お出かけ準備1
インスリーノ辺境伯領は、東側をウィルシャー王国に接し、西側は逢魔の森に接している。逢魔の森はほとんど大国の規模をほこる大樹海であり、この世界の大陸西側の実に3分の1の面積を誇る。
故に、この樹海を国境線としており、このターゲス王国から西へ向かうことは困難を極めると言われている。
それでも逢魔の森は冒険者にとって金のなる木であり、インスリーノ辺境伯領をはじめとして、逢魔の森に接する地域は冒険者が多く集う。町には冒険者向けの商店が数多くあり、いずれも活気に沸いていた。それらの商店で冒険者活動に必要な物資を十分に買い揃えた理一達だったが、逢魔の森に行く前にもう一つ予定を消化した。
まず菊は親衛隊達に、逢魔の森に行くのでくれぐれも着いてくるなと忠告しに言った。菊の言葉に親衛隊達は悲壮感たっぷりに、菊に縋った。
「菊ちゃん、逢魔の森なんて危険だ!」
「そんなところに行ってはダメだ!」
隊長と副隊長の言葉に、菊は苦笑する。
「ありがとう。でも、そもそもあたし、冒険者だし」
「冒険者なんて、やめちゃいなよ!」
「そんな危険なことしなくたって」
「そういうわけにもいかないわ」
どこか困った様子で答える菊に、親衛隊達は察した。街を出る少し前から、まことしやかに言われていた噂があったのだ。
菊ちゃんは黒犬旅団のリーダーと出来ていて、しかもリーダーはバンダースナッチの契約者とも出来ているハーレム野郎だ、と。
これはジークの誤解を元に広まった噂だったが、この状況になって親衛隊達には真実味を帯びてきた。
(菊ちゃんはリーダーの女という立場が脅かされそうになっている。ここで冒険者をやめるなんて事をしたらリーダーに見捨てられてしまうから、夢を諦めても彼のそばにいたいのだ)
健気な菊の想い。そこにつけ込み利用するクソリーダー。それでも愛さずにはいられない菊。
いつしか親衛隊達は、菊のひたむきな想いに、勝手に思い込みで感動していた。隊長が涙を流した。
「そこまで菊ちゃんが覚悟を決めているんだったら、もう何も言わない。でも忘れないでくれ、俺達は一生菊ちゃんの味方だし、ずっと応援するから。だからまた、俺たちのために歌ってくれ」
「え? ええ、森から戻ったらそうするわ。ありがとう…?」
なぜ彼らが泣きながら悲壮な覚悟で応援してくれているのか、菊にはさっぱり意味がわからなかったが、とりあえずありがたく受け取っておいた。
続いて園生は、活動期間中のご飯を作り置きしていた。何を作るのか楽しみなのか、そばでクロも見守っている。ちなみに野外でご飯を作ることも多いので、園生はキャンプ仕様のクッキングセットを購入している。
火魔法を応用した魔法のコンロやオーブン、組み立て式の作業テーブルを広げて、レッツクッキング。
まずは異空間コンテナから、ピオグリタで収穫した野菜を取り出す。ぴかぴかに光るナスやパプリカ。ぱりぱりのキャベツ。瑞々しいブロッコリーやしゃっきりしたズッキーニ。横から覗いていたクロが、野菜を見て神妙な調子で言う。
「何故この野菜は光っておるのだ」
その野菜達は太陽光を反射して光るだけでなく、キラキラと金粉を纏うように輝いている。クロの当然の問いに、園生は小首を傾げて答えた。
「わかんなぁい」
「こんな得体の知れないものを使うのか」
「失礼しちゃう。私が頑張って育てたのにぃ。それに、この野菜すっごーく美味しいんだから」
「む、そうか」
美味しいと言われて仕舞えば、多少得体が知れなくても我慢できる。クロは大人しく見守ることにした。
トトトトと園生が神速の包丁捌きで、野菜をカットしていく。その断面も瑞々しく、そして輝いている。それを見てクロが気づいた。
(この光は魔力だな。園生が育てたことで魔力が注がれたのか? 異常に育ちが早いとも言っていたな)
園生は木属性の魔法の使い手でもあり、スキルに豊穣を持っている。園生が育てるだけで植物は生長を促進され、園生の魔力を吸収してやたらと栄養満点になる。その効果が金粉のような光として目視されている。
クロはなんとなくそう考えて、さらに想像を膨らませる。
(もし園生の育てた牧草や作物を、家畜や魔物が食べたら、それはどれほどの栄養価と美味を得られるのか…!?)
妄想で興奮が高まってきた頃に、いい香りがしてきた。園生が同時進行で作る一つはアクアパッツァ。もう一つはクロも大好きなトンカツ。慌ててクロは前足で園生の肩をタシタシと撫でる。
「ぬ、主人、主人、それをわしに味見させるのだ!」
「そんなに慌てなくてもちゃんとあげるからぁ、できるまで待って?」
「早く、早くするのだ!」
「もう、しょうがないなぁ」
じゅわぁっと揚げ上がったトンカツが紙の上に敷かれて、紙が余分な油を吸っていく。この世界の紙はわら半紙がほとんどなので、料理にも使えて良い。程よく油を吸ったところで、園生特製のソースをかけて、クロの前に置かれる。
クロは揚げたてのトンカツを一切れ咥え、ハフハフしながら味わって食べる。
(美味い! なぜこうも主人の料理は、わしを魅了するのだ!)
