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路地裏の薬屋

作者:

 薄暗い裏路地。賑わう表の通りがすぐそこにあるとは思えない程の不気味さが漂う場所。管理されずに捨てられたゴミが狭い道を塞ぎ、環境は最悪にも近い。犯罪など日常茶飯事に行われていることだろう。

 そこに一つ、壁に手をつき苦しそうに足を進める青年の姿があった。黒い髪に口元までを覆うマフラー。その瞳だけは薄明るい緑色をしていた。しかし、どこまでも暗い色で全身を纏めた姿。裏の社会に身を置いているのが一目で見て取れる。

 今にも倒れそうな程頼りない姿とは裏腹に、もう片方の手にはアタッシュケースの取っ手がしっかりと握られていた。何があろうとも、絶対に離さないという力が感じられる。


「っ、く……」


 青年の体が一瞬傾くが、彼は踏ん張って耐えた。呻く声同様、表情も辛さに歪む。

 彼の半身は濡れているように見えた。出会い頭に液体でもかけられてしまったかのように。しかし、アタッシュケースには一つの汚れもなかった。それは身を呈して守ったということ。


「……」


 青年は限界だった。踏ん張っていた身体から力が抜け、その場に膝をつく。気力などではどうすることもできない、劇物の影響。


「おっと、こりゃあまずいな……」


 朦朧とした青年の意識が最後に見たものは、自身を覗き込む、落ち着きすぎる瞳をした年頃の少女のような女だった。






 ランプの明かりだけの薄暗い部屋。ペンを走らせる音と、静かな寝息だけが聞こえてくる。

 所狭しと並べられた棚には瓶が置かれ、袋に入ったものも雑多に詰め込まれていた。それらを調合するためのものか、それらしい器具なども置かれている。まるで医務室のような。


「……」


 青年が目覚めて見たものの印象がそれだった。夜のような薄暗さは落ち着きを与えてくれるが、同時に己の状況についての焦燥感も現れる。


「……ここは、どこだ」

「ああ、起きるな起きるな、まだ寝てろ」


 高くもなく、低くもない、落ち着いた女性の声。

 首を動かした青年が見つけた女の姿。今は横顔しか窺うことができないが、ペンを動かしながら青年に向けて片手を雑に振る。起き上がろうとした青年を止めるように。


「お前は……?」

「お前達が薬屋と呼ぶものだよ」

「薬屋……路地裏の、薬屋か?」

「ああ、そうさ」


 書くものに片が付いたのか、女──薬屋はペンを置いて立ち上がり、青年の寝るベッドの側へとやってくる。

 暗い色の金髪を毛先の方で緩く束ね、横に流した髪型。澄んだ緑の瞳は、年頃の少女のような見た目を不気味な程に落ち着かせて見せる。口には白く細い筒のようなものを咥えていた。少々よれた白衣を脱ぎ捨ててしまえば不思議な雰囲気を纏った街娘にも捉えられてしまいそうな出で立ちである。


「具合は」

「悪くはない……」


 青年の顔の様子を見、触って確かめると共に、彼自身の確認も取る。彼女が最初に青年を見た時よりは具合も顔色もいいことから嘘ではないと分かったようだ。


「その、口に咥えているものは何だ」

「うん? あぁ……」


 青年が気にしていたのは薬屋が咥えていた白い筒。会話をする時もそのままだったため、気になっただけのこと。彼女が近づいて喋れば口の中からはからからと音が鳴り、甘い匂いが漂ってくる。

