代理的魔法入門
「読み終えたみたいだな。面白かったかい?」
そう私に無粋な問いかけをする眼鏡をかけた本読みはここ北沢古書の店主であり、私の師匠である北沢である。
そして今私が手に持っている本は、速読修行の課題図書として渡された『代理的魔法入門』である。
「東に日が沈む世界を見てきました。」
「なんだそれ」
私は『代理的魔法入門』をパタリと閉じた。
「この本から感じたことです。時間が逆に流れてるんですかね。あと黒猫。」
「魔法だから黒猫か。安直だな。」
私はいつもの通りに本の代金を支払った。
師匠は古書店にとって商品である古書に値札を付けない。だから私はいつも財布を裏返して、中に入っていた有象無象の小銭を師匠が座っている目の前の机にぶちまけている。
今回も慎ましやかな金を派手にぶちまけてやった。
「いつもお買い上げありがとうございます。そして、その払い方どうにかならないの?」
「なんともなりませんな。」
私は『代理的魔法入門』を片手に店を出た。
すると、店の前に堂々とお座りしているのは黒猫であった。
人としての知識、知恵に縛られない、魔法に最も近しいものとは。全く無用な大冒険の末に手に入れるものは、いつも全く無用なものであるということを知っている。
しかし、この猫にとっては私の無用な冒険の無用な結末を要するのかもしれない。
私は猫の前足に手を通して持ち上げた。依然として猫は堂々としておられる。
私は猫を脇に抱え、燦々と降り注ぐ赤外線センサーを出来る限り避けつつ帰路を辿った。
ここで私の住まい外見の詳細な描写は控えさせていただく。私を追跡せんと徘徊する輩がいるということでご了承頂ければ幸いである。しかし今回は特別サービスで間取りや内装を紹介させていただこう。
下宿民たる私の居住空間は四畳間にピッタリと収まっている。トイレは共同、風呂は近くに銭湯があるから気が向けば行く。部屋にあるのは流しとコンロと鍋。あとは西に向いた窓際に足の短い横長机と座布団兼万年床を設置している。普段はここで速読修行に励み、映画や新聞小説の原稿を書いている。あとは座布団兼万年床にて永遠的にだらだらと過ごすぐらいであろうか。
居住空間は以上である。ちなみに私が来る前はこの部屋は六畳であった。残り二畳分は、南の壁をご覧頂きたい。そこにはドンと壁が立ちはだかるが、なんだかよく分からない縦文字が横に徒然と並んでいるではないか。どうやら大小様々な本が雑且つ丁寧に積み上げられているようだ。
日本の明治維新前、夏目漱石が英国に留学する以前に、英国政府は窓税を民から徴収していたらしい。人々は課税を免れるために煉瓦などで窓を内から塞いだというが、夏目氏はそれに習い留学中に本を積み上げて窓を塞いだとか塞いでいないとか。
そう思えば私の部屋の本の壁も、近代英国を思い起こさせる、たいへん赴きのあるインテリアである。諸般した通り、窓は西側に空いているわけだが。
私は猫を横長机の左隣に設置し、座布団に座った。猫は堂々とお座りしておわせられる。
そうして私は机に向かって『代理的魔法入門』を改めて開いた。
○
魔法に最も近しいものは何か。
様々な書籍に置いて、魔法を扱う者は頭脳明晰、聡明叡知である事が求められる。森羅万象、人間倫理、宗教に関しての知識、知恵を深める事に人生を捧げ、魔法を体得するとされてきた。
それを踏まえれば、現代において魔法に最も近しい者は「学者」、学びを生業とする者たちである。
しかし、教育機関が古来よりも発達してきた現代において、魔法については衰退の一路を辿ってきた。証拠に今、我々が生きる現代日本では経済と秩序、科学が支配と発達を続けている。日進月歩、今、この瞬間もである。
