サウダージ
この世界の夜空は、どれほど数多の星で埋め尽くされても、主役となる月がない。だから、1月とかそういうものもなくて、多少の気候変動はあれど、日本のように四季を感じることはない。
宿のバルコニーで、星を見ながら安吾とともに酒を飲んでいた。夜空を見上げていたら、なんとなく数十年前のことを思い出した。
あの日もこんな夜だった。ここにはない月がまん丸に登っていて、星が綺麗だった。初めて彼女と夜を共にするその日、妻となる彼女に感謝の意味を込めて、「今夜は月が綺麗ですね」と言った。彼女は優しく微笑んで、「私は今日死んでも構いません」と返した。
夏目漱石が外国語を訳した時の愛の告白の言葉と、二葉亭四迷が外国語を訳した時の、返答の言葉。
そんな言葉を返してくれる人は、この世界にはいない。彼女も、子どもたちも、孫たちも、故郷の景色も人々も、もう出会うことはない。
鼻にツンとくるような侘しさ。こう言った感情をきっと、郷愁というのだろう。
「安吾、君の奥方はどんな人だった?」
「そうですね、小言が多くて心配性で。優しい妻でした」
「素敵な女性だ」
「ええ」
女は夫が先立っても、元気に余生を送ると言われている。反対に男は妻が先立つと、あっという間にダメになってすぐに後を追ってしまう。妻という存在は、本人が思っている以上に大きい。
理一たちは完全に死んだわけではないが、妻を失ったことに変わりはないのだ。はじめの頃は混乱していて気が紛れもしたが、慣れてくると現実に打ちのめされることも増えてきた。
それに理一は苦笑するしかない。
「近頃の僕たちは、全然ダメだな。随分ナイーブになっている」
「男は自分が思っているより、弱い生き物のようですしね」
「情けないね」
「全くです」
苦笑しながらそれぞれに減った酒を足す。こういう男同士の語らいが、今夜は心地よかった。
「僕も一度くらい、恋でもしてみたいよ」
「恋をしたことがないので? 殿下には?」
「彼女のことは愛していたと思うし、妻としても同じ役割を担うパートナーとしても、心から尊敬していたよ。僕の妻として、彼女は完璧以外の何者でもなかった。でも、あれは恋ではないと思うんだ。家の決めた婚約者だったしね。君は奥方とは恋愛結婚だった?」
「そうですね、私は一般市民でしたから」
「羨ましいね。心を奪われるというのは、きっと苦しくも幸福なんだろう」
「そうかもしれません。狂おしいものですが、あれは良いものです」
青春の思い出にと、2人はグラスを点?突?き合わせる。しかしやはり理一は苦笑して肩をすくめる。
「こういうセンシティブな感傷を癒すのが、戦いという殺伐とした手段というのは、我ながら自棄になっているとしか思えないんだがね」
「そうですね。実益を兼ねているのが救いです」
「全く、今度の幽霊は、何がしたいんだろうね」
幽霊騒動が起き始めたのは、約半年前。その時の公演でトップ女優だった女性が、地下に誘われるように姿を消して、危うく攫われるところだったという。その女優は直前で難を逃れたが、その変わり身のように
女優の付き人が姿を消したそうだ。それ以降その女優は精神を病んで、二度と舞台に上がれなくなった。
「まるで、オペラ座の怪人だ」
「その怪人は、女優を攫って何をしたかったのでしょう」
「僕には理解できないが。ロクなことではないのは確かだ」
うら若き美貌の女性を攫うというのは、いかにも戯曲的であるが、どう考えても犯罪の匂いしかしなかった。後から入った若者たちが姿を消したのは、おそらく怪人の領域を侵犯したからなのだろう。
怪人は人間なのか、はたまた魔物なのか、それとも理一たちの想像もつかない何かなのか。その答えが返って来るのは、もういくらか先の話だ。




