花愛づる竜
昔むかしあるところに、それはそれは恐ろしい竜がいました。
その身体は山の峰と見間違えるほどに大きく、翼を広げて空を飛べば、激しい突風が起こりました。
黒く艶光る鱗はどんな武器でも傷つけることができないほどに頑丈で、口から吐き出す稲妻は瞬く間に周りを焦土に変えてしまいます。
とても強く、とても凶暴な竜は、とうぜん人間たちに恐れられていました。
険しい岩山で、竜は一匹だけで暮らしていました。
昔はたくさんの仲間の竜がいましたが、そのほとんどは人間に退治にされてしまったか、長い長い寿命を終えて土に還ってしまいました。
山に住む竜はとても強く、竜の中でもまだ若かったので、こうして生き残っているのです。
そして、いまでは独りぼっちです。
けれど、寂しくはありません。
話し相手がいなくても、退屈と思ったこともありません。
なぜなら、竜はたくさんの宝物を持っていたからです。
神様が地上に落としたと言い伝えられている、美しい宝物。
その宝物の輝きを眺めているだけで、竜は幸せだったのです。
「美しい。我が宝は今日も光り輝いておる」
宝石の山。黄金の王冠。伝説の剣。煌びやかな装飾品の数々。
他にも、無限に水が沸き出る水晶、食べても食べても減らない霜降り肉、時を操る懐中時計、遠い場所へ行ける鍵、そんな不思議な力を持った宝物もありました。
ときどき宝物を狙って、人間たちが武器を持って山を登ってくることがあります。
大切な宝物を盗もうとする不届き者を、とうぜん竜は許しません。
自慢の鉤爪をふるい、口から放たれる稲妻で、あっという間に人間たちを殺してしまいます。
「消え失せろ。我が宝に触れようとする盗人どもめ。我が宝には指一本触れさせん」
人間たちの中には『山に住む邪竜』を退治するべく挑んでくる勇者もいました。
それでも竜の力は強大で、敵う勇者はひとりもいませんでした。
「竜が住む山に行って、生きて帰った者はいない」
やがて、そんな言い伝えが人里に広がり、竜の宝物を狙う輩も減っていきました。
宝物に手を出そうとさえしなければ、竜は人間たちに何もしませんでした。
不思議な力を持つ宝物を使って、世界をどうこうしようという気も、まったくありませんでした。
竜はただ、特別で美しい宝物を愛でていれば、それで満足だったのです。
「ああ、なんという美しさか。この宝の数々よりも美しいものなど、この世には存在しないだろう」
その日も、竜は宝物の輝かしさに、うっとりと目を細めていました。
「……む?」
しかし、至福に満ちた表情は、ふと険悪なものに変わりました。
「……何やつだ?」
自分以外の生き物の気配を竜は感じ取りました。
近頃はやってこなかった人間たちが、また性懲りも無く宝物を狙って山を登ってきたのかもしれません。
「おのれ。そうはさせんぞ。我が宝には決して近づかせはしない」
竜は大きな翼をはためかせて、生き物の気配がする場所へ向かいました。
薄汚い人間め。
容赦などしない。
見つけ次第、この爪と牙で仕留めてくれる。
竜はそう固く心に誓って、空を駆けました。
しかし辿り着いた場所に、人間の姿はありませんでした。
代わりに、そこにあったのは……一輪の花でした。
朝日を浴びて輝く雪のように白い、美しい花です。
生き物の気配は、この花だったのです。
花は、いまさっき開花したばかりのようでした。
あまりにも小さい生命のため、こうして満開に咲くまで、気配を感じ取れなかったのです。
まさか、こんな険しく寂れた山に花が咲くとは。竜は驚きました。
土よりも岩の多いこの山では豊富な栄養もないはずなのに……しかし、その花は立派に咲き誇っていました。
鳥が種を運んだのか、それとも風に乗って旅をする種だったのか、いずれにせよ、こんな過酷な大地で咲くには、場違いな花でした。
「おい、花よ。ここは我の山だぞ。なにゆえ、こんな所で咲いている」
竜は花に向かって、厳かに語りかけました。
たとえ花だろうと、竜にとっては自分の住み処に勝手に入り込んだ、不届き者に変わりはありません。
「いますぐここから消え失せろ。何であろうと我の住み処に居座ることは許さん」
竜がそう言うと、花が仄かに光り出しました。
光と一緒に現れたのは、とてもとても小さい、人間の少女のような姿をした生き物でした。
それは、花の精です。
花の精は、花弁と同じ白く長い髪、まん丸とした赤い目が特徴的な姿をしていました。
人間の目には見えませんが、大自然の力を操る竜ならば、その姿を見ることができるのです。
花の精は、愛らしい顔を不機嫌な色にして、竜を睨み付けます。
「まあ! 消えろ、だなんて酷いことをおっしゃるのね。私だって、好きでこんな場所で咲いているわけじゃないわ!」
「気に入らないというのなら、すぐにここから出て行け!」