こういった現代日本の世の流れにより、魔法を志す学者は、誕生すらもしなかった。そもそも学者になるほど賢いのであれば、魔法など志さず、目の前の世のため人のため、自分のためになる事に自らの時間を捧げることであろう。
魔法は衰退し、企業等によるプロダクトに求められるのは「まるで魔法のよう」というような魔法と似つかわしい魔法もどきである。
教育機関の発達によって産み出したものは、魔法を偶像とおいて利用することにより産み出した経済的余剰に過ぎない。
こうなれば人が魔法を体得することは大変に困難である。産まれながらにして人は皆、先人が造り出したシステムの上で生きるのであるから。人としての知識、知恵が魔法の体得を困難なものにしているのである。それは、こで長々と語っている我輩においては例外なのではあるのだが。
前述した点を踏まえれば、魔法使いとしての器を持つものは、日々発達を続けた経済や秩序、科学、教育機関の影響を受けず、人としての知識、知恵に自らを縛られない者である。
改めて問おう。
魔法に最も近しいものは何か。
○
普段通りに映画部の部室に行くと、大きな魔方陣が床を占領し、中心には黒猫とトカゲの尻尾が置かれていました。
南里先輩が「猫に生き血を捧げる」と言った時には「ついに動物虐待か」と、思われましたが、話を聞いていると、どうやら違ったようです。
先輩の右手にはなんとも怪しげな黒表紙の本が握られており、よく見ると白文字で『代理的魔法入門』と書かれています。
私、小松奈々子も、南里秀平の後輩として長い時間を映画部として過ごしてきた次第。いかにしてこのような状況になっているのか、本人に全てを語られずとも、私が語ってみせましょう。
南里秀平はいつもの通り、大学の帰りに寒川通りの外れへと足を運んだ。様々な古書店が軒連ねる古本市であるが、南里はいつも同じ古書店で本を読破する。その古書店こそが「北沢古書」である。
この古書店の店主、北沢は速読の達人であり、
「読む凶器」とも名高い『鉄鼠の檻』を4分ほどで完読してしまう、呆れた能力をもつ。
南里はこの北沢に中学時代から弟子入りしている。南里は北沢からの教えである「読むのではない、感じるのだ。」という、どこかで聞き覚えのあるような言葉を教訓にし、速読修行に励んだ。
速読に課す図書は北沢が選び、南里が買い上げるという形態であったため、南里は速読の修行ができ、北沢としては売上が付く上に、長年、在庫処分に困っていた本をお買い上げいただくわけであるから、師弟関係はいまだに続いている。
ただ、北沢の課す修行図書は在庫処分に困っていた本だけあって、ろくな本はなかった。
南里はそのろくでもない本を「読む」のではなく「感じる」ため、厄介なことに普通に読むよりも影響をうけやすい。
そして、今回選ばれた図書が『代理的魔法入門』だったというわけなのである。
先ほどの「魔法に最も近しい者はなにか」という問いは本の一節でしょう。そして南里先輩が出した経済や秩序、科学、教育機関、人としての知識、知恵に自らを縛られない者の答えが
「猫」であったわけなのである。
ここまでが今の状況に至るまでの経緯である。小松的推論も含まれますが、大まかには間違えていないはず。
先輩は魔方陣の中心に堂々とお座りしている「猫」に対して「トカゲの尻尾」と「自らの生き血」を捧げるらしい。
何が起きるのかはお楽しみ、私にできるのは映画部のカメラを回すことだけなのです。
○
私は私が描いた魔方陣の中心に立った。猫は堂々とお座りしている。コマツナ君は映画部のカメラを回している。
『代理的魔法入門』には「魔方陣の中心にて魔法に最も近しい者にトカゲの尻尾と自らの生き血を捧げるべし、さすれば代理的な魔法入門が成される」と書かれ、「魔法に最も近しい者」に関して、終始明記されず、「代理的な魔法入門」に関しても最後まで明記されなかった。
