、考えてみろよ。もう一人の、よりリアルに近い瀬川健太が姿を現し、反論した。練習中、試合中、大会後のミーティング……これまで、何度もこういう場面があった。俺は部員を助けることはなかった。怠惰によるものではないことが救いかもしれないが、一番の権力者のはずが、あっさりと権力を放棄した。そして、一人の、単なる女子生徒に対して、無様にもひれ伏した。他の部員から見れば、いや、暴れる美鈴本人ですら、この顧問は何なんだろうと思ったに違いない。何もしない顧問、事なかれ主義顧問、弱虫顧問。そんな大人が、生徒からの信頼を失った大人が、今さら変わったってどうなる?今、ここで美鈴にキレたところでどうなる?失った信頼を再度積み上げたつもりで、積み上がったのは冷笑と嘲笑。そういう経験をしてきただろう。お前は、俺は、何もしなくていいし何もしない。どうせ亜美はバレー部には戻らない。安心しろ。
「なんてね」
美鈴が、数十分前に見せたような道化師の表情に戻った。
「亜美はうちなんかより成績いいし一年生の時から頭いいの知ってるもん、早稲田いいよ、いけるじゃん!うち応援するよ、応援だけだけど」
「……ありがとう」
「でも、もったいないな。せっかくサーブ上手くなってきてたのに」
「えー、そうかな」
「うん、亜美、サーブミス少なくなると一気にスパイク決まるようになるじゃん。今度の大会では、亜美にエースアタッカー任せよっかな、とか、まぁ色々考えてた。なんだかんだ、頼りにしてたし?」
亜美の目が潤った。まずい。直感が役に立たない働きをした。進路指導室に訪れる生徒の中には、進路選択で行き詰まるあまり泣き出す者も少なくなかった。涙の前触れが、何となくわかるようになってきた。涙を流す生徒の瞳は、濁流の先にある神々の憩いの場となる泉のように、平坦な波を立てて、ゆっくりと潤っていく。その潤いは、透明であり、紅い筋を帯びていることもあり、何より青い。群青のさざ波が亜美の目を動かした。別れの涙。女の涙をさほど見てこなかった俺でも、涙の味の気配は手に取るようにしてわかるようになった。
「なーに泣いてんだよ」
いつの間にか、美鈴は亜美の隣で膝立ちし、亜美の肩を抱いていた。俺は本格的に取り残された。
「今まで支えてくれてありがとう。バレー部のことは心配しないで」
勝った……祝・バレー部廃部、大会辞退。ガッツポーズの一つでも作ってやろうかと思った刹那、美鈴が亜美に顔を近づけた。亜美が何か囁いたようだ。
「ん、何?」
今度は、直立不動の二等兵から発せられるような声が、場を静かに支配した。
「水曜は……出れなくなるけど」
「え、何、どゆこと?」
「水曜は塾に行きたい。良さそうな先生が水曜に授業をやってて。今日、本当はその先生の体験授業に行こうと思ってたんだけど……多分、授業取るから」
「……」
「今度の日曜日は、ちゃんと空いてるから、大丈夫」
「え……何?どういうこと?どういうことですか?」
わざとらしく、そしてなぜか俺にも問いかけた美鈴の姿が煩わしかった。俺もよくわからなかったが、嫌な予感がすることだけはわかった。
「……ごめん!あんなに辞める辞める言っといて……やっぱり、バレーも私好きで、美鈴にあんなに褒めてもらえると思ってなくて……エースアタッカーになれるんだったら、さっき先生がおっしゃってた、ここに私がいた意味をバレーで残せるんじゃないかなぁって」
待て待て。昨日までの威勢……いや、弱さはどこへ置いてきた。もっと積極的に行こうぜ……
「そっか」
美鈴がフゥッとため息をついた。
「それは嬉しいんだけどさ、とりあえず一日考えれば?明日また気持ちを聞かせて欲しいかな」
「あれ、今日練習は?」
「え……先生、一年のこと言ってなかったんですか?」
ギクリとした。反省文を書けと言わんばかりの詰め寄り方だった。
一年生も退部しようとしていることを聞いた亜美は言葉を失った。
「そうだったんだ……なんで櫻子たちも」
「よくわからんね。どっちみち、このままじゃ大会なんて出れないし、練習も言わずもがなだから」
「バレー部は……廃部?」
「うーん」
美鈴が俺を見たが、「まだわからないよ」という当たり障りのないことしか言えなかった。昼休み終了五分前のチャイムが鳴り、話し合いは終わった。美鈴の言う通り、結論は次の日に持ち越しとなった。
二人が教室へ帰ったあと、自分のデスクに戻り教材の準備を始めた。五分前には教室に入り準備をするのが日課の俺にとって、今日はすでに大遅刻だった。よりによって研究授業で遅刻をするなんて。しかし、机の上の横長の本棚を探る手が、徐々に止まっていった。
お前、このままだとバレー部に人生吸い取られ続けるぞ。
ネガティブ思考は服にこびりついたペンキのように消しにくかった。一度心に浮かんだ心配事は粘り強く生き続けた。このまま亜美が戻ったらどうなるか?一番の不安は沙也香だ。美鈴と亜美の押しに負けて部に留まってしまう可能性が捨てきれなくなる。そして、亜美を引き止めたテクニック……アメとムチの「アメ」、それも甘ったるい蜜が最も凝縮した「「アメ」を美鈴が一年生三人に差し出したとしたら……結果的に、今度の日曜日は、何食わぬ顔で、六人揃って大会に出ているかもしれない。何もやることがなく、タイムアウトの指示のタイミングすら美鈴に握られ、胸につけた監督バッジが虚しく斜めに傾く、俺の姿。審判台に嫌々登る足、ぶら下がる笛。判然たる空想は、俺の尻に火をつけた。