「出て行きたくても、私はここから動けないわ。だって花ですもの! 花は根付いた場所で咲くしかないのだわ。ああ、悲しい! どうしてこんな酷い竜が住む山に、私は咲いてしまったのかしら!」
花の精は、シクシクと顔を覆って泣きだします。
優しい心の持ち主ならば、泣き喚く花の精を慰めるのかもしれませんが、生憎この竜にそんな気遣いの心は皆無でした。
それどころか、耳障りな泣き声を聞かされて、むしろさらに不機嫌になってしまいました。
「やかましい! 動かぬというのなら、いまここで貴様を踏み潰してくれるわ!」
竜がその大きな前足を空高く振り上げると、花の精は悲鳴を上げます。
「いや! やめて! 私、いま咲いたばかりなのよ!? こんなに早く死ぬのはイヤ! 私は立派に咲き誇って、花として美しい一生を終えたいの!」
「知ったことか。我の山に咲いたことが貴様の悲運だ。諦めろ」
「いや! いやよ! お願い! この山に咲くことが、どうしても許せないというのなら私を別の場所に植え直して! そうよ、あなたには立派な翼があるのだから、あなたの手で他の山に運んでちょうだい!」
「なぜ我が貴様の面倒を見なくてはならんのだ? 図々しいやつめ。やはり踏み潰してくれるわ」
「いや! お願いやめて! どうしたら許してくれるの!?」
「貴様がどう詫びようと許すことはせん。我の宝に近づこうとする者は、何だろうと蹴散らしてくれる」
「宝? あなた、宝が大切なの? だったら私、何もしないわ! あなたの宝に決して手を出しません! そもそも花である私は、何もできないわ!」
「む……」
確かに、言われてみればそうです。
人間と違って、花はただそこで咲いているだけで、宝物を盗むことなどできません。
宝物に触れさえしなければ、竜にとっては花など、どうでもいい存在でした。
煮えたぎるような怒りは急速に冷め、ただの無関心に変わります。
「ふん。命拾いしたな。我が宝の蔵の傍に咲いていれば、目障りで踏み潰していたところだが……我が宝に何もしないというのなら、殺す理由はない」
花の精は、ほっと胸を撫で下ろしました。
「それじゃあ、私ここで咲いていてもいいのね?」
「癪ではあるが、特別に許そう。勝手に咲き、勝手に萎れ、勝手に枯れるがいい。どの道、こんな山では長生きなどできまい」
「まあ、本当に酷い竜ね。私、こんな枯れ果てた大地でもちゃんと咲けたのよ? きっと長生きしてみせるわ」
「ふん。花を愛でる物好きもいないというのに。退屈な一生になるぞ?」
「それでも、いいのよ。見てくれる人がいなくても、私は立派に咲き誇りたいの。それが花としての誇りだもの」
「誇りか……。下らぬ」
「あなたには、ないの? 竜としての誇りみたいなものが」
「さてな。そんなものは忘れた。必要ないのだ」
「だったら、あなたは何のために生きているの?」
「宝を愛でるためだ。自慢の宝を眺めているひとときが、我の心を満たしてくれる。その幸せのひとときを邪魔する者は、何であろうと許さん。覚えておけ」
竜はそう言って、翼をはためかせて、宝の蔵である洞窟に戻っていきました。
「宝を愛でるだけで幸せだなんて……それこそ、退屈な一生だと思うけど」
花の精は、去って行く竜の後ろ姿を見て、ぼそりと呟きました。
* * *
その日も、竜は自慢の宝をひとつひとつ眺めていました。
バラの形を模したブローチをうっとりと見つめていると、ふと、花の精のことを思い出しました。
「あの花は、そろそろ枯れただろうか」
この山で一生を終えることを特別に許しはしましたが、正直あの花が長生きできるとは竜には思えませんでした。
どうせ、すぐ枯れるに決まっている。
随分と生意気なことを言っていたが、竜である自分と比べたら所詮は脆弱な命。
ちょっとしたことで呆気なく、死ぬに違いない。
竜はそう思い込んでいました。
「……どれ。無様に枯れているかどうか見に行ってやろう」
ちょっとした好奇心で、竜は花のもとへ向かいました。
竜が宝物を守ること以外で、洞窟から出るのは、初めてのことでした。
花は枯れることなく、いまもそこで立派に咲き誇っていました。
「まだ咲いていたのか。とうに枯れているかと思ったぞ」
「まあ、来るなりそんなことを言うだなんて。本当に酷い竜ね」
不躾なことを言う竜に、花の精は頬を膨らませて怒ります。
「この間、雨が降ったもの。おかげでお腹いっぱい。まだ長生きできるわ」
「ふん。我は雨が嫌いだ。大切な宝が湿気で痛んでしまうからな」
「あなた本当に宝物が好きなのね。どうしてそこまで大事にするの?」
「理由はない。宝を愛でるのは竜の本能のようなものだ」
竜たちは綺麗な宝石や高価なものや魔術の道具を見ると、それを集めたがる習性がありました。
この山にある宝物も、元は大昔に生きていた竜たちが集めたものでした。
他の竜がいなくなった現在では、宝物はこの竜が独り占めしています。