これでは本に影響されようとも影響されず、魔法を信仰しようにも信仰される引っ掛かりもないだろう。
ならば何故、たった今、私は猫に対して自らの血を捧げんとしているのか。
それは私が『代理的魔法入門』を「読む」ことをせず、「感じる」ことに徹底したためであろう。
私が『代理的魔法入門』に感じたものは、「猫」であった。終始「猫」を感じた。
それも「黒猫」である。なにゆえに「黒猫」なのか。しかし、確かに「黒猫」を感じたのである。
もしかすると「魔法使いといえば黒猫ですね」という、人としての知識、知恵が『代理的魔法入門』からの魔法体得を困難なものにしている可能性も否めない。
しかし、こうなると私は「黒猫」に「自らの生き血」を捧げずにはいられなかった。
『代理的魔法入門』にはご丁寧にも捧げられるための「トカゲの尻尾」が付録として雑に挟まっていた。水分もある程度残っていて、古書の付録の割には随分と新鮮であると感じた。
北沢古書を出るときに黒猫が堂々とお座りしていたもので、そっと捕まえた。生き血を捧げる準備は思いの外早く済んだ。
魔方陣の中心にて、私は自らの指に針を突き立てた。そして、慎重に、少し浅めに針を刺した。
まだ、血はでない。
「早くしてください」
コマツナ君は時に暴力的である。
振り向くとコマツナ君がカメラを左手に、右手で鉛筆を器用に、これでもかというほど削っている。
私は焦って深めに針を刺した。一瞬痛いが、血が出れば大したことはない。
私は魔方陣に、一滴、血を垂らした。
「…なにも起きないな」
そらそうだ。
長々と語られた通りであった。魔法は現代日本に置いては経済、秩序、科学の影の存在として、偶像としておくことで経済的余剰を生み出す物に過ぎない。「所詮は魔法も、バレンタインデーにチョコレートを売る菓子メーカーのマーケティングのようなものだ。」と、恨み節を魔方陣の中心に堂々とお座りをして言ってやった。
恨み節の先には猫が喋ってビックリしたような顔をしているコマツナ君と、血がでている指を舐めている「南里秀平」、自分がいた。
○
ついに人間の体を手に入れた。
まさか、ここまで簡単だとは思わなかったが。
初めは何か、とうの昔に忘れてしまった。人が幼少の記憶がほとんど残らないのと同じだと思う。
もしかすると初めも猫だったかもしれないし、路傍に転がった石だったかもしれない。水だったかもしれないし、本当は人間だったのかもしれない。
鼠から牛、牛肉にされる前に鶏、鶏肉にされる前に犬、犬が老いたので猫、様々な種を転々としてきた。魔方陣の中心に入れ替わる対象を据え、「トカゲの尻尾」と「自らの生き血」を捧げることによって。
老いから、死から逃れ、若さを手に入れ、ただ生きることを続けた。
対象からすれば迷惑な話でしかないが、私にとっても簡単な話ではない。「はいはい」と言って魔方陣に座る者は、まぁいない。
なにゆえに魔方陣の中心に対象を据える必要があるのか、なにゆえにトカゲの尻尾が必要であるのか、誰がこんな事を決めたのか、我が輩にはわからない。もっとお手軽に、テレビを見ながらできるような方法にしてくれれば。
もしかすると「魔法と言えば魔方陣とトカゲの尻尾ですね」という魔法使いとしての知識、知恵がお手軽魔法への拡張を困難なものにしている可能性も否めない。
魔法のシステムに文句を言っても仕方ない。
人が古来より紡いできた様々な書籍では、魔法を扱う者は頭脳明晰、聡明叡知であり、森羅万象、人間倫理、宗教についての知識、知恵を生涯に渡って深める事によって魔法を体得するとされてきた。
だが我輩は、肺呼吸と同じように、魔法の方法を産まれながらに知っているに過ぎない。魔法が出来る事を当然と思ってはならない。
まずは感謝である。