 特に気にした様子もなく、薬屋はそれを口から出した。先端には小さく丸い、薄く煌めく琥珀色のものが。


「ただの飴さ」

「飴……」


 青年は気が抜けた。薬屋だと言うからには恐らく、“そういうもの”にも通じているはずでもあるが、疑った青年はベッドに沈んだ。

 その気が抜けた声と様子に、薬屋は可笑しそうに笑い声を上げた。


「非合法な薬物だとでも思ったか?」


 うん、と薬屋は意地の悪い顔で首を傾げ、早合点が過ぎたと青年は嘆息しながらゆるゆると首を振った。


「残念だが健全極まりないものだよ。砂糖と水を煮詰めて冷やし固めただけの、ね」


 飴のついた棒を振りながら、薬屋は説明を終えると再び口の中に戻し、今度は噛み砕く。がりがりと音を立てながら、棒についた最後の欠片まで残さずに削り取った。


「お前もどうかな?」

「いや、遠慮しておく……」


 そう、と別段残念な様子もなく残った棒をゴミ箱に放り投げ、薬屋は机に戻り八角形の缶を開ける。固いものが中でぶつかっている音がすることから、残りの飴でも入っているのだろう。薬屋はもう少ないなと呟きながら、次を手にはしないまま缶を閉めた。

 青年は脱力したまま、側まで戻ってきた薬屋を他所に何かを探すように首を動かす。


「ケースがあっただろう……どこにある」

「お前の右側、ベッドの足に立てかけてある」


 薬屋が立っていたのは青年の左側。彼女はベッド脇の椅子に座りながら青年の向こう側を指差した。

 彼が気にするのも無理はない。そのケースは青年にとっては手放してはならないものであり、大切な荷物であったのだから。


「路地裏の薬屋、お前へ届けろのことだ。中身を確認してくれ」

「起きるなって言ったばかりだってのに……」


 薬屋の言うことも聞かず、辛そうにも起き上がった青年はアタッシュケースを持ち上げて差し出した。

 薬屋はその行動に舌打ちをしながらケースを受け取り中身を検める。手に取ったのは、ラベルのついた怪しげな液体の入った瓶。


「ほーお、ちゃんと来たか。ご苦労、運び屋」

「ああ……」


 今は天井からの明かりはついていないが、薬屋は瓶の中身を透かしながら立ち上がり、先程まで作業をしていた机の上へそれを置く。


「全く、連中も酷い事するもんだよ」


 器具やら積み重なった紙やら。薬屋はそれらを端に退かしながら新しい器具を持ち出して揃えていく。

 これが作業台でもあるならもう少し綺麗にしておくべきだと眉は顰めながら青年──運び屋は、薬屋の愚痴のような独り言を聞き流す。


「これは薬にもなるけど基本は毒だからね。下手すりゃここら一帯使いものにならなくなるところだったよ」

「……俺の失態が関係するのか?」


 まあね、と薬屋は腰を下ろしながら瓶を片手で振る。蓋の部分だけを持つという、危険極まりない扱い方。

 運び屋はさらに眉を顰めることになった。


「これとお前にかけられた薬品は反応を起こして猛毒になるんだ。よく守ってくれたね、感謝する」

「いや、大事なブツだ。庇うのは当然のこと……」


 真面目だねぇ、と薬屋は瓶を置き、机に肘をかけて脚を組む。


「で、身体を起こしていてどうかな? 気分とか」

「問題ない、むしろ回復してきている」

「そ、まあお前も運が良かったよ。まさかウチの目の前で倒れてたとはね」


 器具は手元に出したが、それ以上の作業をするつもりはないらしく、薬屋は積まれた紙束の中から二枚程取り出す。


「おかげで処置も早くできたし、恐らく後遺症なんかもないはずだよ」

「……手間をかけさせた」


 苦々しく目を逸らした運び屋。薬屋は一つ、鼻で笑うようだが溜め息を吐き、取り出した紙の一枚を手に取る。


「私はね、これを使って薬を作ってくれって言われてるんだよ」

「……」

「ある裏の連中にね。どうも頭が危険らしい」


 薬屋が指先で揺らしていた紙は、その貴族からの依頼書でもあった。不規則に揺らされているため、運び屋からその文面を読み取ることはできなかったが、彼は訝しげに顔を顰める。