「な~んだ。てっきりあなたが宝探しの大冒険をして集めたのかと思ったわ。あなた、結構ズルイ竜なのね」
「たまたま降り立った山にたまたま宝の山があっただけだ。それを我のものにしようと我の勝手ではないか」
「自分で集めようとは思わないの? その翼があれば、どこまでも探しに行けるじゃない」
「必要ない。宝はもう充分にあるからな」
「ふぅん。私なら探しに行くけどな。だって見たこともない場所に行って、見たこともない宝を見つけるのって、考えるだけでワクワクしないかしら? あなたが羨ましいわ。その気になれば、その大きな翼で、いくらでも旅ができるのだから」
花の精は瞳を切なげに細めて、山の向こう側を見つめます。
「……貴様は旅がしたいのか?」
「……そうね。だって花は動けないもの。咲いた場所で生きるしかない。べつにその運命を嘆くわけじゃないけど……でも、もっと広い世界を見てみたいわ。ここは、あまりにも寂しいもの。お話できる仲間の花もいない。花を見てくれる人間たちもいない」
「ふん。以前は『それでも立派に咲き誇りたい』と偉そうにぬかしておったではないか。やはり、アレはただの強がりであったか」
「あら、私の言葉を覚えていてくれたの? 何気なく言ったことだったのに……ふふ、ちょっと嬉しいわ」
嘲笑のために持ち出した話題でしたが、なぜか花の精は、竜が些細なやり取りを覚えていたことに喜んでいるようでした。
竜はおもしろくなさそうに鼻を「フン」と鳴らしました。
「……貴様の矮小な頭と一緒にするでないわ。長い時を生きる我々竜は些細なことでも記憶に残すことができる」
「へえ~。じゃあずっと昔のことも昨日のように思い出せるってこと? 私、自分が生まれる前の世界がどんな感じだったのか気になるわ。ねえ、お話してちょうだい。この山に住む前のあなたは、何をしていたの?」
「なぜ我がそんなことを貴様に話さなければならんのだ?」
「だって、話し相手がいないのはやっぱり退屈なんだもの。この際、あなたでもいいわ。ね? お話し、してちょうだい?」
「断る。そんな下らないことに時間を使うくらいなら宝を愛でているほうがずっと有意義だ」
「何よ何よ! あなたは私たち花よりも長生きなんだから、ちょっとくらい話してくれたっていいじゃない! ケチ!」
花の精は「イーッ!」と歯を剥き出しにしながら竜を睨みましたが、竜はそんなことも気にせず、また宝を愛でるために洞窟へと戻りました。
「……旅か」
洞窟に戻る途中、竜は花の精が何気なく言ったことを思い返します。
新しい宝物を探すために旅をする。
山にある宝物だけで満足していた竜にとって、そんなこと考えたこともありませんでした。
昔のことも、随分と思い出さなくなりました。
思い出す必要がないからです。
独りきりになってからは、自分のことだけを考えて生きればそれで良かったからです。
……でも、その夜は多くのことを思い出しました。
まだ自分が幼い雛だった頃のことを。
まだ仲間がたくさん居た頃のことを。
まだ未熟な頃、老竜から様々なことを教わったことを。
しかし……どれだけ思い出したところで、竜がいま独りきりという現実は変わりません。
「……ふん。くだらん。意味のないことだ」
竜はすぐに昔を思い出すことをやめました。
いま自分は多くの宝に囲まれている。
それで充分に幸せだ。
……幸せのはずだ。
その夜、竜はなかなか寝付くことができませんでした。
* * *
竜はこの山を住み処にしてから、すっかり遠い場所へ行くことがなくなりました。
たくさんの宝物に恵まれている竜にとって、宝探しの旅は本当に不要なものだったからです。
その日も、竜は変わらず自慢の宝物を眺めていました。
……しかし、どうしてか今日はあまり楽しくありません。
いつも飽きることなく大切な宝物を愛でていたはずなのに、ふとした拍子に花の精が口にしたことが頭をよぎるのです。
まだ見ぬ宝。
自分の知らない宝。
もしそれを手にすることができたら、いったいどれほどの感動があるのだろう。
自然とそんなことを考えていることに、竜自身が驚きました。
バカバカしい。
なぜあんな矮小な生き物の言葉を気にしなくてはならないのか。
素晴らしい宝は充分にある。旅なんて必要ない。
竜は自分にそう言い聞かせました。
なぜか、強情に。
……もう、あの花のところに行くのはやめよう。
顔を合わせれば、不愉快なことばかり言われるのだから。
今日はきっと気分が優れないだけだ。
明日になれば、きっといつもどおり楽しく宝を愛でることができるはずだ。
竜がそう考えていると、空が急に暗い色に染まり始めました。
瞬く間に雷の音が轟き、激しい雨が降ってきました。
「嵐か……」
山の天気は気まぐれです。
空に近いこの場所は、しょっちゅう悪天候に見舞われます。
強靱な生き物である竜にとっては、嵐など大した障害にはなりません。
……しかし、あの花の精はどうでしょう?