我が輩は強い種への入れ替わりを羨望していた。我が輩も魔法使いとはいえ、その前に一つの命である。ただ長く生きるなど、何も成さない、死んでいるに等しい。人の言葉を借りるとするならば、「生活水準の向上」によって、生へのモチベーションを保った。
しかし、人間ともあらば余計に「はいはい」と言って魔方陣に座る者はいない。
こちらも魔法使いではあるが、魔法と言っても
入れ替わる方法ぐらいしか知らない。当然ながら話し合いが他種族とできる訳もなく、腕っぷしだと「猫」が限界であった。
しかし、私も伊達に長生きしているわけではない。
私は長い時間を犬や猫として、「人間」の観察に捧げた。そして人間の言葉を体得したのである。そう、「人間」と入れ替わるために。
言葉が通じれば腕っぷしに頼るまでもない。
外国で道を尋ねるように「すいません。血を捧げるので、ちょっとこの魔方陣に座っていただけませんか?」と一声かけるだけである。
今思えばそんなに簡単な話なわけがなかった。
子供なら簡単に座るだろうと声をかければ号泣して走り去り、大人に声をかけたところ、危うくどこぞやの研究機関に持ち込まれるところであった。
どうやら人間は、今にも血を捧げんとする猫が乞うても、トカゲの尻尾が据えられた怪しげな魔方陣の中心には座らないようである。
語っていて思うが、当然だ。
私は計画を変更した。そもそも「猫」が「乞う」から警戒されるのである。猫としての姿かたちを隠し、人間として人間を扇動する方法を考えた。それが『代理的魔法入門』である。
人間は危機回避能力が高い。それは言葉によって古来から紡がれてきた書籍による蓄積された知識、知恵から為るものであろう。
しかし、逆を言えば、人間は書籍に対しては無防備になりがちである。書籍からの知識、知恵を元に行動をするのならば、書籍による人間の扇動も可能なのではないか。
私は見かけをただ座る猫を装うために、人間から血を捧げるように仕向けた。人間が魔法に対して如何に道を外したか、現代日本における魔法の有用性を説き、学びを生業とする「学者」に対しての私なりの皮肉も文字にぶつけた。
「魔方陣の中心にて魔法に最も近しい者にトカゲの尻尾と自らの生き血を捧げるべし、さすれば代理的な魔法入門が成される」と書き、魔方陣の描き方を詳細に示した。
特筆すべきは「魔法に最も近しい者」について最後まで明記しなかったことであろう。この表現によって人間の探求心をくすぶった。事実、人間は「猫」である私に対して血を捧げ、私の「代理的」に「魔法入門」を成してくれたわけであるから。
この文章構成能力は、控えめに言って天才であると言わざるを得ない。これを略して文才と呼ぶのだろう。
我が輩は猫の身軽さを活かし、凄腕のアクションスパイさながらに適当なビルに忍び込み、適当なパソコンの適当なソフトウェアによって『代理的魔法入門』の文を入力した。
そして同日に製本工場に持ち込み、巧みに製本機械を操ることによって『代理的魔法入門』は書籍として完成したのである。本には付録で、新鮮な「トカゲの尻尾」を挟んでおいた。
「あ、トカゲの尻尾付いてるなら、せっかくだからやってみようかな」という気にさせるためである。
そして、我が輩の言語修行場であった「北沢古書」の図書の一角に忍ばせたのであった。
○
「と、いうわけだから。すまないが君の体はいただいていく。」
南里先輩は猫に向かって言った。
「そうか」
猫は南里先輩に向かって言った。
「いや、いいんですか?」
私は猫に言った。
私には「と、いうわけ」がどういうわけかわからず、「そうか」と言っている猫はなにに納得しているのかわからなかった。
話の流れからすれば、「南里先輩」が言葉を話す「猫」の体を乗っ取ったということになる。