「運び屋に薬を頼んだから、着いたら手紙を寄越してすぐに調合しろってさ。態々取りに来てくれるらしい」

「何故それを俺に言う……いいのか? 依頼の内容を他人に」


 ここで薬屋は本当に鼻で笑った。依頼書を戻してついた肘、手の上に顎を乗せる。


「何、借りっぱなしが嫌だみたいな顔してるからさ」

「だから何故それが──そういうことか……」


 理解できない顔で言葉を続けようとした運び屋は合点がいったのか頭を抱え、薬屋は相槌を打ちながらもう片方の手をひらりと動かす。


「お前が私に介抱してもらった借り、私が“うっかり”話してしまった仕事内容を黙っててもらう貸し。これでゼロだ」

「ああ、分かった……」


 運び屋の指の隙間から覗く瞳が固く閉じられた。それを見た薬屋はよしよしと頷く。これで、今は絡んだ事情の糸は解かれた。


「さて、もう休んどけ。明日出て行く気満々だろ? 私としては全快するまで様子見ておきたいところだけど」

「いや、問題なさそうだ」


 言うと思ったよ。薬屋は席を立ち、部屋の片隅にある棚から白い粉の乗った紙片と、水を汲んで戻ってくる。

 横になろうとしていた運び屋は両手のものに訝しげな顔をした。さらに薬屋はその二つを器に入れて熱し始めたため、流石に彼は口を挟んだ。


「調合でも始める気か」

「いいや、飴を作っておくだけさ。調合は裏で一人、やるってもんだよ」


 器の中をスプーンで混ぜながら、薬屋は自然と片目を閉じてみせる。どこまでも掴みどころがなく紛らわしい彼女に、運び屋はいい加減休んでおこうと布団を被り直したところではた、と気づく。


「薬屋、俺の服はどうした」

「洗浄して乾かしてるところだよ、明日には間に合う」

「そうか、助かる」


 あいよ、と薬屋はさっさと寝ろとばかりに手を払う仕草をする。運び屋は今度こそ眠る体勢に入った。彼女が作る飴、火が燃える音と器の中身が煮立つ音を聞きながら。




 おそらく早朝。こちらは裏側だからか、入ってくる明かりは少なく、昨晩と印象は変わらない。ほんの少しだが白い明かりが多くなったように感じる、ただそれだけ。

 薬屋は机から離れた、棚のすぐ脇に置かれた椅子に座りながら眠っていた。棚に寄りかかり毛布に包まりながら。疲れも取れにくそうな無理のある体勢。目覚めた運び屋は後ろめたさを感じながら上半身だけ起き上がる。と、その物音で目が覚めたのか、薬屋は唸りながら伸びをした。


「うーん、凝るなぁ……」

「悪い、一つしかなかったのか」

「いやいい、いい、重症人から寝床ぶんどる程落ちぶれちゃいない」


 肩を回し、落ちた毛布を拾い上げ畳み始める薬屋。分厚く畳まれたそれを抱えながら別室に行こうとした彼女はドアの陰から運び屋に向かって手だけを見せる。


「作業しながら寝落ちてることなんか普通にあるから気にすんな」

「ああ」


 棚を開け、毛布を投げ込んだのかそれらしい音。次いで軽いが硬めのものを落とす音が複数。出てきた薬屋は腕に布の塊を抱えており、運び屋に向かってそれを投げ渡した。別段、驚いた様子もなく座ったまま器用に受け取った彼は、それが何か分かった途端にやや目を丸くした。

 全て、昨夜彼女が洗浄しておいたという彼の服だったからだ。


「……」

「終わった頃に戻るから」


 そう言い残し、薬屋はさっさと背を向けて別の部屋へと消える。完全にドアが閉められたのを確認した運び屋は、諸々の行動に頭を抱え込み深く溜め息を吐いた。

 昨夜からの彼女の行動で性格も読み取れるはずだったと。彼の早とちりもあったが、紛らわしい行動に突拍子もない話、薬屋と言いながら身の回りは綺麗とは言えず、整頓とは無縁の机。先程聞こえた複数の音はハンガーでも放り捨てた時の音だろう。

