王家の眠りを守護する者
二階にある織姫の部屋のバルコニーに、タン、と足音と衣擦れの音が響いた。黒い影が揺れて、解錠の魔法を使ってバルコニーに続く大窓の鍵が解錠され、カチャリとした金属音が、室内にも響いた。
はぁ、はぁ。
興奮した息遣いが部屋に漏れ聞こえる。
星明かりが照らしたのは、二年生のマシュー王子だった。
彼は彼なりに、興奮を抑えようと唾を飲み込んで、どうにか呼吸を整える。
だが、昂ぶった気持ちを抑えられない。
マシュー王子は織姫を愛している。
そして織姫もまた、マシュー王子を愛しているはず。
なのに織姫は、今日も太政大臣と会っていた。きっと太政大臣が無理矢理連れ回しているのだ。そうに決まっている。
優しい織姫は、そんな傍若無人な太政大臣にさえ気を使って、愛想笑いをしていた。可哀想な織姫。
太政大臣に握られていた手は、さぞや振り払いたかっただろう。
太政大臣に抱かれた肩は、きっと怖気で粟立ったはずだ。
太政大臣が撫でた黒髪は、引き千切れてしまったかもしれない。
太政大臣の触れていた唇で、きっと呪詛を口ずさんでいるはずだ。
そうだ、そうに決まっている。
そして彼女は待っているはずだ。自分が助けに来ることを。
遅れてしまって申し訳なく思う。
取り巻きたちがやめろと騒ぎ立てるから、つい自分の立場に遠慮していた。
そんなことに気を使っている間に、織姫がどれほどの苦悩を抱えていたのか。織姫の心中を考えると、胸が張り裂けそうだ。
だがもう大丈夫だ。取り巻き達の言うことなど無視することに決めた。
自分の婚約者にも婚約破棄の通達は送った。父王にも婚約破棄と、織姫と婚約したとの手紙は出している。きっと王城にはその知らせがすでに届いているはずだ。
太政大臣が頻繁にこちらに足を運んで、織姫に無体を働いているということも、それゆえに彼は婚約者として不適切であるという訴えも、ミレニウ・レガテュールに届くはずだ。
子煩悩だと言う国王がその知らせを聞いたら、きっと腹を立てて婚約を解消するだろう。
準備は整った。だから、やっと助けに来れた。待たせてしまって申し訳無かったが、これでもう大丈夫だ。
マシュー王子は、心の底からそう信じている。
ベッドの上に散らばる黒髪が、星明かりを反射して輝いている。ごくりと生唾を飲み込んで、更にベッドに足を進める。
こちらに背を向けて横たわる織姫の肩に触れようと、その手を伸ばした。
「迎えに来たよ。やっと一緒になれるね」
その指先が織姫の肩に触れそうになった瞬間、ヒュンと風を切る音がして、マシュー王子の指先を冷やした。マシュー王子の指と織姫の肩の間に、銃剣が差し込まれている。
その剣の先から銃身、腕と視線で辿っていくと、黒いメイド服を着た女が、マシュー王子の手を剣身ではたいて、片手でライフルを構えて睨み下ろしていた。
そのメイドは、王宮女官長にして、ドラクレスティ王家の墓守が一族当主、アミン=デイヴィス。
王家の眠りを守護する者。メイドでありながら、近衛の筆頭である女騎士。
「下女風情が、なんの真似だ」
「それは私のセリフだ、下郎めが」
「僕に剣を向けるのは、死罪に値する」
「貴様が織姫様に狼藉を働くも同罪だ」
言葉での応酬は平行線。ならば、次にぶつかり合うのは力。
後ろに下がったマシュー王子が、腰からスラリと剣を抜く。その剣には茶色の魔力が纏わり付いた。
マシュー王子は、二年生の魔法剣士学の首席だ。彼は剣も魔法も非常に優秀な学院生で、彼自身も実力に自信を持っている。
十分に魔力を練り上げたマシュー王子が、剣を左下に構えた時、パシュッとサイレンサーの無機質な音がした。続いてマシュー王子の腕に衝撃が伝わる。
彼の覚悟と実力をあざ笑うかのように、パキンと音を立てて剣が割れた。
ギリっと歯噛みして残された剣を捨てると、マシュー王子は魔法の詠唱を始める。
その場から一歩も動かず、アミンはただ指を絞る。
パシュッ。
パシュッ。