あれ?ということは目の前の「南里先輩」は「猫」ということになって、「猫」は「南里先輩」であって、つまり「猫」が「南里先輩」の体を乗っ取ったのであって、「猫」に血を捧げたのが「南里先輩」だったから「南里先輩」が「猫」で「猫」が「南里先輩」で「猫」が「南里先輩」が「猫」「南里先輩」「猫」「南里先輩」……
「…ん…ツナくーん…コマツナくーん」
…私をコマツナと呼ぶ人は南里先輩しかいない。しかし、私を起こしたのは人ではなく猫であった。そして南里先輩の姿はなかった。
「気絶するから驚いたよ。」
猫の姿をしているが、この猫は間違いなく南里先輩だ。
「私が気絶して驚くのに、自分が猫になっても驚かないんですね」
「猫になったぐらいで、てんやわんやとする私ではない。しかしコマツナくん、気絶するとは情けないな、何年私の後輩をしているんだ。」
「長年やってきました。しかし、本当に魔法が成功するとは。」
「コマツナ君が気絶している間に色々話を聞いておいたよ。どうやら奴は早く人間になりたかったらしい。あの本を書いたのもあの猫だった。どおりで本から黒猫を感じたわけだ。」
つまり、南里先輩は、まんまと、あまりにも積極的に、人間としての姿を奪われたらしい。
「これからどうするんですか?」と、私が尋ねると
「我が輩は猫である。」と言った。
「言ってる場合ですか」
「落ちきたまえコマツナ君、山の如く。奴が人間したいというのだから、好きなだけ人間させてやればいいじゃないか。」
そう言った時、「ついに人間卒業か」と、思われた。
○
人間になるのも、終わってみれば案外あっさりしたものである。
我が輩のそもそもの目的、活力源である「生活水準の向上」は、「猫」から「人間」となったことで、既に約束されたようなものである。
これからは現代日本の、経済の支配下における市場活動による生活の質の向上、拡大を成し、秩序の支配下における社会保障サービスを享受し、科学の支配下におけるスマートでインテリジェンスなエクスペリエンスをなんやらかんやらできるのだから。
しかし、現状に甘んじ、ただゴロゴロと過ごすようなことがあれば、それこそ猫と変わらないであろう。
動かねばならぬ。人として。我が輩は歩き始めた。
三歩歩いて思った、動くにしても人間になったばかり。右も左もわからない。ただ漠然と動くだけであれば、それこそ猫と変わらない。
我が輩は歩みを止め「どうしようか」と、つぶやいた。
どうやらここは学校のようであるし、ガラス扉に映る、なんともだらしのない若者の姿からして、おそらく私はこの学校の「学士」であろうと思われた。
学士であるならば為すことは一つ、勉学である。
私も永遠の時を生きる魔法使いではあるし、実際に長い時間を生きてきた。偉そうにモジャモジャと髭を伸ばしている学者よりも様々なことを知識、知恵としてこの左脳右脳の皺に落とし込んでいるつもりである。
だが人間としては全くの初心者。昨今の人間社会は情報社会であるというし、人間としての知識、知恵が人間にとって一生涯の基盤として機能するというのであれば、我が輩の場合は十生涯でも百生涯でも機能させることができるだろう。早急に知識を蓄積させ、損をするということは無い。
これまでの様々な種で蓄積された膨大な経験的情報量は森羅万象の域に達する。そして、人間によって発展を続けた多次元的な情報分析技術を学習、応用することによって、私個人の永遠とも等しい時間を支える思想的生活基盤が完成する。
そして、全生物に向け対話的に基盤を共有することによって、意思決定における支援、扇動を行い、全生物規模での持続可能な資源拡張を実現する。
我が輩にしか成せぬ知識の超長期的な発展、拡大によってこれを成すことにこそ、我が輩が魔法使いとして、永遠とも等しい時間を生きる意味があるのかもしれない。我が輩が奪った命の供養になるというものだ。
この地球と全生物の運命は我が輩の手に掛かっている。
