6
嫌な事を思い出した時こそ、温かい紅茶が助けてくれます
キャロラインは動けなかった。
ウォルターが自分に殺意を向けている事は、あの時にも薄々感じていた。だが、そう思いたくなかった……思い違いだと信じたかった。それでも彼は言い放った……静かに、優しい声で。
死んでくれ と
「ウォルター……さん」
一瞬杖先が青く発光し、青白い光の弾丸が放たれた。キャロラインにはその光の弾丸の動きが驚く程ゆっくりに見えたが、彼女の身体は動かなかった。弾丸だけでなく、周囲の時間の流れが遅く感じられた。彼女は直感的に理解した、これが死ぬという事なのだと。やがて光の弾丸は彼女の目前に迫り────
「……こっ……、のっ、おああああああああ───!!!!」
不意に聞こえた誰かの叫び声。それが聞こえたと同時に身体が何かに押し倒され、弾丸は青い流れ星のように路地を突き抜けていった。彼女の思考は停止しており、目の前で何が起きたのかを理解するのに暫くの時間を要した。微かに動く両目を動かし、彼女は自分を押し倒した相手の顔に焦点を合わせる。
紫色の瞳に、エイトの安堵した顔が映し出された。
「……動けるのか、驚いたな」
「ふざけんな、ふざけんなよ……あんた、今何しようとしやがった!!!!」
「ご想像の通りだよ」
「ははっ、ごめん。何言ってるのかわからねえわ」
「しかし、凄かったね今の動き。もしかして君、異人の血が混じってるんじゃないかな?」
エイトはウォルターを睨みつけながら立ち上がった。身体は魔法を受けて麻痺している筈だが、彼は気合でそれを跳ね除け無理やり身体を動かした。キャロラインの額に魔法が直撃するまでの一瞬に俯せの状態から地面を蹴り、その蹴った勢いと反動を利用して彼女を地面に押し倒したのだ。後頭部を地面に打ち付けないように、キャロラインの頭部を手で庇いながら……。人間の動体視力と反射神経、そして運動能力で成し得る芸当ではないがどういう訳か彼は根性でそのような無茶を成功させてしまった。
(やべぇ……体中に嫌な痛みが走ってやがる。こりゃ明日全身筋肉痛になるな……)
しかし動かない身体を無理に動かした反動か、エイトの身体にはかなりの負担がかかっていた。身体が麻痺していた事を抜きにしても、あの動きは少々無茶が過ぎたようだ。キャロラインの頭を庇った事で、地面と彼女の後頭部に押し潰される形になったその右手は負傷し、血が流れ出ている。だが彼は右手の負傷など気にも留めずにウォルターに立ち塞がり、怒りに震える声で言った。
「もう一回、言ってくれねえか?」
「何をだい?」
「こいつになんて言った?」
「ああ、『死んでくれ』と言ったね」
エイトは歯を食いしばり、ウォルターに向かって走り出す。眼鏡は静かに杖を彼に向け、軽めに衝撃の魔法を放った。その魔法はエイトの胴体に直撃し、彼は勢いよく吹き飛ばされる。
「がはっ!!」
彼の身体は動けずにいるキャロラインの傍まで押し戻され、そのまま大きく転倒してしまう。
「……エイト?」
「邪魔をしないでくれ。僕は君に用があるわけじゃないんだ」
「ふざけ……んなよ!!」
「……もういいよ、貴方は逃げて」
「諦めんの早いよ、もう少しガッツみせろ……!」
「無理だよ……私、もう……」
キャロラインは力なく地面に両膝をつき、か細い声で呟いた。彼女の瞳からは涙の筋が頬を伝い、その表情から彼女の心が完全に折れてしまっている事が窺い知れた。
「彼女に情が移ったのかい? まだ出会ったばかりだろう??」
「だからなんだよ!! だったら目の前で殺されてもいいっていうのか!?」
「確かに、君の言うとおりだ。まさか運び屋の君からそんな言葉が聞けるとは思わなかったよ」
「……今は違うだろうがッ!!!!」
「そうだね、開き直りも大切だ。新しい人生を立派に歩めてるようで何よりだよ」
過去を捨てて生きるエイトを皮肉交じりに称賛し、ウォルターは再び杖を向ける。その視線は冷たく、あの時に向けられたものと同じ 敵意に満ちた瞳 であった。彼の眼を見てエイトは思わず怯んでしまうが、自分のすぐ隣で動けなくなっているキャロラインの姿を目にした事で再び怒りが込み上げてきた。
「ああ、君に構っている暇はないんだった。すまないね」
「やめろ!!」
「彼女は、危険なんだ」
「何が危険だよ、今のアンタより危険な奴がこの世にいるか!!」