千切れんばかりに尻尾を振って、夢中になってトンカツを味わうクロに、園生も満足そうに笑って調理を続ける。
あっという間に完食したクロは物足りなさそうだが、「味見でしょ。これ以上はダーメ」と園生にあしらわれて、この世の終わりのような顔をしていた。
その頃、安吾はインスリーノ伯爵にお願いして、兵士の訓練場で訓練に混ぜてもらっていた。正直な話、黒犬旅団では安吾の相手ができる剣士はいない。安吾が剣の訓練を全くできないので、理一が頼んでくれたのだ。
それで訓練に混ぜてもらっている。
安吾の立ち位置は飛び入り参加の部外者という立ち位置なので、一応下手に出ていたのだが、話題の冒険者の一人ということで、兵士達からは興味深そうに見られていた。それは嫉妬もあり、尊敬もあり、疑念もありと様々な視線が絡んでいる。
そう言った複雑な感情をはらんでいたのは、こちらの小隊長殿も同じだったようだ。
「今日は伯爵様からのたっての希望ということで、冒険者のアンゴも訓練に参加する。まずはアンゴの実力を確かめないとな? マックス、相手をしてやれ」
呼ばれたマックスという兵士は、不敵に笑いながら返事をして出てきた。兵士達はこう考えていた。
黒犬旅団が有名なのはバンダースナッチの功績であって、こいつら自体は大したことはないはずだ。討伐だってほとんどバンダースナッチがやったに違いない。山育ちの色白が、まともに剣の訓練を受けているとも思えないし、ここらで一発本物の剣の味を思い知らせてやろう。
マックスの不敵な微笑からは、そういう感情がありありと出ている。安吾も鈍感ではないので、そういう雰囲気は感じ取っていた。面倒くさいとは思うが、「よろしくお願いします」と努めて事務的に対応した。
対峙して小隊長が開始の合図をすると、マックスは持っている練習用の剣に魔力を纏わせる。その魔力は大きく剣を包んでいて、彼が一角の剣士であることを物語っている。
それを見て安吾は唸る。
(彼らは魔力をああいう風に使うんだな。あんなに剣から魔力を溢れさせることに、どういう意味があるんだろうか)
安吾の持つ練習用の剣も魔力でコーティングされているが、刀を纏う魔力は緻密に繊細に刃に密着している。安吾はこれが最も無駄がないと思ったからだ。なので、マックスのやり方がどういう効果がもたらされるのかよくわかっていない。
マックスが身体強化を使った踏み込みで、一気に安吾に迫る。上段右肩から振り下ろされたマックスの剣を半身で避けて、わずかに安吾の胸を剣風が撫でる。マックスはすぐに切り返して中段から横薙ぎに斬りつけるが、全く手応えがない。マックスの目の前には、すでに安吾の姿はなかった。
「次は自分から行きます」
背後から安吾の声がして、慌ててマックスは飛び退る。安吾は正眼に構えたままそこにいた。それを見て初めてマックスは気づいた。
彼の立ち居振る舞いに、一分の隙も見当たらない。ここから先は安吾の領域。一歩でも踏み込めば切り刻まれる。どこから攻撃すれば安吾に刃が届くのか、マックスには想像もつかない。
安吾が動く。それはゆっくりとした足取りだった。右足をあげて、それが地面につく。その一歩にあわせてマックスは後ずさった。
仲間達からヤジが飛ぶ。飛び掛かれだと、ふざけるな。そんなことをしたらーー。
「あ」
「すみません」
小さく呟いた安吾が、気づけば眼前にいた。マックスの剣が弾かれて、ヒュンヒュンと回転して地面に刺さる。安吾がマックスの真横にいて、首筋に剣を突きつけていた。
小隊長の合図で安吾が離れて、マックスは自分の呼吸が止まっていたことに気づいた。呼吸を再開した瞬間、どっと脂汗が溢れた。
(一体あれは…剣筋が全くみえなかった。足音も気配もしなかった。目の前にいたのに認識できなかった…この男は化け物だ!)
領兵ナンバー3のマックスをして、安吾の実力を量ることすらもできない。その事実にマックスが心の底から震撼しているのに気づけたのは小隊長だけだったようで、ほかの兵士はブーイングを飛ばしている。
それに真っ向から反撃したのはマックスだった。
「うるさい! それ以上アンゴを野次るのは俺が許さん! アンゴをバカにする奴は、俺が相手になってやる!」
仲間達も当然驚いたが、マックスの啖呵に最も驚いたのは安吾も同じだった。少し惚けた様子の安吾に、マックスは慇懃に礼を取った。
「無礼な態度を許してほしい。同じ剣の道を志す者として、俺が君から学ぶことは多いだろう。今日はよろしく頼む」
突然の態度の変化に驚きもしたが、マックスの騎士らしい誠実さに、安吾も「よろしくおねがいします」と笑顔で返した。
ちなみにこの日、兵士達は一人残らず安吾にボコボコにやられた。