「よっしゃ、勉強しよっ」
我が輩は大志を抱き、勉学に挑む覚悟を決めた。
「考え事は終わりましたか?」
と、急に右から声を掛けられたので驚いてしまった。どうやら少し前から隣にいたようだ。
「ああ、すまない。地球に対して我が輩が成すべきことを考えていた。して、君は誰だ」
「なんの冗談ですか南里先輩。横島ですよ」
○
大学放送部設備管理担当として、楽な仕事ではなかったが自分なりに要領よくこなしてきたつもりであった。
放送部の設備管理担当というのは創造性を必要としない、いわばお役所的位置にあった。
大学の学士会は「学士による自主的な大学自治」をスローガンに掲げており、学士会の管理下である放送部もその体制に従わざるを得ない。故に放送部の設備、備品も他部門、組織からの申請があれば期限を決め、公共物として貸し出すこととなっている。貸し出した設備の管理、帳簿記入などを僕が担当するわけである。
しかし、映画撮影の名目で貸し出したスピーカー二台とマイク二台が、数ヶ月前からとある部の貸し出しから返還されていない。言わずもがな映画部である。設備管理担当としては由々しき事態である。だが、貸し出しを行ったのが僕であると同時に、僕自身映画部の映画制作に携わっている折りに、自分で撒いた種とも言えなくもないのだが。
このままでは次回の学士会議において他部門からの集中攻撃は免れない。そうなれば割りを食うのは放送部、及び僕だ。その前に映画部長である南里先輩を見つけだし、マイクとスピーカーを回収しなければならない。
しかし、相手は南里秀平、神出鬼没であり、変わり者である。
本来、学士であり、映画部長である彼は、卒業単位の取得を目的として講義に出席し、映画部の撮影と称し様々な場所、時間帯に姿を現すべきである。
しかし、彼は出席すべきを出席せず、撮影と称すべきを称さず、姿を現すべきを現さない。
かと思えば、特定不可能な方法によって、取得せざるべき単位を取得し、某国スパイであることを称さざるべきを称し、現さざるべき場所、時間帯に姿を現す。
成すべきを成さず、成さざるべきを成す。それが南里秀平が神出鬼没で変わり者である由縁である。
そんな彼に「借りた物は期限内に返せ!」と言おうものなら、返すべきを返さず、返さざるべき借りを返されかねない。
そんな彼の恐ろしさから、彼に物を貸した組織、及び個人は貸与物の回収に消極的にならざるを得なかった。というか、普通の人なら彼に会うことすら困難であろう。
だが、放送部設備管理担当として、公共物の管理を担当している折りに、今回は必ず回収を果たさねばならぬ。成すべきを成さねばならぬのだ。たとえ、返さざるべき借りを返されたとしても。
私は学校の中庭に腰掛け、考えていた。前述したが、南里先輩は姿を現すべき場所に姿を現さない。南里先輩がいそうな場所に回収に向かうというのは結果本人から遠ざかることとなる。
ともすれば、彼が今、彼にとって姿を現さざるべき場所に姿を現すはずなのであるが。
そしてふと左隣を見ると、考え事をしている南里先輩が立っていた。
確かに彼にとっているべきでない場ではある。
南里先輩は考え事をしているようで、こちらには気が付いていないようである。
考え事を遮るのもどうかと思い、少し待っていると、「よっしゃ、勉強しよっ」と、学士として今さらな事を、左隣から唐突に叫ばれたので驚いてしまった。
「考え事は終わりましたか?」ついに私は話しかけた。
「ああ、すまない。我が輩が地球に対して成すべきことを考えていた。」
みなさん、彼が成すべきを成さず、成さざるべきを成すということを忘れてはならない。
彼はどうやら、地球規模の成さざるべき事を成そうとしているようだ。
「して、君は誰だ」
「なんの冗談ですか南里先輩、横島ですよ」僕は答えた。