3 退部届
3 退部届
俺が五枚の退部届を受け取ったのは月曜日。やけに寒かった月曜日。
その日は朝からてんてこ舞いだった。三月に受験できる私立大学を探す三年生の相談に乗ったり、芸術系の大学を受ける生徒の模擬面接をやったりと、授業が入っていない時間でさえも話しては話す一日で、昼食もろくにとれていなかった。
放課後。サンドイッチを頬張りながら一年生の小テストの点数をパソコンに打ち込んでいると、
「失礼します。瀬川先生はいらっしゃいますか」
という声がした。
三年生かと思い顔を上げると、ショートヘアで気が強そうな顔が二つ並んでいた。新庄亜美と赤塚沙也香。バレー部の二年生だった。
俺はいわゆる「怪訝な顔」をしたのだと思う。休日活動届けの判子は、一年生が交代でもらいに来ることになっている。そもそも、亜美と沙也香が体育館以外の場所で行動を共にしているところなど一度も見たことがない。
「ん、どうした?」
「ちょっとお話ししたいことが……」
刺激的な予感がした。かつての恋人に別れ話を切り出された時のことがなぜか頭の中を巡った。胸騒ぎを片手に、俺は相談用のブースへ二人を誘導した。
予感は的中した。別れ話だった。
「模試の成績が思っていたよりも伸びなくて……受験に集中……」
「持病が悪化して……コートに立っているだけでも……」
二人は、普段の態度からは考えられないような神妙さで、一つ一つ、言葉を絞り出していた。さすがの瀬川も「大会前に辞めるとは何事だ!」と怒鳴るのではないか……そう恐れてのことだったのだろう。しかし実際は、その刺激を享受しきれず、笑い出すのを必死でこらえるほどだった。二人が「別れ」を切り出した最初の数秒こそは、気持ちが落ち込んだ。顧問としての不甲斐なさを感じた。だが、それは高揚感に塗りつぶされた。大会に出る必要がなくなる。久々に、土日に休める。
しかし、ここで本音を出しては教師としての信頼に関わる。演劇の経験を生かして、唖然とした表情を作った。
「……来週、大会なんだよね。どうするの?」
「そうなんですけど……これから土日は勉強に費やしたくて」
「私は……お医者さんに止められてて……」
これ以上何を言っても無駄だろう。二人はおそらく何を言ってもバレー部には残らない。そして何より、顧問である俺が、彼女らが残ることを望んでいない。不毛以外の何物でもない時間がただ過ぎ去った。
その場で退部を認めても良かったのかもしれない。だが、チームの実権は美鈴の手の中にあった。ひとまず保留とした。
二人が去ると、その場にいた進路指導部の教師たちは俺に同情の意を示した。気心が知れた教師ばかりだったが、俺の発言がどう広まるかわからない。腹の底に沈殿した本音をまき散らすのを我慢しながら、顧問としての己の不甲斐なさを自責する言葉を吐き、進路指導部の教師たちからさらなる同情を買った。
このような猿芝居をしながらも、俺は複雑な気持ちになった。亜美と沙也香に、退部を暗に示すような行動は全く見られなかった。
亜美は副キャプテンとして、試合でも練習でもひたすら大きな声を出して、いわばムードメーカー的な役割を担っていた。親も熱心で、大会の時には欠かさず応援に来ていた。先週の練習試合では、サーブミスを一度もしなかったと言って大喜びしていたのに。
沙也香も、人数合わせのために美鈴に強引に誘われて入部した経緯はあったものの、中学時代の経験を生かして果敢にスパイクを打つたくましい生徒だった。バレーの技術はピカイチ……俺の目から見ても、それは明らかだった。持病があるようには見えなかった。
親切な進路指導主任に淹れてもらったコーヒーで食べかけだったサンドイッチを流し込み、
「生徒って何考えてるかわからないですね」
「そうそう。特に最近の子は嫌なことがあるとすぐ辞めちゃうんだから」
などと話していたら、再びドアが開いた。田中櫻子に岸本ほのか、渡辺柚月。バレー部の一年生の面々が並んでいた。