 どこかで分かっていながら、しかし他人の服を放り投げるとは思わなかった。

 運び屋はもう一度息を吐くとベッドを下り、適度に体を動かして解した後、いつもの身なりを整えに入った。


「お、ちょうどだったか」

「ノックぐらいしたらどうなんだ?」


 彼が黒い上着まで着込んだ最後、襟を直していた最中、薬屋は無遠慮もいいところ普通に部屋を行き来するようにドアを開けて入ってきた。両手には湯気の立つマグカップ。これは絶対蹴り開けたと、運び屋はもしもの方に対して指摘をする。だが彼女はからからと笑うだけだった。


「大丈夫だって、時間経ってから来たんだから──ほら」

「……はぁ」


 だめだと何度目かの溜め息を吐くも、運び屋は素直にマグカップを受け取った。中身は紅茶のようだ。甘い果実の良い香りが漂ってくる。

 今は必要ないとベッドの頭にかけたままの黒いマフラー。彼はベッドに座るのもどうかと、側にあった椅子に腰掛けた。


「表でも薬屋をやっていると聞いたが」

「ああ、やってる」


 特に目を合わせることもないまま、彼らは紅茶で身体を温めた。しっとりとした静かな雰囲気でありながら、どこか危険な空気が漂う。薬屋は伏せていた目を運び屋に向けた。彼の見定めるような鋭い視線とぶつかり合う。


「噂でも聞いたか?」

「ああ、随分と騒がせたようだな」


 薬屋は鼻で笑った。自分を嘲笑うかのように。


「最年少の天才が失踪、と思えば端で小さく薬屋なんざやってるもんだからな」

「裏にも通ずる者が表に関わっていいのかと聞いているんだ」

「まぁ、表では有り難い賞とかを戴いてるわけだし、もしものことがあってもその後の保障くらいはついてくるだろ」


 表側の善良な薬屋が失踪した時のみだが。関わる一般人に被害が及ばないとも限らない。だがこの数年、そうして危うい立場を貫いてきた彼女。どちらにしても店主と客という間柄は変わることはないだろう。

 薬屋は斜め上、天井の隅を遠い目で見つめて軽く息を吐いた。


「貴重で極めて重要な存在、裏でそんな風に言われているのを聞いたことはあるけどねぇ……」


 どこにも属さず、依頼があれば仕事をこなす。それは彼という運び屋にも当てはまることだが、死のリスクを考えるとまた違ってくる。危険な薬の解毒薬までも手掛ける唯一無二の薬屋。比べ、一種の手駒、捨て駒として扱われることもある運び屋。全く死の恐れがないとは言えないが、その差は歴然だろう。


「表では熱心な医学生なんかも話を聞きに来たりするしね、実に気持ちのいい連中だよ」

「お前……」

「何、裏の輩も正義を振りかざす連中に捕まりたくはないだろ、私も勝手は熟知してるつもりさ」


 手元のマグカップに視線を落とした薬屋の穏やかな笑み、運び屋が苛立ったように眉根を寄せれば、彼女はいつもの調子でひらりと躱してみせる。

 だがそれも一変、鋭く細まった目から裏の住人のそれらしい顔になる。


「──それでもまぁ、慢心はしないけどね」

「当たり前だろう」


 低く落ちる声。滲み出る立場への重みが現れているようだった。今やっと相応の顔を見せたと、運び屋は内心で安心するが、当然だと冷たく突き放す。可笑しさに鼻を鳴らした薬屋。ほんの一瞬でしかなかったが、彼女はまた掴み所のない調子に戻る。


「それじゃあ私からも聞いてみようか……お前はどうして運び屋をやってる? 捨て駒にされ殺されるリスクまで背負って」

「成り行きだ」

「はっ! 万能の言葉を持ち出しやがって……格好良く家を継いだとか言ってみろよ」


 薬屋はマグカップの飲み口を掴みながら眉を歪ませて笑った。脚は組んでいるが肘をつき前のめりになっているために、酔っ払いのような印象を受ける。


「これなら私も律儀に答えるんじゃなかったよ……」

「お前は謎が多すぎるからだ」

「へぇ、そんなにか」


 裏の社会にいる限り、真っ当な人間なんかいるはずもない。ましてや、謎が多いというだけで興味を持たれるなど。だが彼の場合は、彼の信念に基づいた彼女の不安定さを危険視してのことだったのだろう。