雷雨は激しさを増し、風も凄い勢いで吹き荒れます。
心許ない茎で支えられた花など、簡単にへし折れてしまいそうなほどに強い風です。
竜は無言で、花の精が生えた方向を見やります。
今頃、この嵐の中、無様に悲鳴を上げて苦しんでいるに違いありません。
「……ふん。いい気味だ。花ごときが我に偉そうな口を使った報いだ」
竜は満足げに笑って、また宝物を愛で始めました。
湿気のせいでカビが生えないよう、しっかり手入れをしなければなりません。
……しかし、竜の手はたびたび止まりました。
嵐の中で激しく揺らぐ花の精が、いつまでも頭の中で思い浮かぶのです。
「忌々しい。なぜ我があんな花のことを気にしなくてはならぬのだ。嵐ごときで散る薄弱な命など知ったことではない」
もしもこの嵐で散るというのなら、それが花の運命だったのでしょう。
自然の摂理とは、そういうものです。
竜の仲間たちが命を落としたのも、すべては自然の摂理です。
それがたとえ、人間の手に寄るものだとしても……弱い竜だったから生き残れなかっただけです。
強い者だけが生き残るのが、この世界の成り立ちです。
竜は、そのことをよくわかっていました。
とても強い竜として、これまで生き残ってきたからこそ、自然の流れに逆らうことは愚かだと心得ていました。
そのはずなのに……この胸のモヤモヤは、いったい何なのでしょう。
「……もしも、あの花が散ったら、また口を聞く相手が居なくなるのか……」
思えば、会話をしたのは何年ぶりでしょう。
独りきりになってからというもの、竜は他者と言葉を交わすことすらしなくなりました。
花の精は、実に数年ぶりに……ヘタをしたら数百年ぶりに話をした相手なのです。
「……だから、何だと言うのだ。我には関係ない」
そう、関係ないのです。
あの花の命と自慢の宝物を比べたら、後者のほうがずっと竜にとっては価値があるのですから。
しかし……宝物は、竜には何も語りかけてきません。
ただ、美しく輝いているだけです。
「……」
いつもなら恍惚と見惚れるはずの輝きに、竜は何も感じることができませんでした。
* * *
激しい嵐の中、花の精は必死に大地にしがみついていました。
「助けて! 身体がボロボロになっちゃう! 痛い! 苦しい! いや! 私、死にたくない!」
吹きすさぶ暴風に煽られて、花の茎はいまにも折れてしまいそうでした。
花の精の命は、まさしく風前の灯火でした。
「……私、死ぬの? まだ満足に生きていないのに……」
花の精は自分の運命を呪いました。
神様、どうしてあなたはこんな過酷な場所に私を咲かせたのですか?
どうして、あんなにも恐ろしく、酷い竜が住む山に私を芽吹かせたのですか?
私はただ、穏やかに咲いていたかっただけなのに。それすら許されないのですか?
花の精は泣きました。
そして心の中で救いを求めました。
ああ、どうか叶うならば私に救いの手を。
もう少しだけ、生きながらえる時間を私にください。
どうか慈悲深き恩寵を。
誰か……誰か私を助けてください。
「ああ、でも……」
どれだけ願っても意味はないことを花はわかっていました。
だって、こんな一輪の花を救ってくれる存在など、この山にはいないからです。
そう……まさか、あの竜が自分を助けてくれるわけが……。
「まったく、やはり風に吹き飛ばされそうになっていたな。軟弱な身体よの」
「……え?」
花の精を苛んでいた風は、ピタリと止みました。
周りには、いつのまにか膜のようなものがありました。
頭上を見やると、そこには竜の顔がありました。
なんと、竜が翼で花の精を包み、暴風から守っていたのです。
「あ、あなた、私を助けてくれるの!?」
「勘違いするな。貴様の悲鳴が我のところまで届いて耳障りだったからだ。癪ではあるが、嵐が止むまでこうしていてやる」
花の精は驚きました。
まさか、あれほど自分の存在を煩わしく思っていた竜が、身を挺して助けてくれるだなんて。
「あ、ありがとう……」
「感謝は不要だ。貴様の命など我にはどうでもいいのだからな。我はただ静かに宝を愛でつつ、暮らしたいだけだ」
助けられて一度は感激していた花の精ですが、竜の冷たい言葉に落ち込みました。
私が可哀相だから助けたわけではないのね……。
花の精が暗い表情でいると、竜は溜め息を漏らしました。
「退屈だな……」
「え?」
「宝を愛でずに、ただジッと嵐が止むのを待つのは退屈だと言っているのだ。……貴様、我と何か話せ。退屈しのぎにはなろう」
「……あなた、私とお喋りしたいの?」
「そんなことは言っていない。何か暇つぶしになるような話題を出せと言っているのだ」
「ほら、それってお喋りしたいってことじゃない」
「違う。断じて違うぞ」
「違わないわ」
「違うと言っておろうに!」
「……ぷっ! あはは!」
「貴様! 何がおかしい!」
「あなたって、実はカワイイのね」
「なっ!? カワイイ、だと!? 竜である我をカワイイと言ったか!? この無礼者め!」
「あら、赤くなってる! 黒い竜が赤い竜になったわ! うふふ、おもしろい!」
「貴様! 我をバカにするとタダじゃおかんぞ!」
「あはは、ごめんなさい、からかっちゃって。……うん! 何かお話をしましょ! 私、何だかあなたのことを知りたくなっちゃったわ!」
「……ふん。我のことを知ってどうする? 貴様に何の得があるというのだ?」
「あなたと仲良くなれるわ!」
「仲良く、だと?」