五時間目で使う教科書とプリント……あまりにも分厚くなった一式を脇に抱え、俺は進路指導室を出て駆け出した。あと二分。授業が始まる前に亜美を捕まえなくては。
勤務校は大きく二つに分かれていた。コンクリートでできた中庭を挟んで、各階に二つ設けられた渡り廊下で結ばれた三階建ての校舎のうち、職員室や進路指導室がある南校舎、そして、生徒の教室が並ぶ北校舎。正門から見て奥にずーっと伸びるように構える北校舎二階の一番奥、二年G組が、亜美のクラスだった。それに対して、進路指導室は正門のほど近く、南校舎の一階。
頭が重くなった。次は一年A組……進路指導室から渡り廊下を渡ってすぐ、授業開始には充分間に合っただろう。だけど、一刻も早く亜美を捕まえなくては。亜美を説得し直して、今度こそ美鈴に対して毅然な態度で接するんだ。俺は南校舎の廊下をがむしゃらに走った。
北校舎の最奥へたどり着いた。ここから渡り廊下を渡り北校舎へ入れば、真上には目指す地・二年G組の教室……生まれたわずかな余裕からか、腕の振りが大きくなり足の裏は天井とほぼ平行となった俺の眼前に、渡り廊下に敷かれたブルーシートが広がっていた。作業着姿の男たちが、脚立を立て、資料片手の打ち合わせをしていた。
「あ、こちら修繕で通行止めになってますので、ご迷惑おかけします」
あぁ、朝の打ち合わせでそんなことも言っていたっけ。作業員に会釈し、あたりを見回した。凍えるような寒さの中、頭から湯気を出しながら、眉間にシワを寄せた。
ここから二年G組に行く最短ルートは……ここから二階に上がり、渡り廊下を走って北へ向かうしかない。急げ。先ほどに比べ明らかに動きが鈍くなっている足にムチを打ち階段を登っていると、はしゃぎながら階段を駆け下りる女子生徒の一行とすれ違った。生徒たちに目もくれず二階を目指したが、最後尾の生徒が横を通り過ぎた時、足を止め、その生徒の背中に注視した。そして、「新庄さん!」と金切り声を上げ、逆戻りした。
呼び止められた亜美は背中を震わせ、猜疑心をあらわにした目を俺に向けた。亜美と共にダッシュしていた女子生徒たちは亜美を憐れむような目で見ながら、俺に対して曖昧な、好意的ではない笑みを向け、ブルーシートが広げられた渡り廊下にほど近い「家庭科室」に入っていった。間一髪。あのまま二年G組に行っていたら完全にすれ違っていた、と胸をなでおろした。
俺は亜美を廊下の壁際に立たせ、自らその正面に向き合った。
「ごめん、呼び止めて」
「何ですか?もう授業始まるんですけど」
「すぐ終わるから。バレー部……」
無理して残らなくていいよ、という言葉に被さるようにしてチャイムが鳴った。
「もうチャイム鳴っちゃったんで」
教室に入ろうとする亜美を俺は追いかけた。
「もうちょっとだけ待ってくれ、新庄さんの本当の気持ちを聞かせてよ」
「ちょっと、本当に授業が」
俺だって、次は研究授業なんだ。指導教官、校長、副校長……そうそうたるメンバーが教室の後ろに並んでいて、肝心の自分が姿を見せていない……そのような光景が広がっているはずだ、今の一年A組は。想像するだけでゾッとした。でも、あとには引けない。こうなったら、意地でも亜美の気持ちを戻さなければ。足腰に力が入った。
「早稲田は甘くないよ、今のうちから一日何時間も勉強しなきゃいけないんだ」
「大丈夫ですから……」
「いや、大丈夫じゃない。バレー部を続けていいのか?」
「やめてください、これ以上遅刻できないんです!」
亜美の大きな声が廊下中に響き、家庭科室から、満月よりも丸くなった目が好奇心を携えて浮遊していた。渡り廊下にも聞こえていたのか、作業員も手を止めて俺に顔を向けていた。
もはやなす術は無く、亜美の前から退いた。亜美はクラスメートに迎えられ、家庭科室の中へと姿を消していった。騒ぎが収まるのと同時に、タイミング悪く、白衣を着た養護教諭の立花が階段を降りてきた。訝しげな視線を俺に向け、家庭科室へと姿を消した。家庭科の授業の補助をするようだった。
俺は再び駆け出した。南校舎の廊下を正門側へ、観客に鼓舞されて突進する闘牛のように、脇目も振らずに走った。
アスファルトの上に積もる雪のように、悔恨の情が点々と現れ徐々に厚みを増していくのを感じていた。何もあのタイミングで亜美と話そうとしなくても、五時間目を終えてから、ゆっくりと話せば良かったじゃないか。遠慮深い自分は嫌い、確かに嫌いだけど、その性格を無理やり直そうとするあまり、時に周りを見えなくなる自分はもっと嫌いだ。あぁ、なぜ俺は、晴れた日でさえ地面から出ようとしない根のように慎ましくて、それでいて慎ましい自分を愛せないのか。
そして、亜美を叫ばせた。一歩間違えれば、タダではすまないことになっていた。なぜ、亜美の前に立ちはだかったのか。自分の言動を振り返れば振り返るほど、ボウルの中に無造作に野菜を放り込んでかき混ぜたサラダのように、訳のわからないものになっていった。
「もうこれ以上遅刻できない」……知らなかった、亜美が遅刻常習魔だったとは。バレー部の顧問が俺ではなかったら、こんなことにはなっていなかったんだろう。降り積もった雪は固まって凍り、俺は何度も滑りかけた