看取る君へ
今度目を瞑ったなら、次に開けることができるだろうか。私は自分に残された時間がそう長く無い事は理解できている。思えば、自分は恵まれてここまで過ごしてきたと、心から思う。あまりじたばたして、格好悪く終えてしまうことだけはやめておきたいと、例えるなら、ふとした一陣の秋風のような去り方をしたいものだねと自分に向けて談笑しながら、その時を静かに迎えようとしている。有難いことだ。こんなにも落ち着いた心持で、綺麗に去っていけるなんて、私は果報者だ。
その思いを一層強くしているのが、君が傍にいることだ。幼いころから姉弟のように育った幼馴染の君。もう会うことは無いのかもと、ぼんやり諦めていた君との再会。私がこんなにも老いてしまい、気恥ずかしいくらいなのに、君は相変わらず少女のようだ。そんな君が私はずっと好きだった。ただの一度も言葉にして伝えることはできなかったが、今、私の手をそっと握ってくれているだけで、彼女も私を想ってくれていることはひしひしと温もりを伴い伝わってくる。少しだけ若返って、元気な私のままで再会できたならばと、無理な願いが頭をよぎるが、彼女はお見通しなのかどうか、右手で私の頭をゆっくりと撫でながら
「いいんだよ、無理しなくて。私はどこにもいかないから。今度こそ傍にいるから。」
そう言ってふわりと微笑むと、私の手に一滴の涙を零した。その言葉に込められた後悔が私にとってはとても寂しい物だったから、否定してあげたかった。確かに私も若かったから、君が夢を追う為に遠くへ行ってしまうことが、認められなかった。故に、さんざん我儘を言って君を困らせてしまった。あの頃のことを君は今でも申し訳なく思ってくれていたのか。時間が過ぎて、思い出になってしまった今では、私の方が大人気なく君にしがみついていただけだとわかるから、もう悲しい事として君の中に刻むのをやめてほ欲しい、そう伝えたかった。あの日があったから、今があるのだ。それは、君も私もだ。だから、君が迷ったこと、決断したことを決して間違いであったとは思わないで欲しい。現に、再会した君は、あの日よりもずっと美しくて、優しくなって…それがなによりの証ではないか、と。
だが、情けない。私の身体はもう、声を発するには老いすぎてしまっていたのだろう。この思いは空を切って音になることができず、静寂をただ重ねていっただけであった。さっきよりも、若さを欲しいと願う気持ちが一層強くなった。だからだろうか、それとも死期が近づいたからだろうか。一緒に野原で駆け遊んだ頃を思い返す。
若い、というより幼い頃のことだ。まだ自然も豊かだったから、そこら中が私達の庭だった。小さな洞穴は秘密の倉庫だった。お気に入りのドングリや形の良い綺麗な石を一緒に集めて、「絶対に内緒だよ」と口に人差し指を立てた君は可愛らしかった。また、かけっこで君を負かして転ばせては、しょっちゅう泣かせてしまっていた。でも、ある日はそれに心配した私が駆け寄った途端に舌を出し、泣き真似をやめてズルをしたこと。あれは今でも「酷いね」と猛抗議したい気分だ。
微笑ましい事ばかりではない、後悔するようなこともあった。私はじゃれているつもりだったのだが、思ったよりも力が強かったのだろう。君に抱き付いた途端に倒してしまい、強く後頭部を打ち付けてしまって、大怪我をさせたことがあった。君のパパにこっぴどく叱られたし、しばらく家に入れてもらえなくなった。様子がわからない私は、私のせいで君がもう帰ってこないのではないかと思い、不安で、悲しくて、夜空を見上げては君の無事をお星さまに願って、只々なく事しかできなかった。だから、君が元気な姿を再び見せて、私の名前を呼んでくれた、あの時の嬉しさは忘れようがない。
その時に「女の子には優しくするんだぞ」と言いながら君のパパにクシャクシャと頭を撫でられて。君が女の子で、私は男の子。違う生き物なのだから、男として君を守らないといけないのだと、強く自覚をした瞬間でもあった。果たして、私は務めを全うできただろうか。きっと不出来な騎士ではあっただろうが、一度も手を抜いたことが無い事実くらいは我が勲章としたいところだ。
気付くと、私の名を呼ぶ声がする。どのくらい回想に費やしただろうか。折角の君との再会なのに、勿体ないことをしたような気がする。だが、ああ、なんと美しい響きだろう。君が私の名を呼ぶだけで、こんなにも心は弾みだし、腰のあたりにバネでもあるかのようだ。名残惜しさがどこかに吹き飛んでゆく。君の温度、君の音、君の匂い、よもやこれらに包まれる最期が私に用意されているなんて、既に奇跡のようなものなのだ。
それなら神様よ、どうせだからもう一つ私に奇跡を授けてはくれまいか。この枯れ果てた喉に潤いを与えて、あと一声だけ、彼女に思いを伝えさせてはくれまいか。ずっと言えなかった「好きだ」という言葉、今更と言われようが伝えておきたいのだ。私は感謝をしているのだと。君と出会えたおかげで、すべての時間は輝いていたのだと。
私は力を振り絞る。おそらく、あと二つか三つ、瞬きをすれば私はこの世を去ってしまうだろう。その前に、私の一生を綺麗に畳ませる奇跡を。喉に力が入る感覚が戻ってくる。祈りが通じたというのか。私の想いは遂に音となった。
「ワン」
鳴き声に君は少し驚いた後、また口元を緩めて私の名を呼んだ。はたして君にはどう聞こえただろうか。もはや表情を見ることはできないが、私にたくさんの滴が降り注ぐ感覚と、私の名を呼ぶあの幸せな響き、それだけが私の総てになって、段々と遠くなっていった。