「ええ! お互いのことをよく知れば、仲良くなれるでしょ? この山には、あなたと私しかいないんだもの。険悪になるより、仲良くなったほうが毎日がずっと楽しいはずだわ! だから教えて、あなたのこと!」
「……ふん。嵐が止むまでは付き合ってやろう。だが勘違いするな? 偉大な竜である我は、貴様のような花ごときと馴れ合うつもりはないのだからな」
「なら、この嵐が止む前に、私に夢中にさせてみせるわ! 宝物よりも、私のことで頭がいっぱいになるくらいにね!」
「ほう、おもしろい。やれるものならやってみるがいい。宝以外に我がうつつを抜かすことなど断じてないだろうがな」
雷雨が激しく鳴り響く中で、一匹の竜と一輪の花は、語り合いを始めました。
もっとも、生まれたばかりの花の精よりも、長く生きる竜のほうが話題は多かったので、必然的に竜が喋り、花の精が聞き役になる形となりました。
竜が育った場所のこと。
仲間の竜と一緒に旅をしたときのこと。
初めて人間と戦ったときのこと。
ひとつひとつの話を、花の精は夢中で聞いていました。
コロコロと表情を変えてはしゃぐ花の精を見ていると、竜は気を良くして次々と昔話をしました。
嵐が過ぎ去っても、竜と花の精の語らいは続きました。
* * *
いつしか、竜は宝物を愛でる時間よりも、花の精と話す時間のほうが多くなっていました。
ちょっとした話題でも喜ぶ花の精の様子は、竜にとって見ていて飽きませんでした。
「いいなぁ。私にも翼があったら、いろんな場所に行ってみたいわ」
「そんなに世界を見てみたいのか貴様は?」
「ええ。あなたの話を聞いていたら、ますます気になってきたわ。この世にはきっと美しく、素晴らしい場所がたくさんあるのでしょうね」
「我が宝よりも美しいものがあるとは思えんがな」
「もう、またそんなことを言って。たとえ宝石みたいに輝いていなくても、美しい景色が宝物のような価値を持つことだってあるでしょう?」
「……ふむ。確かに、初めて空を飛んだとき、海一面が夕陽色に染まっている景色は、美しく感じたな……」
「なにそれ!? 素敵じゃない! いいなぁ! 私も見てみたいわ! 行ってみたいわ! 海に!」
「海か……。久しく、見ていないな」
「なら行きましょうよ! 私も連れて行って! あなたと一緒に旅がしてみたいわ!」
花の精は目を輝かしながら、そう提案してきました。
竜の宝物の中には、どんな花も枯れない『黄金の植木鉢』がありました。
花の精をそこに移せば、一緒に旅をすることはできるでしょう。
少し前なら、竜が宝物を自分以外のために使うなど、ありえないことでした。
ですが……いまは「それも、いいかもしれんな」と考えるようになっていました。
初めて空を飛んだ日。
大人の竜に導かれながら、たどたどしく飛翔しながら見た、海の景色。
あの光景を見せたら、花の精はどんな顔をするでしょう。
きっと大いに感動に震えるに違いありません。
そんな花の精の姿を想像すると、竜は胸が弾むような気持ちになるのでした。
「……ふん。考えておいてやろう」
「やった! 約束よ! きっと私を連れて行ってね!」
自分がまさか、こんな口約束をするとは。
この花の精の前だと調子が狂ってしまうな、と竜は嘆息しました。
でも、悪い気はしませんでした。
宝物を愛でているときには感じられない、不思議な気持ちが竜の心に芽生えていました。
それは長い時を生きてきた竜でも、経験したことのない感情でした。
だからでしょうか。
初めての感情に戸惑うばかりに、普段なら気づけることに、竜は気づけませんでした。
遠くから竜の目を狙って、矢を打つ人間の存在に。
「ぐっ!?」
「きゃあああ!?」
固い鱗にではなく、もっとも防御力の薄い眼球を狙った的確な射撃。
竜の片目に、深々と矢が突き刺さり、花の精は悲鳴を上げました。
「血が……血がっ!? 大変! あなたの目が!」
「騒ぐな。これしきの傷、何ともないわ。くっ……」
竜は目に刺さった矢を抜き取ると、矢が飛んできた彼方を睨み付けます。
武器を持った何人もの人間が、竜に対して敵意を向けてやってきました。
「恐ろしい邪竜め! 貴様を退治して宝を我らのものにしてやる!」
「これまで多くの仲間が貴様に殺された! 仇を討ってやる!」
宝欲しさに目が眩んだ者。竜を憎む者。
恐ろしい言い伝えにも怯むことなくやってきた人間たちが、竜を打ち倒しにやってきたのです。
竜の表情が瞬く間に、憤怒の色に染まります。
「……愚かな人間どもめ」
「ひっ!?」
竜の形相があまりにも恐ろしいので、花の精は震え上がりました。
そんな花の精の反応にも気づかないほど、竜は怒りで我を忘れていました。
「消え失せろ! 何人たりとも我が宝に近づくことは許さん!」
咆吼と同時に、竜は口から稲妻を吐き出しました。
大地を抉るほどの激しい衝撃波の渦に、人間たちの身体はあっという間に炭と化し、ボロボロに吹き飛んでいきました。
「くっ!? これが竜の力……ダメだ。いまでは、勝てん!」
凄まじい稲妻の一撃。
しかし、ひとりだけ、しぶとく生き残っている人間がいました。
弓を持っているところ、どうやら竜の目に矢を打った張本人のようです。
「おのれ逃がすか!」
竜は殺意を滾らせて逃げる人間を追います。
殺す。
殺してやる。
決して許しはしない。
我の山に踏み込む者は何であろうと……穏やかな時間を邪魔する者は何であろうと!
