逢魔の森 アラクネ戦
菊がすぅっと息を吸った時、安吾のいた位置の地面が破裂した。菊が驚いて息を止めた時には、ガキンと安吾が光壁を斬りつけており、光壁にヒビが入った。
吸った息をはっと吐き出す。わかってはいたが、なんて攻撃力の高さだ。安吾の速度に対応することは難しいから、光壁の展開維持は絶対条件だと自分に言い聞かす。何度も振りかぶって来る安吾に警戒して、光壁を重ねがけした。
その菊の足元では、園生が地面に手をついていた。園生の淡く黄色い魔力が、地面から森に浸透していく。ざわりと森が蠢く。足元の草が伸びて、鉄舟と安吾の足を絡め取る。木々から触手の様に枝が伸びてきて、鉄舟を縛り上げる。鉄舟の動きは封じたが、一番厄介な安吾は触手を切り裂いて力任せに草を引きちぎって逃げた。
「むぅ、さすが安吾、手強いなぁ」
園生が苦戦しているのを見て、竜巻や衝撃波で安吾を吹き飛ばして、自由に動けない隙に捕まえてもらおうとするが、そもそも安吾に攻撃が当たらない。よし、安吾は放置だ。
園生は頑張って安吾を追いかけ回しているが、さっさと見切りをつけた菊は、もう一度息を吸い込んだ。そして、脳髄の奥に響き渡るほど透き通る様な声で歌い始める。
その歌は「目覚めのセレナーデ」。この世界の吟遊詩人達は、歴史や話題を歌にして伝えるだけでなく、歌に魔力を乗せて魔法的な効果をもたらす。菊の歌にあれだけの人が聞き惚れて、失神者まで現れるのも、その効果と言っていい。
それを知っていたのか、静観していたアラクネ達が動き出す。周囲に巣を張り巡らせて、その糸を伝って数えきれない数の子グモがやってきた。子グモがびちゃびちゃと深緑色の毒液を吐いて光壁を汚していくが、光壁に損傷はない。それに安堵して、より歌に力を込める。
徐々に安吾の動きが鈍くなっていく。鉄舟が抵抗をやめた。ついに安吾が枝の触手に捕まって、手足を緊縛された。園生は念には念を入れて、木の枝をぐるぐる巻きに巻きつけている。サビから終曲に向かう頃には、鉄舟も安吾も魅了から目が覚めた様子だった。
「なんじゃこりゃ!」
「苦しい」
「二人とも動かないで」
触手が二人を菊達のそばまで運んできた。甘い匂いがしていたから、おそらく匂いで魅了する。そう考えて男二人を風壁に閉じ込めた。子グモがびっしりと光壁に張り付いている。すごく気持ち悪いので、絶対に光壁を解除できない。
その向こうにいるアラクネの姿は菊からは見えないが、園生は小グモの隙間からわずかに見える様だった。
「アラクネ捕まえたぁ!」
「流石よ園生!」
園生が枝の触手で、アラクネの足の一本一本までギッチギチに締め上げていく。アラクネは小グモを呼び戻して触手を外させようとするが、子グモもついでに絡め取った。
お陰で少しだけ視界が晴れた瞬間、炎の渦が菊達の光壁を巻き込んで通過し、光壁に張り付いていた子グモが蒸発した。通過した炎の渦はアラクネまで到達し、枝の触手についた火がアラクネを火攻めする。
振り返ると背後には誰もいないが、炎の渦が通った軌跡が長く続いている。
「こんな芸当ができるのは理一ね」
「だろうねぇ」
子グモが一掃されたので、菊達は光壁を解いて出る。アラクネが炎に悶えて絶叫している。園生が枝の触手を集めて槍状にしたものを心臓に突き刺したのと、菊が風刃の魔法で首チョンパしたのは同時だった。
アラクネが動かなくなったのを見て、安吾と鉄舟を解放した。
「悪かった…」
「すみませんでした」
「いいのよ。それより糸を回収したいから、アレを解体して欲しいの。あたし達気持ち悪くて近寄りたくないのよね」
味方を攻撃してしまったことに、安吾と鉄舟はうなだれている。菊はさくっと笑顔で返して、二人に汚名返上の機会を与えると、安吾と鉄舟はすぐにアラクネを解体し始めた。
毒袋や魅了の匂い袋を傷つけない様に、慎重に二人が解体していくと、糸玉を吐きだす臓器を見つけた。そこからはみ出ていた糸を引っ張ると、スルスルと透明な糸が伸びてきた。それをぐるぐると巻き取っていくと、バスケットボールより少し大きいくらいの糸玉ができた。
その間に理一とクロも戻ってきて、力になれなかったことを謝罪した。それにも菊達は鷹揚に返した。
「いいのよ。正直な話、理一とクロまで取られなかっただけでもラッキーだったわ」
「本当だよねぇ。2人までアラクネに魅了されてたら、私達絶対に勝てなかったもん」
確かにアラクネ自体はそんなに強い魔物ではなかったが、もしこれが男だけのパーティだった場合、自分からアラクネに身を捧げに行って全滅していた可能性もあった。その可能性に、男達はぞっとして全身に鳥肌が立った。
「菊達がいて良かった…」
「お前らに足向けて寝れねぇ」
「ありがとうございました」
「うむ、よくやった」
なぜかクロは偉そうだったが、褒められた菊達は素直に喜んでおいた。
ミッションを終えて来た道を戻っていると、またしても安吾の肩に蜘蛛が止まった。一生懸命身振り手振りで安吾に何かを伝えている。
「うん? 森で遊んでいる間に、お母さんと兄弟が、いなくなった? ご飯がない。大きくなるまで、ご飯をください?」
どうやらこの蜘蛛はアラクネの子グモだった様である。思いがけず蜘蛛の仇になってしまって、なんだか良心の呵責を覚えた安吾は、「いいぞ」と子グモの同行を許していた。
それには菊達が難色を示していたが、子グモは安吾の言うことをよく聞いて、菊達から見えない様に安吾の上着の裾の中に隠れていた。