「さて、軽い朝食でも食っていくか?」

「……頼む」


 あいよ、と薬屋は昨夜と同じ返事で立ち上がり、先程出てきた部屋へと消えていく。運び屋は疲れたように脚を組み、膝の上でマグカップを支えると一息吐いた。






 パンくずが残される空になった皿。軽い朝食は本当に軽い朝食だった。焼いた食パンにハムとチーズを乗せ、スクランブルエッグを添えただけの。運び屋はここを出る用意をしながら、彼女の不摂生に溜め息を吐いた。


「まさか、ずっとあのような食事をしているのか?」

「そのまさかだよ、どうも調理時間が勿体無い気がしてね」

「偏るだろう、今までよく平気だったな」

「それを心配する奴らからいろいろ貰ったりするんでね、何とかなってる」


 だが彼女は決して料理ができないわけではない。人並みに、というやつだ。だが、その時間が彼女にとっては勿体無い時間であり、腹を満たせればそれでいいだけだった。

 何もかも食い違う感覚。運び屋は溜め息しか吐いていないと思った。


「私はお前程体が資本ってわけじゃないからさ」

「だが体が無事でなければ何もできない」

「まぁね、そうなんだけどさ」


 薬屋は皿を重ねてマグカップも引き取り、一度置きに行く。それが合図のように思えた。運び屋はマフラーを口元より上へと持ち上げ、ここを去るために空のアタッシュケースを手に取る。


「流石、用意が早い」

「薬屋、一つ聞かせろ」


 出口へと向かっているのだろう、薬屋は振り返りもしないまま間延びした声で次を促す。


「何故俺を助けた」

「何故ってお前──」


 薬屋はそこで振り返ると、後ろにあるドアに背を預けて足を交差させ楽に立つ。運び屋はどんな答えが返ってきても不思議ではないと、彼女の目を捉えて逸らさない。


「運び屋も貴重で重要なものだろ? お前の家は特に優秀らしいしな」

「他意はないか?」

「あるわけないだろ、それとも何か。恩を売ってその後を期待しているように見えるか?」


 いいや、運び屋は首を振った。この女に限ってそれはないだろう。薬屋はその返答に満足したのか、背にあったドアを開けた。言うまでもなくそこは薄暗い裏路地、犯罪の蠢く場所だ。


「もう一つ、言いたいこともあった」

「何だ何だ、別れ際くらい潔くしろよ」


 薬屋は壁にもたれかかり、一歩外へ出た運び屋に対し面倒そうな顔をする。

 振り向いた彼は口元こそ隠れていたが、不適な笑みを浮かべているのは感じ取れた。人の悪い笑みのそれ。


「まさか、あの薬屋が女だとは思わなかった」

「は、本当に今更それを言うか。この裏側じゃ何もかもが意味を成さないってのに」


 それは種族、性別さえも同様だ。下手をすれば個を識別する名前さえも意味を成さないだろう。通用する肩書さえあれば事足りる。

 これでは一種の仕返しだ。昨夜から散々だった彼が最後の反撃に出たように聞こえる。薬屋は呆れた様子だが、彼の意図することは理解しているように見えた。


「それだけだ」

「そうかよ、まぁ次は任務でしか会わないことを望むよ」

「ああ、それが一番だ」


 向かい合った二人の妙な笑みは既に消えた。ほんの一時、仕事で知り合っただけの他人の顔、だが相手の身を思う気持ちも忘れてはいない。


「じゃあ用心しろよ、運び屋」

「世話になった、薬屋」


 彼女は軽く片手を上げ、彼はマフラーを顔に押し付けるように、ただの別れの言葉を。そうして互いに背を向けた二人、薬屋はドアを固く閉ざし、裏路地には運び屋が去る足音だけが響いていた。

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