「やめて! 殺さないで!」
「っ!?」
竜の動きは、花の精の悲鳴染みた叫びで止まりました。
振り返ると、花の精は泣いていました。
人間に対する怒りに支配されていた竜でしたが、花の精が悲しんでいることに気づくと、意識はそちらに向きました。
「なぜ、泣いているのだ?」
花の精の傍に寄り、竜は恐る恐る語りかけます。
花の精はしゃくり泣きながら、竜を責めるように見つめます。
「どうして、殺すの? 追い払うだけなら、驚かすだけでも充分だったでしょ? なのに、殺す必要があったの?」
竜は困惑しました。
殺さずに人間を逃がすなど、竜にとっては存在しない選択肢でした。
「何を言うか。奴らは我が宝を盗もうとした無法者だ。我を害しようとした愚か者だ。殺さずに逃がすなどありえん」
「やめて!」
花の精は耳を塞ぎ、いやいやと頭を振りました。
「あなたの口から、そんな残酷なこと聞きたくない! イヤなの! 命が散るところを見るのなんて!」
花の精は、純粋でした。
あまりにも純粋で、残酷なことが大嫌いでした。
だからこそ、悲しかったのです。
自分にとって親しい存在が、平気で人を殺す瞬間が。
「嵐のとき、あなたは私を助けてくれたじゃない? そんなあなたが躊躇いなく命を奪うの? そこまで宝物が大事なの? 私、あなたのことが少し好きになってきたのよ? なのに……」
花の精は涙を流し続けます。
竜は、どう声をかければいいのか、わかりませんでした。
当たり前にやってきたことが、この花の精を傷つけてしまうだなんて、想像もしていなかったのです。
「……お願い、帰って。もう、あなたと話したくない」
それは徹底した拒絶でした。
竜は、目の前が真っ白になるような気持ちになりました。
知りませんでした。
誰かに拒絶されることが、こんなにも悲しいことだったなんて。
「……」
竜は何も言わず、住み処の洞窟に戻りました。
怪我のせいでしょうか。その足取りはフラフラとおぼつきません。
とりあえず、休んで傷を治そう。
この程度の怪我なら、竜の再生力ですぐに治る。
痛みはあるが、何ともない。
でも……。
目の傷よりも、怪我をしていないはずの胸のほうが、ずっと痛むような気がしました。
* * *
数日が経ちました。
目の傷は、どうしてか、なかなか治りませんでした。
身体も思うように動きません。
宝物を見れば気が休まるかと思いましたが……もう宝物の輝きを見ても、竜の心が晴れることはありませんでした。
竜はずっと花の精のことを考えていました。
彼女はどうしたら許してくれるだろう。
朝も昼も夜も、そのことだけを考えていました。
竜は宝の山の中にある、黄金の植木鉢に目を向けます。
一緒に旅に出ようと約束をしました。
でも、いま同じ誘いを持ちかけたところで、はたして花の精は頷いてくれるでしょうか?
「……」
竜には昔、たくさんの仲間がいました。
一緒に世界を飛び回る仲間たちが。
誰が早く飛べるか競争し、誰が早く宝物を見つけられるか賭けをし、もう飛べない老竜を喜ばせるために、集めた宝物を分け与えたこともありました。
もう誰もいません。
多くの竜が人間に狩られ、多くの竜が静かな土地でひっそりと長い寿命を終えました。
いつだって生き残るのは、強い力を持つ自分だけでした。
独りきりで飛ぶ空は、あまりにも静かでした。
静かすぎて、とても退屈でした。
だから竜はたくさんの宝物がある、この山に降りたのでした。
旅をしても、もう何も楽しいことはないと思っていました。
でも……もしも、あのお喋り好きな花の精と一緒に飛べるなら……。
竜は植木鉢を咥えて立ち上がりました。
拒まれても構わない。
とにかく花の精と話がしたい。
重い身体を四本の足で支えながら、竜は花の精のもとへ向かいました。
* * *
花の精は膝を抱えて、俯いていました。
その表情は、悲しそうというよりも、寂しそうでした。
竜の存在に気づくと、花の精は気まずそうに目を逸らしました。
「……ごめんなさい。この前は酷いことを言って……」
しばらく無言の間が続いていましたが、花の精はそう言って謝ってきました。
「ああしなければ、あなたの身が危なかったのに……私ったら、自分の気持ちばかり押しつけてしまって……本当に、ごめんなさい」
「……良い。気にしておらん」
花の精に責める気持ちがないのならば、もう気に病む理由はありませんでした。
「……目、大丈夫? まだ痛むの?」
「案ずるな。この程度の傷、竜ならばすぐに治る。痛みもすでにない」
それは嘘でした。
いつもならとっくに治っているはずの傷は、いまも塞がる様子がありません。
もしかしたら、あの矢に特殊な細工がされていたのかもしれません。
でも、竜は花の精をこれ以上心配させないため、強がりました。
「約束しよう。我はもう、人間を殺めん。お前が悲しむというのなら、牙を納めよう」
「……いいの? それじゃあ、いつかあなたの大切な宝物が盗まれてしまうかもしれないのに……」
「良いのだ。もう、良いのだ、それは」
竜は花の精の前に黄金の植木鉢を置きました。
「これは、なに?」