「ぎゃぁぁぁ!」
マシュー王子の両膝から血が溢れ、膝を抱えて絶叫しのたうち回る。それをアミンは静かに睥睨している。
「夜中に大声をあげて、近所迷惑だぞ。どこまでも傍迷惑なやつだ。両隣は不在のようだが」
溜息をつくアミンの足元で、すりっと衣擦れの音がした。アミンが下を見ると、織姫が見上げている。織姫が小声で囁いた。
「アミンちゃん、私いつまで寝たふりしてればいい? もういいんじゃない?」
「まだダメ」
「まだか……」
諦めた織姫は、素直に目を閉じて寝たふりを再開した。
のたうち回り絶叫するマシュー王子のそばに、アミンが歩み寄る。
「黙れ」
銃剣の剣先が、マシュー王子の頰を床に縫い付けた。彼の舌に触れる金属の味は、剣の味のみならず、溢れた血液が喉に流れ、動こうとすると頰を更に切り裂いた。
「あがっ、はへっ、げへぇ」
「やっと静かになったか。世話の焼ける餓鬼だ」
荒く息をして、脂汗まみれになり、恐怖に怯えた目がアミンを写す。マシュー王子の口元に生えている銃剣が、星明かりに銀色に光っている。
「織姫様、どうぞ」
銃剣を握るアミンの背後に、夢にまで見た美姫が立った。こんな時でも、織姫は美しく、白い肌に黒髪がよく映えて、その薄桃色の唇が、優雅に弧を描くのを、マシュー王子はぼんやりと見つめた。
その口元に光る牙が、夜の闇に浮かんだ。
「そんなに私のことが好きなら、私の下僕にしてあげる。死ぬまで、いいえ、死んでからもずっと、私のそばにいられるよ。どう? 嬉しいでしょう?」
いつものように微笑を浮かべた織姫が、マシュー王子の喉元に噛み付いた。
コンコンと控えめなノックの音が響いた。アミンがドアを開けると、焦燥した様子の黒犬旅団がいた。理一がドアの隙間から、チラリと室内を見やったのを、アミンがその体で遮る。
「なに? こんな夜中に」
アミンは普段通りのフランクな口調で尋ねる。
「織姫様は無事かと思って」
「無事だよ。何も起きていない」
「いや、でも……」
何か気になるのか、理一は納得できない様子でアミンを見るが、アミンはその表情を崩さない。無機質な声で諭すように言う。
「なにも、起きて、いない」
「……そうか、それなら良かった。夜分に悪かったね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
パタン、と問答無用に扉が閉められた。
理一達が顔を見合わせて、理一と安吾が唸るので、菊達が不思議そうにした。
「アミンさんが大丈夫って言うなら大丈夫でしょう?」
「いや、魔力が残ってたんだよね。織姫でもアミンさんでもないものが」
「はい。それに、血と硝煙の匂いがしました」
「……」
「ありゃ、踏み込むなって意味だろな」
「だろうねぇ」
よくわからないが、織姫が無事ならいいかと、理一達は諦めることにした。特に男子は女子寮に勝手に入ってきてしまったので、速やかに女子寮を出た。
その翌日から、マシュー王子が時々織姫のそばに侍るようになった。それはすごく気になるのだが、織姫はなにも言わないし、嫌がってもいないようだし、マシュー王子は織姫の言うことをよく聞いているし、なんだかマシュー王子は血の気が失せて気の抜けた人形のようになっている。
それでも学院生活は普段通りに過ごしているようで、マシュー王子の取り巻き達とは普通にしている。織姫の前でだけ、様子がおかしい。
ものすごく気になるのだが、なんだか聞いてはいけない気がした。
後日、定期報告の時にストーカー問題がどうなったのかと太政大臣に聞いたら、太政大臣は相変わらずの営業スマイルで答えた。
「それなら解決しましたので、問題ありません」
「もう解決したんですか? ストーカーですよ? そう簡単に改心しますか?」
「問題ありません」
「……」
「なにか?」
「いえ」
有無を言わせぬ営業スマイルに、これはやはり聞いてはいけないのだろうと理一は考えて、それ以上の質問を避けた。