エイトの鋭い指摘を受けても、ウォルターは微動だにしなかった。それどころか溜息を吐いて彼に侮蔑の眼差しを向けてくる。その眼差しに、エイトは激昂する。
「そうかよ……このくそ野郎!!!!」
「君の相手をしている時間はない」
立ち上がろうとするエイトに向けて、ウォルターはもう一発麻痺の魔法を放つ。まだ痺れが抜けきっていない状態で二度目の直撃を受け、エイトの体は完全に身動きが取れなくなった。
「ぐ……あ……ッ!!!」
「おや、逃げないんだねキャロル。偉いよ」
「……」
「天国に行ったら、お父さんによろしく言っておいてくれ……」
そしてウォルターは、動けないままでいるキャロラインに杖を向けて魔力を込める。今度こそ確実に、彼女の命を奪う為だ。エイトは必死に動こうとするがその体はもう動かない。
「やめろって……言ってんだろうがぁああああー!!!!」
エイトの叫びも虚しくウォルターの魔法杖から数発の光の弾丸が放たれた……まさにその時だった。
ウォルターの死角───頭上から『黒い鞭』が伸び、弾丸を全て弾き落とす。鞭はまるで生き物のように激しくしなり、さながら黒い蛇のようにも見えた。
「……!?」
ウォルターは咄嗟に上を向いて杖を構える。彼の視界には路地を挟む建物の屋上から自分に向かって落ちてくる、黒い人影が映った。ウォルターは反射的に後ろに跳び、数発の魔法を放つがその全てが先程と同じように黒い鞭に弾き落される。人影は静かに地面に降り立ち、白い仮面の様な不気味な顔をウォルターに向けた。
「お前は……ッ!!!!」
その何者かは人に近い姿をしているが、全身が黒く禍々しいドレスのような外骨格と筋組織の如く不気味に脈動する黒い皮膚で覆われており、頭部だけが白く爬虫類の頭蓋を思わせる仮面のようになっていた。そしてその背中から伸びる、無数の黒い鞭のような『触手』。ウォルターは目を見開き、歯ぎしりしながら目の前に現れた異形に杖を向ける。
「……」
黒い触手の魔人は無言で彼を見つめ、背中から生える触手で地面や路地を挟む建物の壁を叩く。まるでウォルターを挑発しているかのように……。
「……立てよ、キャロライン」
「……立てないよ」
「立て、そんで走れ。走って逃げろ」
「……もう、走れないよ」
「いいから……逃げるんだよ!!」
エイトは痺れる身体を無理矢理動かす。全身を激しい痛みが襲うが、彼はそれに耐えて立ち上がった。エイトは痛みでふらつきながらもキャロラインに左手を差し出す。
「しょうがねぇなぁ……一緒に、逃げてやるよ……」
「エイト……私は
「うるせぇ、立て。弱音も泣き言も……逃げた先でいくらでも聞いてやる」
「私は!!」
「立てっつってんだよ糞ガキ! そんなに死にたいならお前の命と人生、俺が貰ってやるよ!!」
「え……」
「命が要らないんなら俺に何されてもいいよな!? 文句なんてねえよなぁ!!?」
エイトの言葉が、キャロラインの凍りついた心に突き刺さった。深々と突き刺さるその一言は彼女の心を溶かし、その瞳に再び光と怒りの感情を灯し出す。
「誰がっ……誰が死にたいもんですか!何勝手なこと言い出すの、貴方に貰われるなんて絶対に嫌よ!!」
「それでいいんだよ、糞ガキが!! わかったらさっさと────」
向かい合う二人の目と鼻の先を、青白い弾丸が通り過ぎる。
「ああ、失礼。ちょっとイライラしたもので……」
ウォルターはキャロラインの頭部を狙って放ったが、黒い魔人の触手に阻まれて射線が僅かに逸れてしまった。彼は思わず舌打ちし、立ち塞がる異形を睨みつけた。
「こっちだ……ああくそ、痛え!!」
「エイト……!」
「ああもう、いいから走れ! ちょっとぐらい足怪我しても我慢しろよ!!」
「……ッ!!」
エイトはキャロラインの手を取り、目的のバーを目指して走り出す。二人が近くの脇道に逃げた直後にスコット含めた協会所属の魔法使い達がその路地に足を踏み入れる。
「ウォルター……ッ、何だこいつは!?」
そしてウォルターと対峙する、触手の魔人を目撃した。彼等からはその魔人の背中しか見えなかったが、無数の触手が蠢くその悍ましい姿に皆一様に戦慄し、無意識の内に杖を構えた。
「スコッツ君! それ以上近づくな!!」
魔人はスコット達に一瞥もくれず、突然背中の触手を数本伸ばして彼等を攻撃する。スコットは手にした杖で風の障壁を発生させて攻撃を防御した。
「うおおおおっ!?」
「なっ、何だ!? 大丈夫ですか!」
「くっそ、何だよいきなり! 何なんだこいつは!!」