「約束したであろう。一緒に旅に出ようと。この植木鉢に入れば、お前が枯れることはなくなる。これで、共に世界を回ろう」
花の精は目を見開きました。
「私を、連れて行ってくれるの? 大切な宝物を使ってまで?」
竜は頷きました。
その顔は、とても穏やかでした。
「我も久方ぶりに遠い場所へ飛びたくなってな。お前が言うように、宝探しの旅も悪くないかもしれん」
「で、でも私、あなたに酷いことを……」
「我もそうだ。最初はお前に散々酷いことを言った。……そんな我と一緒に旅をするのは、やはり嫌か?」
竜の言葉に、花の精はぶんぶんと首を横に振りました。
「いえ……いいえ! 私、嬉しいわ! あなたがそんなことを言ってくれるだなんて!」
花の精の瞳は、感動と好奇心の光で満ちあふれます。
「……うん! 行きましょう! 私、もっと広い世界が見たいわ! あなたと一緒に、どこまでも!」
竜と花の精は、笑顔で見つめ合いました。
「うむ、行こう。こんな寂しい山とは違う場所に。お前の仲間がたくさん咲き誇っているような場所に……」
しかし、竜の言葉は、それ以上続きませんでした。
無数の矢が、雨のように竜を襲ったのです。
竜は苦痛の咆吼を上げ、花の精が悲鳴を上げました。
いつもなら鋼鉄のように固い鱗が矢を弾くはずなのに、竜の身体のあちこちに、たくさんの矢が突き刺さっていました。
「よし! 『毒』が効いているぞ! あの邪竜がこんなにも弱っている!」
武器を持った人間たちが、ぞろぞろと竜のもとにやってきます。
その中には、竜の目を射貫いた弓使いもいました。
「長年の研究でついに完成した竜殺しの毒が効いている! 思い知ったか邪竜め! これが人間の知恵と技術の力だ!」
弓使いが誇らしげに言います。
そう、竜の傷の治りが遅かったのも、身体が妙におぼつかなかったのも、すべては矢に塗られていた毒のせいだったのです。
「勝てるぞ! ついにあの邪竜を倒せるんだ!」
「おのれ恐ろしい邪竜め! 貴様に無惨に殺された人々の無念をいまこそ晴らしてくれる!」
人間たちは雄叫びを上げて、竜に向けて武器を振り下ろしました。
闘志と狂気に支配された人間たちは、もう竜しか見えていません。
とうぜん、足下に咲く一輪の花など、気にも留めません。
「きゃああああ!!」
誰かの足が、花の精を踏み潰そうとしたときでした。
「……やめろおおおおおお!!!」
竜が翼をはためかせて、人間たちを吹き飛ばします。
人間たちが風圧で吹き飛んだ隙に、竜はその大きな身体で花の精を隠すように庇います。
「無事か?」
「え、ええ……。で、でもあなたが! に、逃げて! このままでは殺されてしまうわ!」
風で遠くへ飛ばされた人間たちは、またすぐに戻ってきました。
やはり毒のせいで力が弱っているのか、人間たちの身体はビクともしていませんでした。
「殺せ! あのおぞましい邪竜を殺せ!」
「宝だ! ヤツを殺して宝を我々のものに!」
「勇者だ! 我々は勇者だ! 邪竜を倒し、竜殺しの勇者となるのだ!」
戦意と欲望を剥き出しにした人間たちが、再び竜に猛攻を仕掛けます。
剣が脆くなった鱗を削り、槍が身体へと深々と食い込み、剥き出しになった肉が鉄槌でひしゃげていきます。
それでも竜は、その場を動きませんでした。
「なぜ!? なぜ戦わないの!? このままじゃ、あなたが!」
「約束、したからな……。もう、人間は殺めんと……」
「そんな……。だったら、私を置いて逃げて!」
「できん……」
「どうして!? お願い! 私のことなんて、いいから! あなただけでも逃げて! 空を飛べば、きっと逃げ切れて……」
「できんのだ……。どうやら、もう……空を飛べる力も、ないようだ……」
「……え?」
「毒の、せいであろう。翼が、思うように、動かんのだ」
「そ、そんな……」
「……すまんな。旅に連れて行くと、約束、したのにな……」
「……いいのよ、そんなこと! もう、どうだっていいの! お願い! 逃げて! 私のことなんて放っておいて、走ってでも逃げて!」
「それも、もはやできん。だから……お前だけでも、守り抜いてみせる」
竜は動きません。
どれだけ傷つこうとも。
一輪の花のために。
「お前を、絶対に、傷つけはさせん……」
「どうして? あなたは、宝物が大切なんでしょう? なら、なんで私のためにそこまでするの!? ただの花でしかない、私のために!」
「だからこそ、だ……。言ったであろう? 宝を愛で、守るのは、竜の本能だと……」
竜は穏やかな表情で、花に語りかけます。
慈しみ深い声色で、掛け替えのないものに向ける優しい眼差しで。
「お前は、我の宝だ」
宝物さえあれば竜は幸せでした。
でも竜は知りました。
本当は、そうではなかったのだと。
竜自身も気づいていなかった、本当に欲しいものがあったのです。
そして竜は見つけました。
本当に大切な、素晴らしい宝物を。
「ああ……目まで見えなくなってきてしまった……。お前は、いまそこにいるか? ちゃんと無事でいるか?」
「ええ……ええ、無事よ。あなたが守ってくれているもの」
「そうか……ふっ、我は愚かだな。もっとお前の美しい姿を、この目に焼き付けておけばよかった……」