休日活動届けを持って来たのだろう。引き出しの中から判子を取り出しながら、そうだ、亜美と沙也香のことを話さなきゃ、そもそも休日活動届けに判子を押す必要など無いんじゃないかと考えた矢先。櫻子がおそるおそる切り出した。
「先生、お話があるんですけど、いいですか」
胸騒ぎが再発した。相談用のブースへ三人を座らせようとして、ブースは正方形の机の両側に椅子が二つずつ置かれていて、最大でも二対二の面談しかできない、ならば椅子を移動して三対一にすればいい、などと考えて椅子を動かしながら、まさかこの三人は辞めるまい、そう自分に言い聞かせた。そして裏切られた。
相談用ブースで俺と向かい合った三人から発せられた言葉は悲壮感に満ちていた。これ以上美鈴についていけない。美鈴が怖くて仕方がない。バレーを好きなのかどうかわからなくなった。
大学受験の過去問を見に来た生徒で進路指導室は徐々に混み合ってきた。だが、三人は人目をはばからず、ポロポロと涙を流した。目の前の哀れな部員たちを、俺は直視できなかった。
一年生三人を俺はかわいがっていた。みんな優しくて、礼儀正しくて、俺を「教師」として扱ってくれていた。「一刻も早くバレー部の顧問を降りたい」……そう願うたび、俺は三人の顔を思い浮かべていた。
来年もバレー部の顧問を続けてくれ。そう言われる可能性は高い。でも、一年生がいてくれるなら、続けられるかもしれない。バレー部は嫌いだけど、この子たちのことは応援したい。この子たちが引退するまでだったら、俺も頑張れるかもしれない。バレーに伴う喜怒哀楽を、こいつらとだったら共有できるかもしれない。
櫻子は経験者、ほのかと柚月は初心者だった。美鈴のムチはほのかと柚月を何度も叩いた。試合でミスをする度、美鈴の怒号が響いた。櫻子も蚊帳の外というわけではなく、セッターという不慣れなポジションを任されたことで、美鈴から手厳しい指導を受けていた。
俺は何度もその様子を見ていた。しかし、何もできなかった。美鈴を止めることができなかった。
泣きじゃくる三人を前に、俺は怒りがこみ上げてくるのを感じた。美鈴がいなければ、この子たちの哀れな姿を見ることはなかった。
しかし、そこで、俺の脳裏にあることが浮かんだ。もし、このまま三人が辞めてしまえば……部員は美鈴ただ一人。そのような状態になって、美鈴がなおバレーを続けたがるとは思えなかった。そうなれば、バレー部は休部せざるをえなくなる。俺は解放される。やった。念願の、演劇部顧問になれる。やった。目をかけていた一年生が部を離れる決意をしたことに対する寂しさ、悲しさ、美鈴に対する怒りが、ゆらゆらと俺の周りをさまよっていたが、バレー部から解放される可能性が上がったことが俺を喜ばせ、その喜びは引き潮のように負の感情を消した。
こうなればこちらのもの。天敵の美鈴は四面楚歌だった。六対一。もはや美鈴にチームを動かす権利はない。一年生三人に、明日、正式な退部届を持ってくることを指示した。
三人が座っていた席を見ながら、開放感の裏側にくっついて離れない喪失感にも苛まれた。進路指導部の教師たちに声をかけられた。
大丈夫? キャプテンの子と一回話した方がいいね。
俺は頷いた。体育科準備室では素直に話を聞けなくて、ここではスッと身体が話を吸収してくれるのはなぜだろう。
明日、美鈴と話をする。美鈴が諦めてくれたら、バレー部は休部……いや、部員数がゼロに等しく、顧問のやる気もないような部の戸を、新入生が叩いて来るとは到底思えない、廃部だ。
喜びに火照る俺の脳に、一年生三人の涙がぽとりと落ちて、しぶきが散った。拭き取ろうとすると、かえって跡が残った。
その日は一人で酒を飲んだ。近所のおでん屋で。いつも夜遅くに帰ってくる俺にとって、その店は常に「準備中」の店だった。煌々と灯りがつく店内で、俺は酒を浴びた。祝杯でもあり、やけ酒でもあった。