「スコッツ君! キャロル……いや、キャロラインは男と一緒にそこの脇道に逃げ込んだ!!早く追ってくれ!!!」
ウォルターはスコット達にキャロラインを追跡するよう叫び、魔人に向けて魔法を放つ。しかし彼の魔法は直撃する前に黒い触手に弾かれてしまう。スコットは触手の魔人をウォルターに任せて二人を追おうとするも、魔人の背中から伸びてくる触手が行く手を阻む。
「くそっ……後ろにも目がついてるのかよ!! この路地は駄目だ、一旦路地を出て表から回り込むぞ!!!」
「はい!」
「任せて大丈夫なんだな!?」
「早く行け!! 僕は、こいつに用がある……!!!」
スコット達が路地を後にしたのを確認し、ウォルターは呼吸を整えて再び杖に魔力を込める。そして目の前の魔人に話しかけた。
「……やぁ、随分と久しぶりだね」
「……」
「あの時から、130年か……。そうだね、君との決着もまだついていなかったね」
「……」
「どうして今になって現れたんだ。僕たちをからかっているのか?」
ウォルターがこの触手の魔人と対峙するのはこれが初めてではない。130年前、『マッケンジー家獣害事件』の当日にも魔人は突如として姿を現し、当時のウォルターに襲いかかったのだ。
その姿は事件の元凶である『黒い触手の獣』と類似しており、恐らくは近似種だと思われている。
「まぁ、言葉は通じないか……当然だよね!」
昂ぶる感情を抑えきれず、ウォルターは杖から小さな白い光弾を放つ。魔人は触手を伸ばし、彼が放った魔法を弾き落とそうとするが触手が触れた瞬間────それは爆発した。
「!?!?」
爆発の威力に怯み、魔人は後退る。先程の爆発で伸ばした触手はちぎれ飛び、そして魔人に大きな隙が生まれた。その隙を見逃さずウォルターは魔人に向けて光の弾丸を連発する。爆発による煙で視界が不明瞭になり、触手の魔人は煙を突き抜けてくる弾丸への対処が遅れ胸に魔法の直撃を受けた。胸部に小さな風穴が開き、魔人は苦しむような素振りを見せるがそこに先程の爆発する光弾が殺到する。
「!」
「こんな魔法は、130年前にはなかっただろう?」
魔法は魔人に命中し、凄まじい爆発を引き起こす。距離をとっていたウォルターですら身を屈める程の爆風が巻き起こり、黒い触手の破片が路地に散らばる。あの魔法の直撃を受けては、黒い触手の魔人もひとたまりもないだろう。
「さて、僕もあの子たちを追わないと……」
彼の注意が魔人から逸れた、正しくその一瞬だった。路地を包み込む煙の中から無数の触手が伸び、ウォルターに襲いかかる。完全に油断していた彼は防御する事も出来ずに、黒い鞭のようにしなる触手の乱打を全身に浴びた。
「ぐあ……ッ!!!?」
そして煙の中から伸びる、一本の『赤い触手』。触手は真っ直ぐにウォルターに向かい、その腹部を貫こうとした。彼は途切れそうになる意識を必死に繋ぎ留め、赤い触手に身構えた。
(駄目だ、この触手を受けたら……ッ!!!)
赤い触手を撃ち落とそうと、杖を構える。だが、真っ直ぐ伸びてきた筈の赤い触手は急に静止し、それと同時に煙の中から突き抜けるように伸びた二本の黒い触手が彼の額に重い一撃を見舞った。
「……ッ!!!!」
ウォルターは軽い脳震盪を起こし、膝から崩れ落ちた。あの赤い一本はフェイントだ。本命はこの黒い触手による攻撃であり、彼は見事に相手の術中にはまってしまった。その視界は激しく揺れ、暫く立ち上がる事はできない。煙の中から二本の触手が路地を挟む建物の屋上に伸び、それに引き上げられるように魔人は屋上へと姿を消した。
「……あの魔法の直撃を受けても、倒しきれないのか。化け物め……」
緊張がとけてしまったウォルターは地面で仰向けになり、曇天の空を見上げた。そして自分の不運と詰めの甘さを自嘲し、情けなさのあまり思わず笑い声を上げてしまう。
「ははははっ、畜生。笑えるよなぁ? クレインさん……僕はいつもいつも肝心なところで決められないんだ。はははは……」
ふと脳裏を過る、誰かの言葉。その言葉は今の彼にとっては呪いにも等しい一言だった。
「過去は昨日で終わった……か。その過去が、昨日から追いかけてきたらどうすればいいんだい……??」
ウォルターは杖を握り締め、揺れる頭蓋を手で抑えながら立ち上がる。そしてふらつく脚で路地を歩き出した。建物の壁に手をつけ、薄暗い路地の中を逃げる彼女達を目指して……
面白い事を思い出した時は、紅茶を飲むと悪化します