「ぐすっ……お願い……逃げて……こんな、こんな悲しいことってないわ! これじゃあ、あなたは何ひとつ報われない!」
「泣くな。我は、じゅうぶん幸せであった。最後に、知ることができた。我が本当に求めていたものを。お前と、出会えたおかげだ……。だから、もう良いのだ……」
竜は、悲しくありませんでした。
邪悪な竜として生き続けていたら、決して手に入らなかったはずのものが、こうして手に入ったのですから。
だから、ここで自分の命が終わってしまっても、後悔はありませんでした。
でも……。
ただひとつ、心残りがあるとすれば……。
「ああ……お前と一緒に、旅がしたかったな……」
その言葉を最後に、竜は事切れました。
* * *
山に住む邪竜は、人間たちの手によって滅ぼされました。
人間たちはたくさんの宝物を持って街に戻り、英雄扱いされました。
「長年恐れられてきた竜は死んだ! 神が造ったとされる宝物は我々のものとなった! この宝で街をもっと発展させよう! 乾杯!」
竜の宝によって、街は瞬く間に豊かになりました。
……でも、それは最初のうちだけでした。
多くの国が、竜の宝を狙って、戦争を仕掛けたからです。
竜の宝は、別の国に奪われました。
そしてその国も、また別の国に戦争を仕掛けられ、宝を奪われました。
そんなことが、何度も続きました。
人間の世界は、たちまち物騒な時代になりました。
ひょっとしたら、神様はこうなることを予想していたのかもしれません。
だからこそ強い生命である竜たちに、宝を愛でる本能を与え、人間たちの手に触れさせないようにしていたのかもしれません。
でも、その竜もすでにいません。
竜の骸は、いまも険しい山岳に横たわっています。
その傍には、雪のように白い綺麗な一輪の花が寄り添うように咲いていました。
……いえ、実際、花の精は涙を流しながら、竜の骸にずっと寄り添っていました。
「……ごめんなさい。私のせいで、あなたを死なせてしまった……。私が、この山に咲いたばっかりに」
花の精は自分を責め続けていました。
自分と出会わなければ。
自分が人殺しをしないでと言わなければ。
自分が旅をしてみたいとワガママを言わなければ。
竜は、こんな悲しい最後を迎えることはなかったかもしれません。
「なのに……ああ、どうして、あなたはそんな安らかな顔で眠っているの?」
竜の死に顔は、ちっとも苦悶に満ちてはいませんでした。
愛しいものを守り切れたことに安堵する、穏やかな表情でした。
自分を宝だと言ってくれた竜。
恐ろしいけれど、本当は優しい竜。
命を賭けて守ってくれた愛しい竜。
竜は、もう二度と動くことはありません。
あまりにも辛い現実に、花の精は泣き続けました。
「私、これで本当に独りぼっちなのね……。あなたが居ない世界で、咲くしかないのね……」
そう考えると、花の精は悲しくて仕方がありませんでした。
いったい、あとどれだけ長い時を、孤独に過ごしていけばいいのでしょう。
「あ……」
ふと竜の骸の傍に、光る物があることに花の精は気づきました。
黄金の植木鉢です。
人間たちが見落として、たったひとつだけ残った竜の宝でした。
竜は言いました。
この植木鉢に植えられた花は決して枯れないのだと。
これがあれば、どこまでも旅ができると。
でも……花の精は、もうそんなことは望んでいませんでした。
花の精が望むことは、ただひとつです。
「……神様。お願いします。どうか私を、竜の元へ連れて行ってください。旅をしたいなんて、もう望みません。自由に歩けるような生き物に生まれ変われなくても、構いません。どうか私を、竜の傍にいさせてください。どうか、いつまでも、こうして傍に寄り添わせてください……」
花の精は、天に向けて切実に願いました。
この愛しい竜の傍にいられるなら、もう何もいらない。
この願いが叶うなら、もうこの瞬間、枯れても構わない。
思いが天に届いたのか、それはわかりません。
しかし、花の精はゆっくりと眠るように、息を引き取りました。
あんなにも綺麗に咲いていた花は、徐々に萎れていきました。
力を失った花は、竜の骸に寄りかかるように倒れました。
一陣の風が吹きます。
黄金の植木鉢が風に煽られて、竜の骸と枯れた花のほうに転がっていきます。
こつん、と竜の骸と花にぶつかります。
そのときです。
黄金の植木鉢が太陽のように輝き、竜と花を包み込んだのでした。
* * *
その山には、竜のような形をした大きな岩があります。
岩には、雪のように白い、美しい花がたくさん咲いていました。
まるで、竜に寄り添うように、竜を包み込むように。
その岩の傍には、ときどき妖精が出ると言われています。
岩に咲く花と同じ色の髪をなびかせた、赤い瞳が綺麗な、少女の姿をした妖精です。
妖精は、まるで竜を愛しむように抱きつき、たくさんお喋りをしているのだとか。
そんな妖精を、竜もまた慈しみに満ちた表情で受け入れているのだとか。
竜と妖精は、お互いを思い合って、いつまでも幸せに過ごしている。
そう、言い伝えられているそうです。